ロゴスの振動

黒猫のプルゥ

第1話

「毎日読書ばっかして、楽しいか?」

 わたしの不躾ぶしつけな問いに、七美ななみは猫のように目を細めて答えた。

「うん、もちろん!」

 午前の授業を終え、昼食をとったあとの休み時間。男子の大半はグラウンドへと繰り出していった。女子たちは教室の真ん中に集まってお喋りに興じていた。イケメン俳優がどうとか、K-POPのアイドルがどうとか、そんな話だ。正直、わたしはあんまり興味を持てないし、なんなら少し苦手意識すらあって、教室の端っこ、七美と隣り合った窓際の席で今日も時間をつぶしている。

玲愛れいあこそ、そんなものとにらめっこしてて楽しい?」

 そんなもの、とはわたしの手の中にある英単語帳のことだ。

「べつに楽しくてやってるわけじゃないし。いいだろ、英語の勉強は役に立つんだから」

「むっ、まるで小説を読むのは役に立たないみたいな言い方じゃん」

 七美は本に顔の下半分を隠して、目だけでこちらを睨んだ。

 そうは言ってないだろ、という率直な本音は胸にしまい、わたしは適切なフォローの言葉を考える。——と、ちょうど同じタイミングで教室中央の女子たちの会話も途切れて、あたりがしんとなった。

 ふいに訪れた静寂。その一瞬をついて鳴り響いたのは、聞こえてはいけない音だった。

 ヴヴッ。

 スマホのバイブレーションだ。どうやら、誰かが机の上に置いていたらしい。天板の下の空間に反響したおかげで増幅されてしまったような、そんな音だった。

「誰だー! いまのー!」

 教室の反対側で大きな声を上げて立ち上がったのは、うちのクラスの学級委員、理歩りほだ。クラス一小柄な体躯に備わった短い手脚で、音の聞こえた方へつかつかと歩み寄っていく。

「許可証を持ってる人がいるなんて聞いてないぞ、あたしは」

 そう言って理歩は女子の群れに噛みついた。

 うちの中学校のルールでは、携帯電話の持ち込みは原則禁止と決まっている。ただし、正当な理由があって保護者と担任が同意した場合に限り特別な許可が下りることもあるが、うちのクラスにそういうのはないらしい。

 自分より大きな容疑者たちに見下されながら、理歩は懸命に音の発信源を探した。周囲の机の中を漁り、女子たちのボディチェックまでした。が、スマホはどこからも出てこない。

「なあ、誰だと思う?」

 私は英単語帳を閉じて、後ろの席の七美を振り返った。

「うん?」

「スマホ。誰が持ってて、どこに隠したんだろうな」

 音が聞こえてきたのは確かに教室の真ん中からだった。反対側にいた理歩からも同じように聞こえたなら、あの集団の中に犯人がいるのは間違いないはずだ。

 周辺にものを隠せる場所は多くない。鞄は後方のロッカーにしまわれているから、机と椅子が置かれている以外はほとんど何もないと言っていい。机の中を探して、ボディチェックまでしても見つからないなら、わたしにはちょっと思いあたるところがない。

「ふぅん、ポーならあえて目立つ場所に置くんだろうけど……」

 七美は革製のブックカバーについた紐状の栞を本に挟むと、人差し指を下唇に押し当てて、現場の様子をつぶさに観察し始めた。その視線の先ではというと、相変わらず理歩が孤軍奮闘しているが、そろそろ自信を喪失しつつあるようだった。

「もしかすると、大事なのは隠したかじゃなくて、隠したか、なのかも」

 七美は声のトーンを落としてしかつめらしく言った。

「誰からって、それは理歩だろ?」

「そう。だから、理歩の特徴を踏まえた上で、玲愛ならどこにスマホを隠す?」

 わたしは身を乗り出して理歩をよく見た。彼女の特徴といえば、真面目で口うるさい学級委員であること。でもそれは捜索をする上で不利になる特徴とは思えない。なら——。

 めげずにひとりずつ問い詰める理歩を見て、わたしは気づいた、その身長差に。

「小さいな……」

 七美の言う特徴が身長のことであるなら、それに対する答えは一つしかない。なるべく高いところ、だ。

 考えうる最も高い場所は頭の上だけど、そんな曲芸をやっていたらこっちからまる見えだ。となると、次に高くてものを隠せそうなのは——。

「首の後ろ、かな」

「たぶんね」

 制服の襟に引っかけて首に立てかけるようにすれば、髪に隠れてしまって見つけにくくなるはずだ。普通、ボディチェックをするときは胸ポケットから下を探るだろうから、これは盲点になりうる。

 でも、それがトリックだとすると実行できる人物は限られてくる。中途半端な身長差では、むしろ目線の高さにスマホがくることになってしまう。だから、抜きん出て身長が高くて、かつ、スマホを覆い隠せるだけの髪の長さがなければならない。とすると——。

 いた。ひとりだけ条件に合致するが。よくよく観察してみると、少し緊張して、上半身を固定させているようにも見える。

「なるほどね」

 わたしは独りごちて、また英語の勉強に戻ろうとした。と、そのとき、穏やかじゃない声が教室中央から聞こえてきた。

「うちらじゃないなら、向こうの二人なんじゃない?」

 これは嫌な展開だ。苦し紛れの言い逃れに過ぎないが、既に万策尽きていたらしい理歩は、しぶしぶといった様子でこちらに向かってきた。

「きみたちなのか? スマホを持ってるのは」

 わたしたちの前まで来て、理歩は仁王立ちした。が、つい先ほど啖呵を切ったときと比べるとやや覇気に欠ける。高圧的ではあるものの、心ではここにないと感じているような、そんな揺らぎを垣間見た気がした。

 さて、どうしよう。このまま大人しく尋問と荷物検査を受けるのは少し面倒だ。わたしはあまり真面目な生徒でもないから、問題のある持ち物が見つからないとも限らない。かといって、ここで真犯人を指摘してしまうと、クラスの三分の一を敵に回すことになりかねない。どちらかといえば、調べられる方がまだましか——。

「ねえ、理歩はスマホのバイブレーションがどういう仕組みになってるか知ってる?」

 七美が藪から棒に言った。

「え? いや……」

「スマホの中には小さなモーターが入ってて、その回転軸に偏った重りをつけることで、遠心力に振り回されて振動するんだって」

「はあ、そうなのか」

 わたしには全く意図の分からないやりとりだ。でも、こういうときの七美は静観するのが一番だとわたしは知っている。

「振動といえば、わたしたち人間やスマホも含めた全ての物質を構成する素粒子は、あまねく振動しているよね。そして、その位置と運動は確率的で、同時に値を決定することができない。『不確定性原理』っていうんだけど、つまり観測されるまでは状態の重ね合わせでしかないってこと。このことを批判した思考実験として、『シュレディンガーの猫』っていうのが——」

「あ、それは聞いたことあるな」

「でしょ? それでね——」

 七美の小難しい話は続いた。わたしはすぐに理解することを諦めたが、理歩はなんとかついていこうと脳をフル回転させているようだった。しかし残念ながら、頭の上には疑問符が浮かんで見える。

「——つまり、超えられないはずのエネルギー的障壁の向こう側に粒子が存在する確率もゼロじゃない。これは『トンネル効果』と呼ばれる現象で、だからもしかしたら、素粒子の集合体であるスマホがこの量子トンネルを通って壁をすり抜けてしまったということも、ありえなくはないのかもね。——ところで、理歩が聞いた音は本当にスマホの音だった?」

「ん、そうだったと思う、たぶん……」

「実はスマホの音じゃなくて、この音だったりしない?」

 七美は革のブックカバーを机に擦り付けるようにして、ぐぐっと細かく震える音を鳴らした。似ていなくもないが、普通は聞き間違えたりしないだろう。ところが理歩は、量子がどうとかいう難解な結論よりは、よっぽど簡単なこの答えに飛びつきたくなってしまったようだった。

「そうだな。悪い! 勘違いだったかもしれん、あたしの」

 やや腑に落ちないような顔をしながらも、理歩は逃げるように引き返していった。見送っていると、ちょうどすれ違うくらいのタイミングで、女子の集団のうちひとりがこちらに向かって拝むように両手を合わせるのが見えた。例の、長身長髪の娘だ。やはり推理は正しかったらしい。

「で、さっきのは本当なのか?」

「なんのこと?」

 七美はとぼけたように訊き返した。

「スマホがトンネルを通って消えてしまった可能性があるとかなんとかいうやつ」

「まさか。量子力学の理論をそのまま現実に拡張できるわけないじゃん」

 つまり理歩はナンセンスなことを理解するために頭をしぼっていたわけか、かわいそうに。とはいえ、わたしの思いつく限りではこれがいちばん丸くおさまる結末だった。

「まあいいや。とにかく、よくやった、七美」

「ふふん。推理するだけじゃなくて、解決するまでが探偵の仕事だからね」七美は悪戯っぽく笑った。「ところで、どう? 読書もたまには役に立ったんじゃない?」

 それはブックカバーのことを言っているのだろうか。それとも、得られた知識のことを指しているのだろうか。

 でも、そうだな。わたしも明日ぐらいは、英単語帳を小説に持ち替えてみてもいいかもしれない。


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