第20話 呪文

 露天風呂の洗い場にて――。

 けんは、左掌にシャンプーの原液を垂らすと、お湯を出しっぱなしにしたシャワーヘッドを右手で掴んだ。そして目の前には祐太朗の頭がある。

 洗う準備は整った。

 はてさて、祐太朗の心の支度はどうか――、

「祐太朗、準備はいいか?」

 けんに問われ、祐太朗はゴクリと喉を鳴らした。

「め、めをつぶってれば、……いいんだよね」

「ああ。目を瞑って、オレが良しと言うまで、瞑り続けるんだ」

「うん、…………わかった」

「いいか、オレが待てと言ったら目を閉じろ。そして、良しと言うまで続けろ」

 まるでイヌのご飯タイムみたいだと、けんの脳裏に妙な思考が浮かぶが、

「わかった。やって!今すぐやって!」

 祐太朗が突然、大きな声を出したため、けんのくだらぬ思考は霧散した。

「おっ!やる気満々だなー」

 せっかくやる気になっているのだから、洗うなら今しかない。けんは、スタートの合図とした、の言葉を口にした。

 祐太朗が目を閉じた。

 閉じた際、何も言わなかった。

 風呂イスに若干、前屈みに座る祐太朗は、両膝を手で掴み――膝を掴む手は、震えている。

 けんは、軽くシャワーを頭にかけると、即座にシャンプーを始めた。祐太朗の髪の長さは、短めで、洗いやすかった。

 泡が立ち、指の腹で頭皮を優しく洗うと、シャワーを頭にかけて、泡を洗い流した。

 その時間、けんの野性的カンによれば、恐らく3分以内だろう。祐太朗との約束は守れたはずだと、なぜか、妙に自信のあるけんだった。

 無事に洗い終え、予め決めておいた、目を開けろの合図とした、の言葉を口にする。

「ほっ、ほんとに、終わったの」

 祐太朗は、不安そうに言うが、その口調とは、違った顔をしている。けんの目には、なんというか、安心した顔?いや、違う――。

 祐太朗が目を開いた瞬間、安心した顔ではなく、自信に満ちた笑顔だとわかった。

 祐太朗は、水が怖いという感情を乗り越え、母親以外の人間に髪を洗ってもらうというミッションを無事にクリアした。祐太朗の表情が、笑顔になるのは必然だ。しかも――、

「やったな、シャンプーハットなしで洗えたな」

「うんっ!シャンプーハットがあったときより、水、怖くなかった!」

 祐太朗は濡れている顔を、気にするような素振りを見せない。ついさっきまで、水を怖がっていた人間とは思えない。人間が成長するのに時間は関係ないのかもしれないと思うけんだった。

 ◆

 けんは、祐太朗からタオルを受け取ると、強く絞った。大量の水分が、ジョージョーと、流れ落ち、石畳に落ちると無数の水しぶきが舞った。

「うわぁ、すごいでたぁ」

 祐太朗が歓喜の声を上げる。

「そうだな。絞るのは苦手か?」

 祐太朗の体には病が潜んでいる。徐々に筋力が失われていく病で、祐太朗がタオルを絞れないのは、握力の低下によるものかもしれない。

 けんの体験した予知夢によれば、はっきりとした病状が顔を出すのは、中学一年生の頃であり、今ではないはずだが、祐太朗本人も、その周囲にいる人間達も、気付いていないだけで、小さな症状が出ていても不思議ではない――。

 祐太朗は、首を傾げて、

「う〜ん。わかんないや」

 事情を知らぬ人間なら、祐太朗にタオルの絞り方講座を開くだろう。そして教えても、それができない場合には、理解力の乏しい子供と罵るのだろう。しかし、祐太朗の裏事情をけんは知っているわけで、そんな無能なことなどするわけもなく、ただ、

「そうか、まぁ、あんま気にするな」

 そう言うにとどめておく。

 それよりもたった今、祐太朗は成長した。それは小さな一歩にすぎないが、大事な一歩で――けんは、絞ったタオルをマイク代わりにして、

「放送席、放送席。今宵、シャンプーハットなしで頭を洗えた、祐太朗選手にインタビューです」

 ポカーン。

 祐太朗は首を傾げている。

 どうも理解が及ばぬようでポカーン、としている。

 けんは、祐太朗に状況を教えるため、小さな耳にむかって、呟く。

「オレにあわせろ。今な、妖怪たちが、いっぱい、いるんだよ。祐太朗には見えないんだが、今な、妖怪たちが、祐太朗の気持ちを聞きたいんだと。だからオレのインタビューに答えてくれ。でないと、妖怪たちが帰らないって言ってるんだ。できるか?」

「うんっ!できる」

 祐太朗ははっきりとした大きな声で、そう言った。

 というわけで、訊いてみよう。

「えー、祐太朗選手、まず今の気持ちを」

「うっ、うれしいよぉ」

 モジモジしながら祐太朗が答えた。

「次に、祐太朗選手、今回初めて、シャンプーハットなしで洗いました。その気持ちを教えて下さい」

「かっ、かっこいいよぉ」

 多少、顔を赤らめる祐太朗が答えた。

「祐太朗選手、今回の出来事をきっかけに、やってみたいことはありますか?」

 子供にするには、少し難しい質問だったかと、けんは思ったのだが、

「じっ、じぶんで、ひとりで、洗ってみたい……」

 祐太朗は、上目遣いでけんの顔を覗いながら、次の目標を告げた。その祐太朗の仕草が、あまりに可愛く見えたけんは、思わず笑みをこぼした。それに反応して、祐太朗が満面の笑みを見せた。

「ったく、いい顔するなー。よくできました」

 けんは掌で、祐太朗の頭をポンポンと、優しく触れた。祐太朗は、

「う、ふふふ」

 嬉しそうに笑う。

「なぁ、祐太朗、もし怖いなーって思うことがあったら、何も考えないで、頭を空っぽして、とにかく先に進むんだぞ。わかるか?オレの言ってること」

 けんは、祐太朗の未来を変えようと、ちょっとカッコ良さげなことを言ってみたが、

「よーかいは?」

 祐太朗の解答にけんは、若干よろけた。 

 未来の軌道修正の前に、妖怪をなんとかするか――。

「祐太朗のインタビューに感動して、帰っていったよ。すごい、すごいって、言ってたぞ」

 けんの言葉に、目をキラキラさせる祐太朗は、

「ほ、ホントに?」

「ああ、ホントだ」

「ぼく、すごいの?」

「ああ、すごいぞ。みんな褒めてたんだからな。それでな、ヒーローの祐太朗にさ、一つ聞いてもらえるかな、オレのお願いなんだが……」

「うんっ!いーよー」

 祐太朗は元気いっぱいに、手を挙げた。

 そんな祐太朗に、けんは真面目な顔をして、

「祐太朗、頭を洗う前、どんな気持ちだったんだ?」

「うーん、こわくて、したくなかった」

「洗ってるときは、どうだった?」

「うーと、あんまりこわく、なかった」

「で?洗い終えた今は――」

「うれしいー」

 けんの問い掛けに、祐太朗は合言葉のように答えると、右手を突き上げた。

「そうだな、うれしいな。そこでだ、祐太朗、一つ覚えてほしい言葉があるんだ」

「ことばー?」

「そうだ。いいか、よーく聴け」

「うん、きく」

「為せば成る、為さねばならぬ何事も、だ。ちょっと言ってみ」

「うーと、なしぇばなりゅ、なしぇばなりゅならぬ、なにごとも?」

「いいか、為・せ・ば・成・る。だ」

 けんは、超絶スローモーション的に言ってみる。

「なせばなるっ!」

「そうだ。為・さ・ね・ば・な・ら・ぬ・何・事・も。だ」

「なさねばならぬ、なにごともっ!」

「為せば成る、為さねばならぬ何事も」

「なせばなる、な(せ)ねばならぬ、なにごともっ!」

 そんな遣り取りを何度かすると、祐太朗は記憶力がよく、すぐに覚えることができた。微妙に間違っているような気もするが、それは、許容範囲内か――。

「祐太朗が迷うときがあったら、この呪文を口にしろ。そうしたら、悪い妖怪をやっつけられるからな」

「うんっ!わかったー」

 目をキラキラさせる祐太朗だった。

 未来を軌道修正するなどと、なにやら大仰なことを思ってみても、実際、今のけんにできることは、破綻寸前の米沢藩を救った、上杉鷹山の名言を教えることぐらいしかできないし、そもそも、修正方法が思い浮かばなかった。それを歯がゆく感じつつも、何もしないよりかはマシだと、けんは思うのだった。

 ◆

 露天風呂を出る前に、けんと祐太朗はもう一度温泉に浸かった。

 けんは、祐太朗に三十秒を数えさせると、二人は湯から上がった。

 けんは、出口に向かって歩く祐太朗に、

「祐太朗、オレとここで会ったことは、秘密な。とくに、夕日には絶対言うなよ」

「わかったー」

 祐太朗のライトな返事がけんの耳に届いた。そして、けんは祐太朗の背に、

「死ぬなよ……」

 そう呟くのだった。





















 







 


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ストレスペイシェントは温泉旅館高校にやって来る 村雨流仁 @Rm24k

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