期待通りの笑顔
伊賀谷
本編
「きみは将来どんな仕事がしたいんだ」
「……えっと、探偵とか」
母親と一緒の三者面談でおれは担任の質問に答えた。この手の質問には反射的に「探偵」と言うようにしている。テレビや映画で観た探偵のイメージがなんとなく格好良かった影響があるのかもしれない。それに誤魔化すのにはちょうどいい。
「この子はいつもこんなことばかり言うんですよ」
母親がその場を取り繕うように、いつもより上品に笑った。
「それじゃあ法律の勉強をしないとな。でもこのままだと大学の進学も厳しいぞ」
真剣に対応してくれる担任に対して可笑しいような、申し訳ないような気持ちになる。
高校での二年間は部活に明け暮れた。公立高校の弱小サッカー部では一度も地区大会の一回戦すら突破できなかった。当然、勉強も疎かになっている。
四月からは高校三年生になる。
自分の人生はこのままでいいのだろうか。
窓の外には校庭と冬の空が見えた。
雲の向こうで頑張って温もりを送ろうと頑張っている太陽がうっすらと見えているけど、厚い雲に遮られて温かい陽射しは校庭まで届いていなかった。
明日、もし世界が終るとしたら。
昨日の夜もそんなことを考えていたら朝になっていた。
暗闇のトンネルの中を走って来る地下鉄の眩しいライトが、麻痺したようでどこか浮遊感を感じている脳を突き刺してくる。哲学者を気取っていたおれを現実に引きずり戻す。
乗車の定位置であるホームの一番後ろに立ち、電車が駅に入ってくるのを眺めている。
高校二年の最後の大会も終わっているのに朝練のために朝早い時間に通学する毎日。習慣もあるけど、部活をやめて将来の進路と真剣に向き合うことから出来る限り逃げていたかった。
――おれの人生に一発逆転はどうやらなさそうだな。
十七年の人生で自分の限界を感じてしまうなんて、現実とはこんなにも厳しいものなのか。
電車が停車して最後尾の車両の扉が開く。
だれも乗っていない。
――今日はあの人はいないのか。
今日は二月十四日。バレンタインデー。
たまに、どこか手前の駅から乗って来る女性。この時間のこの車両に一人だけで座っている。
名前を知っているわけがないので、おれは心の中で「あの人」と名付けている。
あの人は大人の女性だ。大学生くらいか。
おれが降りる駅の先まで乗って行くあの人は、いつもほとんど寝ている。
時おり、はっと目が覚めては周りをきょろきょろと見て、また寝入ってしまう。
――あの人もおれと同じで、人生に絶望しているのかな。
夜の仕事でもしているのかなどと勘ぐってしまう。そうするとネットや友達から見聞きした情報から妄想がいくらでも広がる。
ほとんど寝顔しか見ていないが、おれはあの人の顔を見るのがいつしか楽しみになっていた。
――どんな笑顔なんだろう。
バレンタインデーの今日、あの人が乗っていたら。もしかしたら……。
いや、そんな都合のいい話はありえない。夢を見すぎだ。去年と同じくクラスの女子からすらチョコをもらえないであろうおれに。
そんなことより通学時間は貴重な睡眠時間だ。
いつものようにおれは静かに目を閉じた。
車内にやわらかい光が満ちるのを肌で感じて、おれは目が覚めた。
この地下鉄は途中で地上に出る。
乗車した時にはおれ一人だった車内には、数人の乗客がいた。
――え。
座っている膝に乗せた鞄の上に上品にラッピングされた箱が置かれていた。
――これはバレンタインの……。だれが置いたんだ。
とっさに車内を見渡す。
向かいの座席で本を読んでいるサラリーマン。
車両中央の扉前に、ケースに入れたテニスラケットを持ってたむろしている三人の他校の女子高生。彼女たちも朝練らしくだいたいいつも同じ電車だ。
一番後ろの座席に座る老紳士。眠っているのか、舟を漕こいでいる。
おれ以外にこの車両にいるのはその五人だけ。
五人のうちの誰かが置いたのか。
――探偵になって推理してみるか。
意外にも冷静でいられる自分に驚いた。脳内で探偵になった自分を妄想している成果が出たというところだろうか。
まず、男がこんな可愛らしい箱を置くなんてことはないと思いたい。
そうなると女子高生たちか。「いつも同じ電車に乗っていますよね」なんて、まさかの他校生徒からの告白。顔がにやけそうになるのを抑える。
――落ち着け。おれは探偵だ。クールに決めるぜ。
もしかしたら、この箱を置いた人はもう電車を降りたのかもしれないし、他の車両に移動したのかもしれない。
探偵気取りでわざとらしく難しい顔をしていたおれは向かいの座席のサラリーマンと目が合ってしまった。
恥ずかしいところを見られた気持ちがあるが、話しかけるならこのタイミングだ。
「あの、すいません。これ、だれが置いたのか知ってますか」
膝の上の箱を指さす。
「え。わたしが乗った時からきみの膝の上に置いてあったよ」
サラリーマンは、「いいねえ、青春は」と言った顔だ。
となるとサラリーマンより先に電車にいた人物が怪しいということになる。
――となると。
次は老紳士に目を向けてみる。たしか老紳士はいつもおれが乗車する駅のひとつ先の駅から乗って来るはずだ。
老紳士はこちらを見て微笑んでいるじゃないか。
――なんだ。
老紳士はおれに向かってゆっくりとうなずいた。
――おじいさん、なにか知っているんですか!
立ち上がってそちらに向かおうとした時には、老紳士は笑顔のまま電車を降りて行った。
音を立てて扉が閉まる。駅に停車していたのに気づかなかった。
――唯一の手がかりを失っちまったか。
証拠品を扱うように、指先で箱をつまんで目の高さまで持ち上げてみた。
いろいろな角度から眺めていると、三人の女子高生が視界に入った。
二人は口を開けて笑っているが、一人は上目遣いでおれを見ている。
――え。
慌てて目を逸そらす。しばらくしてから、またそっと目を向けてみると、その女子高生はまだおれを見ていた。
――まさか! きみなの。
これはミラクルだ。ついにおれにもバレンタインチョコをくれる女子が現れた。
クールな探偵の設定など頭の中から消し飛んでいる。
――よし、彼女にお礼を言おう。名前くらいは聞かないと。
だけど。体が動かない。彼女に近づけない。
数年間ほとんど女子と話していないおれは、こういう時にどうすればいいのかわからない。
――今ここで立ち上がればおれの人生は逆転できるはずだ!
心の中で叫んだ。いつのまにか汗でびっしょりの掌を膝にあてて立ち上がろうとした。
「まもなく○○駅に到着いたします」
女性の車掌アナウンスが無情にも流れた。おれが降りる駅に到着したのだ。
そしておれは律儀に電車を降りた。一駅乗り過ごしてでも彼女に話かけるべきだっただろう。
結局、おれは逃げた。探偵にすらなれないようだ。
やっぱりおれの人生に一発逆転なんてありえないんだ。
――こんな世界なら明日にでも終ればいい。
でも今、手に持っている箱は本物だ。
変に舞い上がってしまったが、あの女子高生が置いたとは限らない。
――結局、この箱を置いた人は分からずじまいか。
せっかく巡ってきたチャンスも活かすことなく終わるのか。
発車メロディが鳴る中、降りたばかりの最後尾の車両をしょんぼりと眺める。
「いってらっしゃい」
女性の声に振り向くと、車掌服を着た「あの人」が立っていた。
――え! なんで。
あの人は車掌さんだったんだ。時おり同じ車両に乗っていたのは夜勤明けの帰りだったのかもしれない。
あの人がおれの右手を指さす。
「あ、これ……」
手に持った箱を見せた。
あの人は笑顔でうなずいて、車掌席に乗り込んだ。
おれは想像する――。
眠っているおれしかいない最後尾の車両を。そうだ、もしかしたら老紳士はいたのかもしれない。
車掌席から出てくるあの人を。
おれの膝の上にバレンタインのチョコをそっと置いてくれた姿を。
――人生に絶望するのはまだ早いかもな。
おれは発車したあの人の電車を見送った。
期待通りだった笑顔を見送った。
期待通りの笑顔 伊賀谷 @igadani
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