第二話 婚約破棄の方程式
「この場にて正式に宣誓しよう!
常軌を逸した宣誓がなされた――
それは王国の最高学府で行われた卒業パーティーにおける出来事だった。
今回が社交界デビューとなる貴族の子弟も多く参加していたし、主賓として王族から王妃と、昨年卒業した当の第一王子も招かれていた。また、悪天候のせいで遅れていたが、帝国からも貴賓がじきに到着する予定だった。
要は、最高学府で身につけた知性や品性を振舞って、後々の為の良好な関係を築くべき最初の社交場にて、それを率先してみせなくてはならないはずの第一王子本人がまさかの暴挙に出たわけだ。
そんな馬鹿げた宣誓をしたマンデル王子の隣には、可憐な少女が付き従っていた。
卒業したばかりの男爵令嬢、ノーチェ・ウォルナートだ――
ウォルナート男爵家は成金ではあったが、王国はちょうど低迷期ということもあって、お金の力は強大だった。実際に、このパーティーでもノーチェに頭の上がらない伯爵、子爵家の子弟は幾らでもいた。
もっとも、その
パルドブルム侯爵家の当主は病床に臥しているとはいえ、その家格も、私財も、人脈も、王家への忠義も、何もかもが圧倒的だったからだ。
そもそも、王家がこれまでやってこられたのも、パルドブルム家の忠実な支えがあったからに他ならない。
もちろん、それだけに敵も多いのが貴族の常ではあるが――だからといって、ウォルナート男爵家がどれだけお金を積もうとも、パルドブルム侯爵家を追い落とそうとする企てに協力する者はいなかった。
たとえマンデル王子が若気の至りで愛人を囲もうとも、ターナがため息まじりに見逃してきたのは、そういった背景があったからだ。
少なくとも、そんな王子の派手な女性関係も、卒業後に現王の補佐をする中で、否でも応でも落ち着くはずだと考えていた。
それだけに、マンデル王子が愛人のノーチェをそばに侍らした上に、婚約破棄の発表を社交の場で行ったことは衝撃以外の何物でもなかった。王国転覆のクーデターが起こったと聞かされた方がまだマシなぐらいだ。
これにはさぞかし王妃も頭を抱えていることだろうと、誰もがパーティー会場の最上段の席に注目するも――
意外にも、王妃は口もとを扇で優雅に隠していた。
にやにやと笑っていたのだ。
その瞬間、会場は水を打ったかのように静まりかえった。
そこまで盲目的になるほどに、王妃の第一王子に対する寵愛は深いのかと、この場にいる誰しもが思い知らされたからだ。
その一方で、王妃の実家とパルドブルム侯爵家との確執もまた透けてみえてきた。幾人かの貴族子弟たちが早速、それぞれの顔色を窺い始めたほどだ。
だからこそ、マンデルは調子づいてターナを弾劾し始める――
「婚約破棄の理由は幾つかある。だが、その全てが貴様の品性に関わるものだ」
マンデルはそれだけ言うと、上座から肩を怒らせながら下りてきた。
パーティー会場の中央では、ターナが学友に囲まれて談笑していたのだが、王子が近づくにつれて、波が引いたかのように全員が遠ざかっていった。
ターナは仕方なく、「ふう」と小さく息をついてから肩をすくめてみせた。
「私の品性ですか。面白そうな話ですね。では、お聞かせくださいますか?」
見下してはいないが、どこか冷たい口ぶりだ。いっそ慇懃無礼と言ってもいい。
ちなみに、このときターナはすでにパルドブルム侯爵家当主代行という立場にあった。
侯爵家には男子がいなかったので、父が臥せった以上、最高学府にいながらも長女のターナが領内における全ての内政や外交を司ってきたわけだ。
しかも、パルドブルム家の領地は帝国に面していたことから、その国境線上でいざこざもよく起きていた。
つまり、最高学府で授業に出て、倶楽部にも参加して、生徒会にも選ばれて、さらには侯爵家の務めで国境紛争という軍事的な会合にまで出て行って協定などを取りまとめてきた身になる。
そのせいか、ターナのことを若くして『女傑』と呼ぶ者さえいた。
実際に、今もターナは落ち着き払っていた。
逆に、マンデルは一歩ごとに、「ぐぬぬ――」と、歯ぎしりの音を立てる。
さらには、その背に隠れるようにして、ノーチェがこそこそと従っている。そんな様子に会場からは失笑と共に、「もう妃気取りか」という揶揄が漏れたほどだ。
「黙れ!」
だが、会場の嘲笑をマンデルは癇癪にも似た一喝にて静かにさせると、
「いいだろう。では、ターナ・パルドブルムに問おうではないか」
広間の中央までやって来て、真っ直ぐにターナを指差した。もちろん、高貴な身分の間では無礼極まりない行為である。
「我が愛するノーチェ・ウォルナートを散々虐めてくれたというのは、いったいどういう了見だったのだ?」
「……は?」
そう問われても、ターナには全く身に覚えがなかった。思わず、呆けた声を上げてしまったほどだ。
「ふん。そうか。じゃあ、貴様の取り巻きがやった行為だったのだろうな。高みの見物はさぞかし楽しかったことだろう?」
そう言われても、ターナにはやはり全くもって分からなかった。
貴族なので取り巻きはたしかにいる。だが、当然のことながらターナは幼い頃から親しく付き合う貴族を厳選してきた。
だから、ターナはまた「ふう」と息をついてから、努めて冷静に尋ねることにした。
「マンデル王子、よろしいでしょうか?」
「何だ?」
「私を告発するということでしたら、せめて誰がいつどこで何を行ったのか――具体的に仰っていただけますでしょうか?」
直後、マンデルの小鼻が膨らんだ。
いかにも子供っぽい顔つきがさらに幼く尊大にみえる。
「ふ、ふん。いいだろう。まず、貴様はノーチェの教科書を隠した。もちろん覚えがあるだろう?」
言ったそばから、
それでも、たしかにターナは思い出していた。
テストの直前だというのに、ノーチェが「ない! ない!」と、散々喚いていたことがあったのだ。
「しかしながら、マンデル王子。そのとき私はノーチェ様にすぐに教科書を貸してあげております」
「ふん。隠していた教科書を取り出してきただけではないのか?」
「いいえ。そもそも、私にはノーチェ様の教科書を取り上げることが出来ませんでしたし、またその必要性もございません」
「なぜ、そう言い切れる?」
「まず、私はノーチェ様より先に教室に入って、座席から動いておりませんでした。だから、離れた席にいたノーチェ様の鞄から教科書を取り出して隠すことは不可能です」
「ほ、ほう……では、必要性とやらは
何なのだ?」
「そもそも、私は教科書の内容を全て暗記していています。だから、他者の物を取り上げる必要などございません」
「…………」
「何でしたら、今、ここで全て諳んじて差し上げますが?」
会場からは、「道理だな」という声が幾つか上がった。
ターナは最高学府においてトップの成績を常に叩き出してきた。そのことは卒業パーティーに出ている者なら誰もが知っていることだ。
マンデルは不服そうに「ぐっ」と呻き声を上げると、
「だが、教科書が隠されたのはたしかなのだろう?」
「失くしただけなのでは?」
ターナはそっけなく応じた。マンデルは仕方なく、「ええい、まだあるのだ!」と続けた。
「ノーチェの机に落書きしたのも貴様なのだろう?」
これもターナはすぐに思い出した。
乗馬の授業から帰ってきたら、ノーチェの机上が石灰で塗られていたのだ。
「しかしながら、マンデル王子。そのとき私はノーチェ様とわざわざ机を交換して差し上げております」
「白々しい。貴様が落書きしたのだから、交換するのは当然だろう?」
「いいえ、マンデル王子。そもそも、私がノーチェ様の机に落書き出来るはずがないのです」
「ほう……なぜ、そう言い切れる?」
「その時間、皆で乗馬して、遠くの野外まで出ていたからです」
「で、では、取り巻きにやらしたに違いない」
「その学友たちも全員一緒に遠出しておりましたが?」
「…………」
「そもそも、石灰で悪戯したなら、手や衣服などに付くはずです。教室に戻ったとき、そのように汚れた者はおりませんでした。もちろん、私も。また学友もです」
会場からは、「なるほどな」という声が幾つか上がった。
皆が乗馬で遠方に出ていたのなら、落書きをして、さらに付着した汚れを落とす時間などあるはずもない。
それにノーチェとてターナと共にいたのだ。むしろ、証人になってもおかしくない立場のはずだ。
マンデルは不満そうに「うっ」と低い声を上げると、
「だが、落書きがあったのは事実だろう?」
「結局、犯人は見つかっていません」
ターナは眉をひそめて答えた。マンデルは憤懣やる方なく、「いや、まだあるぞ!」と続けた。
「ノーチェを鍛練場内の資材置場に閉じ込めたのも貴様なのだろう?」
これまたターナは思い出した。
学府主催の武術大会が終わった後に、ノーチェが行方不明になったことがあったのだ。
「しかしながら、マンデル王子。そのとき私は即座にノーチェ様を探し出しております」
「ぬかせ。貴様が閉じ込めた犯人だったから、どこにいたのかよく知っていたということだろう?」
「そもそも、私にはノーチェ様を閉じ込めることなど出来なかったのです」
「なぜ、そう言い切れる?」
「資材置場の扉が
「…………」
「何なら、これからその現場に行って、マンデル王子も確認してみますか?」
会場からは、「卒業生なのにそんなことも忘れたか」という声が幾つか上がった。
この資材置場は特殊な事情があって、もとは鍛練教官の当直室だったのだが、別所にある教官棟が改装されたこともあって空き部屋となった。その為、内鍵そのままに資材置場として再利用されているのだ。
もちろん、内鍵だから外から閉じ込めることは出来ない。おそらく、何かの拍子で扉に鍵がかかってしまったことをノーチェが見逃したに過ぎない……
マンデルは不安そうに「んんっ」と思わしげな声を上げると、
「だが、ノーチェがたった一人で心細かったのは間違いないだろう?」
「全員で探して大変だったのも間違いありませんが?」
内鍵だから難なく出られたはずで、暗い部屋に一人きりでパニックになったのかもしれないが、何にしても自業自得でしかない――とはターナも告げなかった。それだけ阿呆らしい出来事だったからだ。
もっとも、ターナがそんな皮肉で返すと、マンデルは臆面もなく、「いやいや、まだあるぞ!」と続けた。卒業生たちからはつい苦笑が漏れた。いい加減、在学中の思い出を振り返るコーナーになりつつある。
とはいえ、当のマンデル本人は真剣そのものだ――
「ノーチェを湖に突き落としたのも貴様だったのだろう?」
これについてもターナは即座に思い出した。
水練の授業で近くの湖に行った際に、たしかにノーチェは落とされたのだ。
「しかしながら、マンデル王子。そのとき私はノーチェ様を救出しております」
「下らない。落としておいて、救ってみせたとは、恩着せがましいとはまさにこのことではないか?」
「そもそも、私がノーチェ様を湖に落とせるはずがないのです」
「なぜ、そう言い切れる?」
「そのとき、私は湖の真ん中で泳いでいたからです」
「…………」
「さらに言うと、落としたのは水練教官です。皆が目撃しています」
会場からは、「そういえばあったな」という声が幾つか上がった。
水練の授業で、ノーチェ以外の全員が泳いでいるのに、いつまでたっても水の中に入ろうとしないので、教官が背中を押してあげたのだ。それを突き落としたとするのはさすがに言い過ぎだろう。
マンデルは不満気味に「くそっ」と舌打ちをすると、
「だったら、貴様が教官を買収か脅迫でもしたのだろう?」
「そんなことして、いったい何の意味があるのですか?」
いかにもマンデルがやりそうなことをターナもやるとは思わないでほしい、とはさすがに付け加えなかった。そのぐらいの皮肉を飲み込む思慮深さはとうに身につけている。
とはいえ、ターナがそう問い返すと、マンデルは「いやいやいや、まだあるのだぞ!」と性懲りもなくこう続けた――
「そもそもからして、貴様は常に成績や素行がよかった!」
突然褒められたので、さすがにターナも眉をひそめた。
「つまり、何をやらしても王子より優れた成績を取ってきたというのはいかにもおかしい。どうせパルドブルム侯爵家が裏で手をまわしていたのだろう?」
そうきたかと、ターナも額に片手をやった。
さすがにうんざりしてきた。いっそこんな王子とは婚約破棄して正解なのかな、とも思い始めていた。
だが、ターナは健気にも頭を横に振った。
王家を支えるのがパルドブルム侯爵家の務めだ。代々の忠義をここで蔑ろにするわけにはいかない……
だから、ターナは一言一句噛みしめるかのようにマンデルを諭すことにした。
「少しだけ、よろしいでしょうか、マンデル王子?」
「何だ?」
「この婚約破棄が王国にどのような影響を与えるかご存じですか?」
「当然、知っている。これにて王家は政略結婚などという下らない
「本気で仰っているのですか?」
「そうでなければ、この場で宣誓などするはずがなかろう?」
「パルドブルム家やその支援者を敵に回すことになりかねないのですよ?」
「はは。ターナよ。ついに本性を現したな。得意の脅迫か?」
ターナは忸怩たる思いに駆られつつも、ふとマンデルの後ろに目をやった。
ノーチェが小さく笑みを浮かべていた。さらにずっと背後では、王妃が扇で巧妙に隠しつつも、口の端を歪めていた。
ここにきて、ターナは初めて思い知った――
同性とはいえ、女の情念というものは、こうも何もかも狂わすのかと。
そして、男の浪漫というものは、さほどに独りよがりで、地に足がついていないものなのかと。
すると、マンデルは、ターナが何も言い返さなかったのをいいことに、論破したとでも思い上がったのか、「くっくっく」と声を上げると――
「再度、この場において正式に宣誓しよう!
そんな耳を疑うような宣誓をまたもやしてしまったのだ。
会場の空気はしばしの間、白々となった。
ターナもさすがに馬鹿につける薬はないとばかりに拳をギュっと固く握った。
だが、ふいに、ぱち、ぱち、とまばらな拍手が上がった。
それらがしだいに盛大になっていく。
マンデルも、ノーチェも、王妃も、満足そうに両手を挙げながら、全身でその栄誉を浴びようとした。
が。
そのときだ――
「帝国第一皇子、アーナス・フォン・リー・クズマン様、ご入来!」
拍手はさらに絶頂へと加速していった。
到着が遅れていた帝国の貴賓がやっと会場に到着したのだ。
そこでやっと、マンデルたちは拍手喝采が自分たちに向けられたものではないことに気づいた。
パーティー会場の入口には、王国をただの属国の一つとしか見ていない、いかにも傲岸不遜な青年が突っ立っていた。
長い黒髪、すっきりと高い鼻梁に淡く唇。外套の高い黒襟に挟まれたその顔はさながら美しい氷像のようだ。その灰色の双眸がそこにいる何もかも全てを冷たく見下している。
そんなアーナス第一皇子は広間中央までゆっくりと歩んで、拍手が止むのを待ってからよく通る声で語りかけた。
「最高学府を卒業する諸氏諸君よ。まずはおめでとう。今日より諸君らは貴族としての責務を負う。あるいは家長としての義務も果たす。故に、その言葉と行動に、意味と意義が常に付きまとうことになる。よくよく、肝に銘じておいてほしい」
アーナスはそこで「ふっ」と短く笑って、ターナにちらりと視線をやった。
この挨拶は当てつけでもあるのだ――アーナスとターナは国境線の会合で何度も口撃し合った。そういう意味では、婚約者のマンデルよりも、その性格も、手の内も、あるいは趣味嗜好さえも、よほど知っていると言っていい。
それだけに、責務も義務も伴わないマンデルの勝手な言動に踊らされたターナが可笑しくてたまらないのだろう。おそらく、入場する前に今回の一悶着を耳にしていたのかもしれない。
これにはさすがのターナも恥ずかしくて俯くしかなかった。
「さらに、今日は良き日のようだ。まずはマンデル第一王子よ。おめでとう。帝国は君たちの門出を心より祝福しよう」
その言葉には、祝うような感情など一切込められてなどいなかったが、情けないことにマンデルはそんな機微に全く気づいていない。
「おお! ありがたい! アーナス第一皇子に認められたのなら、これで王国も安心というものだな!」
マンデルはそばにいたノーチェをこれみよがしに抱き寄せた。
その一方で、ターナを蔑むかのように顎を上げて、にやにやと嫌らしい笑みを寄越してきた。
今、このときこそ、マンデルにとってはまさしく、人生の絶頂といってもいい瞬間だった。これからターナに無理難題でも課して、いかにパルドブルム侯爵家の領地を掠め取ろうかと考えているに違いない。
だが、意外なことに――
アーナスはターナを守るかのようにして、ゆっくりとマンデルの前に立ち塞がった。
「そうそう、もう一つだけ、諸君らに知らせたいことがある」
そこでいったん言葉を切ると、アーナスは振り向いて、いったんターナの前で跪いた。それから、ターナの左手を取って、まずその甲に口づけをした。
「ここが社交の場だということを差し置いて、私情を優先してしまう愚行を許してほしい――今こそ正式に宣誓しよう! 第一皇子アーナス・フォン・リー・グズマンは、ターナ・パルドブルム侯爵令嬢に婚約を申し込み、将来的には正妃に迎えるものとする!」
直後、あまりにもしんとした静寂だけが会場を支配した。
それから、誰かが「はっ」として、ぱち、ぱち、と拍手をしだすと――
すぐに割れんばかりの喝采に変わって、会場全体を揺らすほどに轟いた。
ターナはついぽかんとしつつも、アーナスに何とか尋ねる。
「本気……なの?」
「そうでなければこんなことはしない」
「意味が分かっているの?」
「少なくとも、貴女とマンデル王子との婚約は先ほど破棄されたわけだろう? だったら、今こそ誰にも邪魔されないはずだ」
「そういう意味じゃないわ。私は王国のパルドブルム侯爵家の人間よ。ずっと王家に仕えてきた」
「ならば、簡単な話だ。今度は帝国に仕えればいい。貴女ほど優秀な人材なら誰も文句は言うまいし、私が言わせもしない。王国と帝国とで二心を抱くのが嫌だいうのなら、いっそ私にだけ仕えたまえ」
ターナは、「呆れた」と呟いた。
アーナスは含み笑いを浮かべると、今度はターナの左手の薬指へとキスをした。
「貴女が欲しい。その全てが欲しい。私が皇帝になった暁には、必ず隣にいてほしい。貴女とならば、帝国の臣民全てを幸福に導くことができる。そう確信している。それこそが私の責務と義務だ」
ターナは最早、笑うしかなかった。
これでは人質に取られたようなものだ。もしここで断りでもしたら、王国と帝国との関係が悪化してしまう。外交的かつ軍事的な大問題に発展しかねない……
少なくとも、こんなことは社交の場においてやるべき行為ではない。常軌を逸している。ただ、だからこそ――これ以上にターナを追い込むやり方もない。まさに見事な手練手管だ。いかにもアーナスらしい。
「こんなプロポーズじゃ不服だったか?」
アーナスはそう言って、ウィンクまでしてみせる。
とはいえ、実のところ、ターナもそんなに悪い気はしていなかった……
そもそも唯一認め合った仲なのだ。これまでは交渉相手だったのが、交際相手になっただけとも言える。そこにさして大きな違いがあるのだろうかと、ターナはわずかに首を傾げた。
そして、ターナはアーナスを立ち上がらせると、その頬に唇をゆっくりと寄せて囁いた。
「貴方のやり方……少しだけ卑怯かな」
「惚れた女を手に入れる為なら、どんなに卑怯なことでもやってみせるさ」
「ねえ、一つだけ聞いていい?」
「何だね?」
「ノーチェ様に嫌がらせをしたのって、もしかして――貴方?」
「さあな。きっとこの学府に潜んだ部下が勝手にやってしまったことなのだろう。もっとも、結果として婚約破棄してくれたのだから、中々に
「本当に……卑怯な人」
二人は口づけをかわした。
これにて、ターナは帝国に嫁ぐことが正式に決まった。
会場には、いつまでも鳴りやまない拍手と歓声が上がった。
この拍手喝采には、当然、マンデルがターナにやった仕打ちへの同情もあったし、何より属国から皇后が出る可能性もあって大いに盛り上がった。
もちろん、すぐそばには顔を引きつらせるマンデルと、地団太を踏むノーチェと、それに加えて上座で顔面蒼白になっている王妃もいた。そう。少なくとも、王妃だけは気づいていたのだ。これから王家に降りかかる災厄について――
★
数年後、アーナスが皇帝となり、ターナが皇后になったとき、王国は公国となっていた。
卒業パーティーからほどなくして、パルドブルム侯爵家が離反したことで王家は求心力を失いつつも、ウォルナート男爵家が権勢を振るった。もっとも、これは三日天下に過ぎなかった。そもそも、パルドブルム家と帝国に盾突こうとする貴族などいるはずもない。
結局、マンデル第一王子は蟄居を命じられ、ウォルナート男爵家も爵位剥奪されて、ノーチェはどこぞの貧しい商家に嫁がされた。そして、王が失意のうちに亡くなった後に、パルドブルム侯爵家がまだ幼い第二王子を養子として迎え入れるというアクロバットでもって公国へと形を変えた。ちなみに、王の死後、王妃の姿を公に見た者は誰もいなかったという。
後の史書はこう記している――「卒業パーティーで王子が放った一言であっけなく潰えた王国」、すなわち、これこそ『愚者の王国』、と。
(Q.E.D.)
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