鉄景 【一話完結】

大枝 岳志

鉄景

 風で折れた傘を路上に捨てた。春雨に打たれながら、バスに乗って工場へ出勤する。

 従業員三十人程の小さなガラス研磨工場。そこが俺の派遣先だった。

 勤務し始めて丸二年。毎日ガラスのサイズに合わせてラミネートフィルムをカットしての繰り返しで、これといったスキルは何も上達しなかった。他で使えるスキルなんて工場派遣の身分では得ようにも、そんな仕事自体が与えられる機会すらない。


 一度、社員が居ない時にラミネートフィルムを吐き出す機械の調子が悪く、どうしてもガラス幅にフィルムが合わなくなった事があった。

 社員を呼ぼうと思ったが、いちいち探すのも面倒だと思った俺は機械のフィルム吐出率を見よう見真似で弄ってみることにした。勝手は何となく分かっていたのだ。

 パネルに表示されている数値が何を示しているのかも理解出来たし、何処の設定が間違っているのかも一目瞭然だった。しかし、パネルを弄ろうとした途端に背後から怒鳴り声が響いた。


「おい、勝手な真似すんなよ! 派遣がイジッてブッ壊したらテメーん所に請求すっかんな!」

「すいません……あの、吐出率の設定が間違ってるみたいで」

「は? 何で分かんの? 教えられてないでしょ」

「あの、数値見て分かったんで」

「なら社員呼べよ。派遣が勝手な事すんなよ、なぁ? こっちがやれって言うまでやるな、触るな」

「すいません……」


 その時、首を傾げながらパネルを弄る副工場長の背中を眺めながら俺はこの工場で機械になる事を決意した。

「派遣」という最長三年周期で入れ替わる人間ロボット。

 俺は吐き出されてはラインに乗るガラスフィルムを、カッターナイフで切り続ける作業ロボットなのだ。


 今日も何の思い入れもない仕事をするべく、タイムカードを切り、狭いロッカールームに入る。

 すると何故か工場の雰囲気に違和感を覚え、胸がそわそわし出してからある事に気が付いた。

 工場内は人が居なければ、音もしないのだ。

 幾ら始業前でもこの時間になれば着替えに来る奴らが少なくとも二、三人はいるはずだ。

 毎朝独身中年の彩り豊かなトランクスを見るハメになるのが朝の日常なのだ。

 とりあえず着替えを済ませたが、工場内は電気が点いているものの、どこを探しても人の姿は無かった。

 休みだったか? いや、そんなはずは無い。

 事務所へ行ってみようかと振り返ると、事務所の壊れそうなドアが開いて人がゾロゾロと吐き出されて来た。

 皆が一様に、俺を見て小声で何か囁き合っている。

 すると、人垣を分け入りながら副工場長が飛び出して来た。


「上野君、何してんの?」

「え、あの、仕事の準備をしようと思って……」

「はぁ? 会社から聞いてるでしょ。何でいるの?」

「え、いや……」


 俺は事情が全く飲み込めず、曖昧に笑って見せたが反応は無かった。それどころか、工場の社員達は如何にも迷惑そうな表情を浮かべながら俺を眺めている。

 何だよ、コイツら。言いたい事があるならハッキリ言えよ。ムカついて泣きそうになった俺を見ながら副工場長は首を傾げた。


「あれ、もしかして聞いてない?」

「何がですか?」

「派遣は先週で辞めてもらうって、通達してあるんだけど」

「え、聞いてないです」

「コロナの影響で仕事減ってるんだわ。まぁ、居ても給料出せないから、帰って。制服はクリーニングして返して。お疲れさん」


 何だよ、それ。俺は怒りがフツフツと込み上げて来るのを感じた。そして、自分でも気付かないうちに声に出していた。


「聞いてないの? じゃなくて、同じ現場に居るんだから前もって俺に言ってくれらいいじゃないですか!」


 副工場長は眉を顰め、俺を睨んだ。


「知らねーよ。大体あんた、うちの雇用じゃねーし」

「そうっすけど……」


 悔しさで握り締めた帽子はあちこち穴だらけで、それを握る白手の手袋も使い回しの汚れが媚びりついている。これだけ長い間、機械になって頑張ったのに。最後は本当に壊れた機械みたいに捨てられるんだな。

 あまりに突然の出来事が受け止め切れずに俯いていると、周りから声が飛んで来た。


「部外者が入っちゃダメよー」「さよーならー」「だから派遣なんか辞めろって言ったんだよ」


 そんな声を浴びながら、俺は工場を後にした。

 派遣元の担当にすぐに電話をして確かめると、笑いながら「忘れてました」と謝られた。残りの契約期間の分は六割支給で給料を払うから怒らないで下さいよーと諭され、「はい」とだけ答えて電話を切った。


 バスに乗って自宅へ戻っている間に離れて暮らしている母親から電話が掛かって来た。他の乗車客が居なかったから電話に出てみると、抗いようのない老いを着古した声が聞こえて来る。


「智紀、元気してるかい?」

「あぁ、久しぶり。元気してるよ」

「今は休憩中かい?」

「あー、うん。どうしたの?」

「うん、あのねぇ。今月ちょっと困っちゃっててね、いくらか貸せないかな?」

「いいけど、まだパチンコ行ってるの?」

「家にいるとやることないんだよぉ。父さんがいればねぇ、いくらか話し相手になるんだけど。すぐに振り込めるかい?」

「……いいよ。すぐ振り込むよ」


 電話を切ると貯金残高三万二千円のうち、三万円を半ばヤケクソでアプリから振り込んだ。母に無心されるたび、いくらかの金を振込んでいるが返って来た試しは一度もない。裕福ではない年金暮らしの母だから、そういうものだと思って受け止めるしか無かった。


 家に帰ってからこれから先のことを考えていると、死にたくなって来た。新しい仕事を探す気力すら湧いて来ることもなかったし、こんな状況で希望が降って来るとは到底思えなかったし、万が一降って来たとしてもこの手がそれを掴むことは無いようにも思えた。

 結局夕方近くになってからふて寝をして、何度か寝たり起きたりを繰り返しているうちに朝になっていた。


 派遣先をクビになっても派遣元を辞めた訳ではないので、少なくとも何もしなくても六割の金が来月の末までは収入として得られる。それだけが唯一の救いだったが、それから先のことを考えようとすると、どうしても気分が重たくなった。いっそのこと、あの副工場長を殺してやろうとも考えたけれど、きっとあいつだって好きであぁ言った訳ではないはずだ。そう思うと少しは許せそうな気がして、俺は大人しく制服をクリーニングに出すことにした。その帰り道、母からショートメールが届いていた。


〈パチンコ、かたよ。おいしいおすし、たのみました、ありがとね〉


 いつものカタコトのようなメールに俺は「こっちはカップラーメンも高くて食えねぇよ」と独り言を呟き、路上に唾を吐いて家路を急いだ。


 クリーニングを引き取ってから派遣元へ電話してみると「上野さんが返却に行く形で」と言われてしまった。交通費は出すとのことだったので特にやることもないし、俺は仕方なく工場へ向かうことにした。

 車窓から眺める景色はどれもこれも灰色の建物だらけで、錆び付いて燻んでいた。色のついた建物があると大人の世界に迷い込んでしまった子供のように思えた。


 バスを降りて三分ほど歩くと見慣れた元職場が見えて来る。趣味の悪い浅いグリーンの門扉を抜け、敷地へ入るとちょうど休憩中のようだった。事務所へ顔を出してみたが誰もおらず、灯りも点いていなかったので俺は外の喫煙所へ行くことにした。外の喫煙所は事務方や現場のリーダー達の溜まり場になっている。


 工場の建屋に沿って歩いて行くと、自動販売機が並ぶ物陰から煙が流れて来るのが見えて来た。談笑混じりの声も聞こえて来て、その中に副工場長がいるのもすぐに分かった。制服や返却物に足りない物がないか立ち止まって紙袋の中を確かめていると、彼らの会話が聞こえて来た。


「安岡くん、もう慣れた?」


 この声は副工場だった。次に聞き覚えのない声が聞こえて来る。


「まぁ、いくらか慣れて来ました」

「安岡くんは話が出来るからいいよな。同じ派遣でもさ、この前クビにした奴は全然ダメ。話が出来ないんだもん。なんつーかさ、派遣ってあんな奴ばっかなの? って思っちゃうよな。勝手に機械は弄るしよぉ、喋らねぇし何考えてる奴かサッパリだったよ」

「えー、そんなヤバい人だったんすか?」

「ヤベーよ。俺なんか最後の日殺されるかと思ったよ。なぁ!? いきなり楯突いて来てさ、「クビにちゅるならちょくちぇちゅ言ってくれたっていいじゃないっしゅかー!」って泣きながら逆上しやがってさ。こっちはオメーがヤベーから派遣元通してクビだって伝えてるっつーの! なぁ!? あいつ泣いてたよなぁ!?」


 ギャハハハ! という笑い声と共に「泣いてた泣いてた!」「モノマネえっぐー!」「似てるわー」という声が聞こえて来る。 

 僕は紙袋をその場に置いて、灯りの消えた薄暗い構内へ入って行く。レーンの横の作業台の上からラミネートをカットする為の大きなカッターナイフを手にして、早足で喫煙所へ向かった。

 紙袋が置いてある所まで戻ると、調子に乗り出したのか副工場はまだ俺の物真似をしていた。


「とひゅつりちゅが合ってなかったんでちゅー! なんでテメーが分かるんだっつーの! ラミネート切らないで自分のクビ切られてるし! 家で寝てろっつーの!」


 俺は紙袋を掴むと、呑気に俺の物真似をしていた副工場長に向かって思い切り投げつけた。紙袋は勢い良く飛んで行ったものの、副工場長には当たらずに一脚の灰皿を倒して地面に落ちた。それと同時にそこにいた全員が一斉にこっちを振り返った。


「なんだよ、びっくりさせんなよ」


 副工場長は煙草を持ったまま冷え切ったロウように固まっていた。良く見ると煙草を持つ手が震えている。

 俺は右手にカッターナイフを持ったまま副工場長と向き合っていた。それに気付いた他の連中が後退るようにして立ち上がる。

「何持ってんだよ!」「やめろよ!」とか声が聞こえて来たけれど、俺にも、奴らにも、止める気なんてさらさらなかった。

 俺は真っ直ぐに副工場長目掛けて走り出して、その胸元を狙ってカッターナイフを突き刺そうとした。  

 すると、誰かが飛び出して来てその肩にカッターナイフが突き刺さった。スッと入るよりも重く鈍く、筋肉と血管を千切りながら刃が進んで行く感覚がプラスチックを通して手元に伝わって来た。骨に当たって刃が止まると、すぐに血が流れ始めた。止めに入ったのは見たことのない二十歳くらいの若者で、さっきの話からきっと俺の後釜として入った派遣社員のようだった。


「どけよ。あいつ殺すんだ」

「……そんなん、したらダメっすよ」

「うるさい。クズは殺さないと」

「あの人が……クズなのは分かりますけど……でも、ダメっすよ」

「人の命がどうとか、関係ないね」

「ちょ……違う。後の人のこと考えて下さいって言ってるんすよ……派遣はどうせみんな同じだって、危ない奴だって、思われちゃうじゃないっすか……何やってんすか、先輩……頼みますよ」


 副工場長は刺されている新人を置き去りにしてその場から逃げ出した。俺はカッターナイフを肩から引き抜いて、その後姿を全速力で追い掛けた。建屋に沿ってそのまま事務所の外から中へ入ろうとしていた副工場長は、足がもつれて途中で転んだ。これは確実に殺す機会が出来たと思い、馬乗りになって滅多刺しにしてやろうと思っていると、真横からタックルを喰らった。それからすぐに数人の男に取り押さえられ、身動きが取れなくなった俺は立ち上がって逃げ出す副工場長をみすみす見逃すことしか出来なかった。

 カッターナイフを奪われ、馬乗りなった連中に事務所へ連れて行かれた。抵抗はしなかった。その代わり誰とも口を利かなかったし、誰も声を掛けて来ようとはしなかった。

 その時間は経験したこともないほど凪いでいて、何よりも静かな時間だった。


 わずかな間の凪を壊したのは、遠くから徐々に近付いて来るパトカーのサイレン音だった。残り少ない時間の中でスマホを取り出してみると、母からショートメールが届いていた。


〈一万円、でいいから、貸せない?〉


 俺は素早く指元を動かして


〈貸せない〉


 と返信をして、ポケットにスマホを仕舞った。

 警察がゾロゾロやって来ると、俺はすぐに手錠を掛けられた。 

 固く冷えた鉄の塊が肌に心地良い、良く晴れた午後の出来事だった。

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