大好きな先輩が自殺した

セリシール

本編

 「私が死んだら、悲しい?」


 大好きな先輩が優しい笑みを浮かべてそう言った。憎いほど透き通った川と爽やかな空を背景に、紺色のスカートがふわりと舞い、ゆったりとした風がすり抜ける。この一瞬だけ、時間の流れが遅かった。


 私は、すぐ返せなかった。

 先輩のことはもちろん大好きだし、先輩は今の台詞を、皮肉や嫌味を混ぜて言ってる訳でもない。

 そして何より、彼女のその言葉は冗談でもなんでもないってことを私はよく知っていた。

 だから、どう返したらいいか分からなかった。


 「ちょっと、無視しないでよ」


 先輩は子供みたいに頬を膨らませながら、私に顔を近づける。


 「別に、無視してるつもりはないですけど……」


 思わず目を逸らしてしまった。本当は少しでも長く先輩を見ていたいのに。


 「じゃあ答えてよ。悲しい?悲しくない?」


 きっとどう返しても、それは私の中で後悔として残り続ける。だから言いたくなかったのに。この人は本当にずるい。


 「悲しい……です。先輩が死んだら」


 もう、抗えないんだな。


 先輩との毎日は、幸せだった。

 初めて会ったのは、確か部活の新入生歓迎会。その時先輩は2年生、私は1年生。友達と軽音楽部に入部すると決めて、初めて部室に足を踏み入れた時だった。


 その時私は、先輩に一目惚れした。


 長い黒髪は肩の少し先まであるのに綺麗に輝いていて、顔立ちもそこらの女優やモデルなんかを凌駕するほど整っていて、背も高く、肌もミルクのように白くて……。

 どこをとっても、欠点が見つからなかった。


 そこから先は、思い出そうとしても上手く思い出せない。それくらいいろんなことがあった。

 たまたま楽器が同じだったこともあって、入りたての頃は毎日のように先輩に演奏の仕方を教えてもらったっけ。

 彼女の声が耳元で聞こえる度に頭が蕩けたし、彼女の指先が私に触れる度に胸が苦しくなった。


 入部から数ヶ月経って1年生だけで練習するようになってからも、先輩は私と仲良くしてくれた。頻繁に私のバンドに顔を出しては演奏を褒めてくれたし、行き詰まった時には付きっきりで練習を見てくれた。

 私はハッキリと先輩を意識し始めたのは、その時からだった。


 最初は、軽い憧れのようなものだった。楽器を握る度に先輩の姿が頭に投影され、彼女が来るのが待ちきれなくなる。自分でも分かるくらいに浮き足立って先輩を待っていたのに、いざ先輩が来ると萎縮してしまう。

 頭の中には私と先輩が仲睦まじく話してる姿が浮かぶのに、いざ目の前にすると、緊張と、先輩の美貌とから、私は言葉が紡げなくなってしまっていた。


 先輩への想いは、次第に部活中だけの話じゃなくなった。授業中も、家にいる時も、休みの日も、頭の中は先輩のことでいっぱいだった。

 早く先輩に会いたい。先輩に会ったらこの話をしよう。あのことを先輩に聞いてみよう。

 何かにつけて先輩、先輩。思い返したら呆れるほど、先輩に溶かされていた。


 それが恋だって気づくのに、時間はかからなかった。


 最初は混乱した。

 当たり前だけど先輩は女だし、私も女。テレビやネットでは女同士で付き合ってるって人も結構聞くけど、少なくとも私の周りにはいなかった。

 私が今まで好きになった人もみんな男だった。付き合ったり、失恋したり、色々経験してきた。

 でも、こんなに胸が焦がされたのは初めてだった。そしてこんな風になるのは後にも先にも先輩だけだって、なぜだか確信できた。

 男とか女とか関係なく、とにかく先輩が好きで好きでたまらなかった。


 もちろん、周りに相談なんてできなかった。というか、誰に相談すればいいのか分からなかった。友達も、先生も、親も、「女の人が好き」なんて言ったらどんな顔をするか分からない。

 先輩のことが誰よりも好き。でも他の人にも嫌われたくない。

 私はずるくて、優柔不断で、自己中心的な人間だ。そんなジレンマに駆られながらも、それでも微かに先輩への想いに体を刻まれながら、少しずつ時間が経っていった。


 そんなある日のこと。

 その日は部活の自由練習の日だった。部室を開けておくから練習したい人は練習してね、という何とも無責任な日。

 案の定私以外に練習に来ている人はいなかった。そしてその私も、練習目的で来た訳ではなかった。どこでもいいから1人になりたかっただけだ。

 免罪符として持ってきたベースを壁に立てかけ、よろよろとパイプ椅子に座った。この真夏に空調もないのに、部室はどこか冷たかった。


 「…………はぁ」


 私が大きなため息をつくのを皮切りに、私の中の悩みや悲哀が一気に押し寄せた。


 先輩に想いを伝えるべきなのだろうか。

 モタモタしてたら、きっと先輩は私以外の人と結ばれる。でも、私には想いを告げる勇気なんてない。

 どうしたらいいんだろう。

 先輩は私のことどう思ってるんだろう。

 先輩にも好きな人はいるのかな。

 先輩は女の私に想われて迷惑じゃないかな。

 考えれば考えるほど、現実という沼にズブズブと飲まれていく。


 耐えかねて思わず頭を抱えた時――――


 「どうしたの?」


 大好きな声が、耳をくすぐった。


 「えっ?あっ、先輩!」


 いつの間に来ていたんだろう、全然気づかなかった。私は慌てて乱れた服や髪を整える。


 「あははっ。可憐ちゃん面白い」


 「ちょっと先輩、からかわないでくださいよ」


 「ごめんごめん。だってさ――――」


 先輩は私の隣にしゃがみこんで、言った。


 「可憐ちゃん、元気なかったから」


 「先輩……」


 「なんか悩み事?バンドのことじゃないんでしょ?」


 「……よく分かりましたね」


 「だってバンドのことなら私に言ってくれるじゃん」


 そういえばそうだ。私、バンドのことはどんな些細なことでもすぐ先輩に聞いてた気がする。先輩と話す口実が欲しかったから、内容はあんまり覚えてないけど。


 「ね、私に相談してみない?解決できるかは分かんないけど、案外すっきりするかもよ?」


 先輩はそう言っていつもの屈託ない笑顔を見せる。

 先輩は本当に優しい。

 でも、その優しさが私の胸を苦しめてるって気づいてない。

 こうして隣にいるだけで心臓がドキドキして、手先も震えているのに、それに気づかず追い打ちをかけてくる。

 先輩は本当にずるい。


 「……好きな人が、いるんです」


 私が細い声でそう言うと、先輩は小さく頷く。


 「最初はただの一目惚れだったんです。でも、時間が経つにつれてだんだん心の底から好きになっていって、気づいた頃にはもう遅くて、その、なんていうか、耐えられないんです」


 「そっか……」


 先輩は天井を見ながら、そう返した。


 「そんなに好きなら、もう告白しちゃえば?…………って言って告白できたら、こんなに悩んでないよね」


 「……はい。その人はすごくモテるし、私なんかが告白できるような人じゃないんですけど、それでも好きって気持ちは止められなくて、1人じゃどうすることもできなくて……。

 だから、悩んでたんです」


 「……そうなんだ。なんか、ごめんね。言いたくなかったよね」


 なんだか、先輩の元気がない。

 ついさっきまで明るく優しかった先輩が、1人の少女のように儚く、そして幼く見えた。


 「いえ、大丈夫です。むしろ先輩が聞いてくれて、少し気が楽になりました」


 「そう?ならよかった」


 先輩は私に向かって笑って見せたが、その笑顔にはいつものような輝きはなかった。一見満ちている月に、僅かな陰りがあるような、そんな感じの笑顔だった。

 やっぱりこの話はするべきじゃなかったかな。と、私は反省した。後輩の恋愛話なんて聞いても面白いものじゃないのに、余計なことまでベラベラと喋ってしまった。

 その相手は、目の前にいるのに。


 すると先輩は、私の顔をまっすぐ見て言った。


 「でも、告白はした方がいいと思うよ」


 「なんでですか?」


 「告白ってのはさ、時間が経てば経つほど難しくなってくる。それで、いよいよ告白できないまま、気づいたら手の届かないところにいる。

 告白できなかったっていう後悔は、フラれた後悔よりも苦しいよ」


 「そう……ですよね」


 「あんまり考えたくないだろうけど、もし失敗したら私の所においで?気が済むまで一緒にいてあげるから」


 先輩は私の手を握って、精一杯笑顔を作ってくれた。微かに震えた温かい手が、私の冷えきった指先を優しく包み込む。

 その優しい言葉と行動が、私の心に強く響いた。

 先輩は、本当にずるい。


 「……あっ、ごめん可憐ちゃん。呼ばれちゃったからそろそろお暇するね」


 先輩は不意にスマホをちらりと確認し、そう言って立ち上がった。慌てて私に手を振って部室を後にする先輩。


 当の私は、先輩に言われた言葉が、気づいたら手の届かないところにいるって話が、どうにも心の奥底に引っかかって外れなかった。

 先輩の後ろ姿を見ただけで、私の胸は急に締め付けられる。ただ少し席を外すだけなのに、このまま二度と会えない訳でもないのに。

 それでも、先輩が離れていくのが辛かった。小さなチャンスがまた離れていくのが、悔しかった。


 嫌だ、行かないでください、先輩。

 もう少しだけ、1秒だけでいいからまだ私のそばにいてください。

 そんな声なんか出るわけがない。その背中に指先を届かせることなんてできるわけがない。普段の私なら、そうだった。


 でも、その時の私は違った。私の目の中から先輩が消えてしまうのが、耐え難かった。


 だから私は必死に手を伸ばし、彼女の裾を引っ張った。


 「待ってください!」


 自分でもびっくりするくらい必死な声が出た。

 先輩は目を丸くさせながら、振り返って私を見る。


 「どうしたの?可憐ちゃ――――」


 私は先輩の前にまっすぐ立ち、少し高い彼女の顔を見て、言った。


 「先輩が、好きです」


 ずっと言いたかった一言、言ってはいけなかった一言。それは案外すんなりと口から溢れた。


 「私が好きな人は先輩なんです」


 目を丸くする先輩に念を押すように、もう一度ハッキリと告げる。

 この想いが嘘じゃないって、ちゃんと伝えなきゃいけないから。


 「可憐ちゃん……」


 先輩は私の目をまっすぐ見たまま、固まっている。


 「迷惑なのは分かってます。普通じゃないってのも分かってます。女の私が先輩を好きになるのはおかしいってことくらい、わたしが1番分かってます。

 でも、それでも先輩が好きなんです。先輩のことを、本気で愛してるんです。

 だからお願いします。先輩も、教えてください」


 私は勇気を振り絞って、もう一言だけ言った。


 「私じゃ、だめですか……?」


 私の心音が騒がしい。

 静かな部室棟で、時間が止まったかのように凍てつく空間。

 さっきまで先輩の顔を見れていたのに、今じゃうついて強く目を閉じてしまっている。彼女がどんな顔をしているのか、恐ろしくて見れない。


 「可憐ちゃん」


 先輩は優しい声で私の名前を呟くと、私を包み込むように抱きしめた。


 「先輩……?」


 「ずるいなぁ、可憐ちゃん。ホントは私が先に言いたかったのに」


 「えっ……。それって………………」


 「うん。私も可憐ちゃんと同じ気持ち」


 先輩の口から零れたその一言は、私の胸に大きく突き刺さり、私の視界を白く塗りつぶした。

 今この世界には先輩と私しかいない。そう錯覚させるほどに蕩けた時間の中で、先輩はたった1人の私を咀嚼する。

 彼女の体から伝わる温もりが心地よかった。


 「可憐ちゃん、本当にありがとう。こんな私を好きになってくれて」


 「こちらこそ、ありがとうございます。あなたを好きでいさせてくれて」


 私の思いと先輩の思い。似ているようで、少し違くて、でも根っこは同じ。相手を想う純粋な恋心が、少し枝分かれしただけなんだ。


 「ねぇ、可憐ちゃんは抱きしめてくれないの?」


 ……この人は、本当にずるい。

 私は先輩の背中に手を回し、包み込むように先輩を抱きしめた。微かに伝わる先輩の心拍が震えとなって私の指先をくすぐる。


 「先輩の鼓動……早いですね」


 「可憐ちゃんだって、すごくドキドキしてるよ」


 そんなどうでもいい会話が楽しくて、私と先輩は同時に笑った。お互いの心が通じ合っているように感じて、余計に嬉しかった。


 「ありがとう。ずっと一緒にいよう、可憐ちゃん」


 「大好きです、先輩。ずっと一緒にいてください」


 これが私と先輩との、永遠の始まりだった。




 ――――――――――――――――――――――――――――




 それからの日々は、言葉に表せないくらい楽しかった。漫画や小説でよく見る薔薇色の人生ってこう言うのを言うんだって、心の底から実感できた。


 「おはよっ。可憐」


 「先輩。おはようございます」


 私の目の前にひょこっと現れる先輩と、意図せず笑みが零れる私。

 朝、私が駐輪場に自転車を止めると、決まって先輩が後ろから声をかけてくれる。

 たまたま登校時間が一緒らしい。


 一緒に下駄箱を抜けて、お互いの教室の間に伸びる渡り廊下に移動し、その間の隙間に入ってチャイムが鳴るまで喋る。

 そんな毎日が、たまらなく幸せだった。


 「ねぇ、可憐はもう進路決めた?」


 「いえ、まだピンとこなくて……。先輩と同じ大学に行きたいってのが本音ですけど、先輩には追いつけそうもないですし……」


 「そんなことないよ。私そんなに頭良くないし、可憐は頭いいじゃん」


 「とかいいつつ、先輩こないだの模試学年1位だったんですよね?他の先輩から聞きましたよ」


 「ありゃバレてた。でも可憐だって後期中間で1桁だったんでしょ?5位だっけ?」


 「まぁそうですけど……」


 先輩に追いつこうとして必死に勉強して、やっとの思いで掴み取った学年1桁。個票が返ってきた時はすごく嬉しかった。

 でも、先輩は格が違う。別の先輩に聞いた話だと、先輩の模試の点数はほとんど全部9割以上。平均点が5割〜6割だから、相当高い。

 言ってないだけで県内順位、全国順位も相当上のはずだ。


 こんな狭い高校の中でも1位になれないんだ。先輩に追いつこうなんて夢のまた夢だ。


 「先輩、確か県外の大学に進学するんですよね?」


 「うん。両親に勧められてね。あんまり興味はないんだけど」


 「それでもすごいじゃないですか。あそこ、行きたいと思ってもそう簡単に行けないですよ」


 「ありがと、可憐がそう言ってくれるだけで気が楽になるよ」


 先輩の表情はどこか冷たくて、まるで遠くにある何かを見据えているような目をしていた。


 「先輩、なんだか今日元気ないですね?」


 「だって可憐、いつまで経っても名前で呼んでくれないんだもん」


 「またその話ですか……。何度も言いますけど、卒業するまでは先輩後輩の仲なんだし、そう気軽には呼べませんよ」


 「もぉー。その敬語もやめてって言ってるのに」


 「それも同じです。卒業するまで敬語のまま話します」


 私が諭すように言うと、先輩は頬を膨らませながら私から目を逸らした。


 「そんな顔しないでくださいよ。卒業したら、ちゃんと名前で呼ぶし、敬語もやめますから」


 まるで子供をあやす親のような言い口になってしまったけど、こうでも言うしかない。

 それに――――――


 「たとえ名前で呼ばなくても、先輩のことは好きですから」


 ……言ったそばから、私は恥ずかしくなって赤面した。


 「どうしたの?可憐。やけに素直じゃん」


 「別に、そんなことないです……」


 「ふーん?」


 先輩は私の顔を覗き込んでニヤニヤと笑っている。私はそんな先輩から必死に顔を背ける。私と先輩との間では見慣れた光景だ。


 「そういう先輩だって――――」


 全然私のことを好きって言ってくれないじゃないですか。

 喉まで出てきて少しだけ溢れたが、最後まで吐き切ることは出来なかった。これを言ったら面倒くさい女だと思われたりしないかな、と自分のわがままを噛み殺した。


 「何?なんか言おうとした?」


 「……なんでもないです」


 「可憐、やっぱり素直じゃない」


 先輩はそう言って頬をふくらませる。言いたいのは山々だけど、先輩にわがままを言うようで少し嫌だ。だから言わずに我慢している。

 それが辛いわけでも、ストレスになってるわけでもない。ただ、それとは別にモヤモヤするものは残ってる。


 「あ、そうだ。1個可憐に言おうとして忘れてたことがあったんだ!」


 先輩は突然手を叩いて目を見開き、そそくさとスマホを取り出した。


 「どうかしたんですか?」


 私が先輩のスマホを覗き込むと、そこにはとある観光地の紹介ページが載っていた。


 「ねぇねぇ!2月の終わりにここ行かない?」


 水紗堂。

 ここから比較的近い観光名所。大都会から少しずれただけの場所なのに綺麗な自然が残っている、と前テレビで紹介されているのを見た。

 崖を覆うように広がる広葉樹林、その真ん中を割るように透明な川が流れている。空気も澄んで、春頃になると野生動物も多く見られるということでも有名な場所だ。


 「ずっと行ってみたかったんだよね、ここ。せっかくだし卒業する前に行ってみたいんだ。いいよね?」


 「もちろん私はいいですけど……」


 確かにここは有名な場所。

 でもそれは、観光名所としてではない。


 「確かここって――――」


 一瞬言いかけたけど、やっぱり止めた。もしそれで先輩が行くのを辞めてしまったら、せっかくの先輩とのお出かけの予定が潰れてしまう。

 あんまり気にしすぎてもよくないし、きっと先輩にそんな意思はない。こんな輝いた目をした先輩が、そんなこと考えているわけがない。

 私が、考えすぎなだけだ。


 「ん?どうかしたの?」


 「いえ、なんでもないです。とにかく、行きましょう。楽しみにしてます」


 「うん。忘れないでね」


 私と先輩との間に、雪玉のようなひとつの小さな約束が生まれた。




 ――――――――――――――――――――――――




 それから、月日は流れた。

 先輩は受験生ということもあり、10月に入った辺りから先輩と会うことはめっきり減った。学校内でばったり出会って挨拶することはあっても、以前のように時間を取って2人だけで話すことはなくなってしまった。

 いつもの幸せだった習慣がぽろぽろと崩れていく感覚は、なんとも耐え難かった。でも今は先輩の為に我慢するしかないって、そう自分を言い聞かせて持ちこたえた。

 そうして12月まで堪えてきた。


 ただ、どうにも喉に引っかかった不安がずっと取れないままだった。


 気にしすぎだ、なんてことは言われなくても分かっている。むしろ自分で自分を責めたくなるくらいだ。なのに、私の小さな不安は嫌というほど私の中にこびりついて離れない。

 ……こうなったら、迷惑承知で先輩に真意を聞いてみるしかない。


 私は意を決して先輩にLINEを送った。


  「先輩、今いいですか?」

  「ひとつ聞きたいことがあるんです」

『どうしたの?』

『部活のことなら、明日時間あるからそこで話せるよ』

  「いえ、部活のことじゃなくて先輩のことです」

『私のこと?』

  「はい」

  「先輩が受験で忙しいのは知ってます」

  「でも少しだけでいいので、カノジョのわがまま聞いてくれませんか?」


 送信ボタンを押してから、私は深く後悔した。


 「何やってんだろ、私」


 もう11時だ。先輩だって遅くまで勉強して疲れてるはずなのに、なんでこんな面倒くさいことしちゃったんだろう。

 はぁ……。嫌われちゃうかな、私。

 先輩は優しいから、これだけで怒るなんてことはないと思う。でもこういう小さいのが積もり積もって、嫌われていくんだろうな。

 私はただひたすら自分が嫌になり、その度に先輩への想いと不安が強まっていく。肩に重石が強くのしかかり、私が死んでしまいそうだった。


 もう……嫌だな。

 少し外の空気を吸って、それから今日はもう寝よう。

 そう思って少し厚着して玄関のドアを開け、黒く塗りつぶされた空を仰いだ。


 と、その時だった。


 「やっほ」


 凍えて赤くなった耳に、聞き覚えのある声が通った。


 「………先輩?」


 夜闇に溶け込むような黒い髪、それと対象によく目立つ白い肌と整った顔、モデルのような完璧なスタイルと長い足。

 ぴっちりとしたジーンズと黒色のジャンパーがそれをより際立たせる。


 あぁ、そうだ。

 これが先輩だ。


 「どうして、ここに?」


 「んー?何言ってんの」


 先輩はその細い手で、私の手を握った。


 「カノジョのわがまま、聞きに来たんだよ」


 先輩はまぶしいくらいの笑顔でそう言った。

 まだ送信して10分も経ってないのに、来てくれたなんて。


 「先輩、手冷たいですね。手袋してこなかったんですか?」


 「忘れちゃった。可憐があっためてよ」


 先輩は私と手を繋いだまま、私の横に並んだ。


 「この近くに神社あったよね?ちょっとそこまで行ってみない?」


 「いいですよ。行ってみましょう」


 私と先輩は手を繋いだままアスファルトの道路を歩いた。誰もいない夜なのに、私たちの関係を見せつけるように。誰もいない夜だから、私たち2人だけの世界を楽しむように。

 透き通った空には星々が点々としている。ガードレールの外を見れば、切れかかった街灯が光っている。

 車通りも少なく、私たち以外の声も聞こえない。世界そのものが、私たち2人のための大きな寝具のように思えた。


 「あ、あれだよね?」


 突然先輩が目線の先を指さしたかと思えば、薄暗い中赤い鳥居が姿を現した。


 「そうです。着きましたね」


 私たちは手を繋いだまま鳥居をくぐり、石の階段に腰掛けた。その後先輩が思い立ったようにどこかに立ち去り、私が寂しさを感じていると、


 「わっ!」


 私の首元に温かいものが触れた。


 「あははっ。可憐可愛い」


 先輩の両手には、温かい缶コーヒーが2つ。


 「先輩いっつもそういうことするんですから」


 「ごめんごめん。久しぶりに会ったからさ。なんか、からかいたくなっちゃって」


 先輩はその片方を私の手に置いて、もう片方の缶を開けながら私の隣に座った。足が触れるくらいまで迫った先輩にドキドキしながら、それを誤魔化すように私もコーヒーを飲む。


 「あんまり構ってあげられなくてごめんね、可憐」


 「いえ、私こそ迷惑かけちゃってごめんなさい」


 「それは別にいいよ。私だって可憐と話したかったし、だからこうして会いに来たわけだし」


 先輩の優しさとかっこよさに触れて、コーヒーの減りが早くなる。


 「可憐、元気にしてた?」


 「はい。おかげさまで」


 「ふーん。私は元気じゃなかったよ?ずっと可憐と話せなかったから」


 「……先輩そういうとこずるいです」


 「それで?可憐は元気にしてたの?」


 「……元気じゃなかったです」


 私が逸らした視線を先輩に戻すと、先輩は楽しそうな笑顔で私を見ていた。この人は本当にずるい。私が先輩のこと好きなのを知った上で意地悪してくる。


 「ずっと可憐に会いたかったよ。私のカノジョだもん」


 「私もです。私もずっと、2人きりで話したかったです」


 恥ずかしいったらありゃしないけど、これは本当のこと。私が今日この瞬間をどれだけ待ち焦がれたことか、きっと先輩は知らない。そして私も、先輩がどれだけ私に会いたがっていたか検討がつかない。


 だからこそ、この話題を切り出すのが怖かった。


 「……先輩、ひとつ聞きたいことがあるんです」


 ずっと喉の奥につっかえてたものを、やっと吐き出せる。こんなに爽快なことはない。そのはずなのに、私はそれをどうしても拒もうとしている。

 それは、先輩がきっと私の望む答えをくれないから。


 「前に水紗堂に行きたいって、そう言ってましたよね?」


 私がそう言うと、先輩の表情がどこか柔らかくなった。……というより、諦めたように月を見上げて微笑んだ。


 「気づいちゃった……か」


 その一言には、いつもの先輩の雰囲気がまとわりついてなかった。私をからかう冗談なんかじゃない、先輩の本音。決定づけられた、避けようのない未来。


 「はい……」


 水紗堂。


 「ねぇ可憐。私も一つだけわがまま言っていいかな?」


 日本でも屈指の絶景が見れると有名な、自然豊かな土地。


 「大事なことだから、私の口から言わせてほしいんだ」


 そこは観光名所の他にも、


 「私ね、高校卒業する前にさ――――――」






 自殺の名所としても知られている。






 「……やっぱり、そうなんですね」


 知りたくなかった。聞かなければよかった。

 そんな後悔が後から後から押し寄せてくる。なんで聞いちゃったんだろうって、苦しくて仕方なくなる。


 「ごめんね。ずっと言いたかったんだけど、言えなかった」


 頭をガツンと殴られたようなショックが私を襲う。目の前がぐちゃぐちゃに練り回され、考えることができなくなる。

 今すぐにって訳でもないのに、手の中から先輩の思い出がこぼれ落ちていくようで、こうしている間に1秒ずつその瞬間に向かっているのが耐えられなくて、少しずつ息も荒くなっていく。


 「可憐……」


 先輩が私の名前を呼んでくれた。

 彼女が死ぬまで、あと何回呼んでくれるだろう。あと何回私は「先輩」と呼べるだろう。

 あと何回、先輩に「好き」と言えるだろう。


 考えただけで辛くて、ついに私は泣いてしまった。


 「なんでですか……。どうして、自殺なんてするんですか。先輩は頭もいいし運動もできるし容姿も整ってる、周りの人もみんな先輩のことを大切に思っているはずです」


 先輩は頷くこともせずに、ただひたすら私から零れる悲哀を聞いていた。


 「何か辛いことでもあったんですか。なんで私に相談してくれないんですか。私は先輩のカノジョなんだから、たとえ力になれなくても、先輩のそばにいることくらい出来るのに…………!」


 言葉を紡げば紡ぐほど、醜い自分が露呈する。

 私自身の勝手な欲望が嘔吐するように次から次へと溢れていく。


 「私のことが嫌いになったんですか?だったら、別れたっていいです。先輩に死なれるくらいなら、私は先輩のカノジョを辞めたっていいです……!」


 涙で濡れきった頬を拭い、先輩に向き直る。


 「教えてください、なんで自殺なんて考えるんですか……!」


 あの先輩が自殺なんて選択を取るくらいだ。きっと私に軽々言えないような重い事情があるに違いない。そんなの、気づいた時から分かってる。

 でも、それでも知りたい。私が先輩に出来ることは何かないのか、少しでも先輩の生きる希望になれないか、私は考えたい。

 先輩は、私の大切な人だから。


 「なんで……かぁ」


 先輩は独り言のように呟いた後で、両腕を広げて私に抱きついた。


 「可憐が好きだから、かな?」


 「えっ……?」


 訳が分からなかった。

 またいつもの意地悪か、とも思ったけど、先輩はこんな場面で冗談を言うような人じゃない。それに、触れた先輩の胸の鼓動が、それが真実だと証明していた。


 「あと少しで高校を卒業して、私は大学生になる。可憐は受験が始まる。会える時間は絶対少なくなっちゃうでしょ?」


 「それは……私もそう思います」


 「だからその間に、可憐が別の誰かを好きになったり、私が別の誰かを好きになっちゃったりする……かもしれないじゃない?」


 「…………そんなこと、ありえません」


 私は先輩が大好きだし、先輩も私が大好き。それを知っているからこそ、気が揺れるようなことすら起きないと言いきれる。

 でも、先輩はそうじゃないみたい。


 「優しいね、可憐は。でも、私は可憐のその優しさが他の誰かに振りまかれるのが怖い。それを想像するだけで胸が締め付けられるほど苦しいんだ」


 「先輩……」


 「それに、きっと1年もあればお互いの気持ちは薄れちゃう。特に私達は女の子同士だから、時間が経てばきっと忘れちゃう。それが、すごく嫌なんだ」


 「だから、自殺するんですか?」


 「訳わかんないでしょ?知ってる。私も、可憐はきっと納得してくれないと思ってた。でも、これは私が決めたことなの。

 死んでしまえば、可憐に会えない苦しみも、可憐が奪われる辛さも、全部なかったことにできる。だから死にたいって、そう思ったんだ」


 先輩は、いつもと声のトーンを全く変えないで言った。そこにいるのはいつも通りの先輩、付き合った時から、付き合う前から、何も変わらない大好きな先輩。

 なのにその言葉のどれもが非現実的で、先輩じゃない誰かと喋っている気分だった。


 「だったら、私も死にます。先輩だけ先に行くなんて――――――」


 「ダメだよ、可憐。可憐には死んで欲しくない。可憐はいい子だから、きっとこの先幸せになれるよ。だから生きて欲しい」


 「なんですか、それ……。なんで私だけ死んじゃいけないんですか…………!」


 「言ったでしょ。可憐のことが好きだから、だよ」


 「…………ッ!」


 その一言で初めて、私は声を上げて泣いた。

 先輩に死んで欲しくない、一人ぼっちになりたくない、ずっと一緒にいたい。そんな私の思いを無視して、先輩は死のうとしている。

 この先起きうる辛さを、私との思い出ごとなかったことにして逃げようとしている。


 「私だって……!私だって…………!」


 言葉が上手く出てこなかった。

 言いたいことはハッキリしているはずなのに、この期に及んで頭のどこかでストッパーがかかって口に出せなかった。


 先輩に死んでほしくない。先輩にずっと生きていてほしい。これが私の本音、嘘偽りない心の内。それを告げることは簡単だ。

 でも、それは果たして本当に正しいことなんだろうか。先輩が死にたいと言ってるのに、それを遮ってまで先輩に生きてもらうことは、それは私のエゴに過ぎないんじゃないか。

 先輩のことが本当に好きなら、私は先輩を止めるべきではないんじゃないか。


 先輩は、好きに生きて好きに死んでいく。それを止める権利は私にはない。

 先輩は、幸せの絶頂を迎えたまま自殺する。それを止めることは、先輩のカノジョとして相応しくないんじゃないか。


 私が本当にすべきことは、先輩の旅立ちを見守ってあげることなんじゃないか。


 そう思ってはいても、涙は止まらなかった。


 「ごめんね、可憐。私には目を背けたくなるような今も、重苦しい過去もない。あるのは可憐への想いとまだ見ぬ誰かへの嫉妬。

 きっとそのせいで可憐にも嫌な思いさせちゃうから、私は死んで全部なかったことにしたいんだ」


 「意味が……わかりません。なんで先輩が死ななくちゃいけないんですか…………!」


 「ごめんね、可憐」


 私が必死に泣いても、先輩は涙のひとつも流さずに私を抱きしめていた。その母親のような笑顔が優しくて、だからこそ苦しくて仕方がない。


 「別れたいなら、今別れてもいい。私、死ぬまでの間に可憐にいっぱいわがまま言うつもりだから、それが辛いなら今別れて欲しい。

 私は可憐が1番大切だから」


 先輩は本当にずるい。

 私が誰よりも先輩が好きなのを知ってるくせに。

 先輩のためじゃなくて私のために別れるなんて、できっこないって知ってるくせに。


 「嫌です。最期まで、先輩のカノジョで居させてください」


 「うん。ありがとう」


 その日、私はずっと泣いた。

 先輩の腕の中で朝日に照らされるまで、泣いていた。




 ――――――――――――――――――――――――――




 「わぁ、すごい。やっぱり写真で見るより断然綺麗だね」


 先輩は紺色のロングスカートを翻しながら、奥にそびえる山々を指さして言った。


 「あんまりはしゃいじゃダメですよ。転んで汚れでもついたら大変ですから」


 「あははっ。可憐、今更汚れなんて気にするのー?」


 先輩は白いブラウスを見ながら、笑っていた。今日の先輩は一段とオシャレなんだから、1点の汚れも許されない。先輩は綺麗なままの先輩でいて欲しい。


 「そういう可憐こそ気をつけなよ。せっかく過去一可愛い服着てるんだもん」


 黒いオープンショルダーにジーパンを合わせたこの格好、何日も前からずっと考えて決めた服装だ。先輩みたいに素材がいいわけじゃないから着こなせてるかは分からないけど。


 「可愛いのは、服だけですか?」


 「おっ、可憐も言うようになったね」


 先輩は何か面白いものでも見るように私の顔を見た。私もちょっと威張るように笑いながら、先輩に寄り添う。


 「服だけですか?」


 「可憐も可愛いよ」


 私たちはお互いに微笑み、手を繋いだ。


 「気持ちいいね、やっぱり。この辺で1番の観光名所ってだけあるな〜」


 「そうですね。天気予報は雨でしたけど、雲ひとつないですし。運が良かったですね」


 そんな他愛もない話を繰り返しながら、私達はゆっくりと歩いていく。


 「平日だし、あんまり人いないね」


 「私みたいに学校サボって来る人は少ないみたいですね」


 「あーいけないんだー。可憐は学校サボってカノジョとデートしてる悪い子だー」


 「先輩のせいですよ、もう」


 私はこうして笑顔を繕って、どうでもいい話で先輩の気を引く。きっと、心のどこかで私が私を後ろから引っ張っていたんだと思う。

 この先起きることは避けられないから、気休め程度の延命治療をしているにすぎない。そんなことは分かってる。

 それでも私は、1秒でも長く先輩の手を握っていたかった。


 私は先輩のすぐそばに立ったまま、水紗堂と書かれた門をくぐった。


 「ふぅ〜。いよいよ来たね、水紗堂」


 「そうですね」


 いざ1歩足を踏み入れてみると、数秒前とは空気がガラッと変わったように感じた。透明なのに濁っている、滑らかなのに粘ついている、そんな矛盾した雰囲気が辺り一面に漂っていた。

 私には霊感なんてないけど、分かる。これはここで死んだ人達の呪詛。生前の無念が形になったものかもしれないし、私たちに警告する声かもしれないし、先輩を引き寄せる手かもしれない。


 今から先輩は、その一部となる。


 「ほら、見える?あの橋」


 先輩が指さしたのは、川の上流にかかる白い橋。木々の緑や岩の灰色の中に紛れるそれは妙に目立って見えた。


 「あそこから、身投げするんですか?」


 「まさか。もうちょっと高いところからだよ」


 先輩は私の手を握ったまま、その橋に向かう道の真ん中を歩く。まるで自分たちが物語の主人公だと言わんばかりに。


 「知ってる?あの橋、恋愛成就のパワースポットって有名なんだよ?」


 「あぁ、そういえば小耳に挟んだことがありますね」


 「私たちに今更成就させなきゃいけない恋なんてないけど、なんか雰囲気出るじゃん?」


 「そうですね、いいかもしれません」


 「でしょでしょ!じゃあ早く行こっ!」


 先輩は綺麗な笑顔で私を見た。私もぎこちない笑顔を返す。本当の笑みなんて返せないから。


 今日はやけに人が少ない。橋への道をもう半分は歩いたが、ここに来るまで誰ともすれ違ってない。偶然といってしまうのは簡単だけど、それじゃあせっかくの先輩の今日が味気なくなってしまう。

 神様が私たちを2人きりにしてくれた、とでも考えておこうかな。


 「ねぇ、可憐」


 「どうしたんですか?先輩」


 その時の先輩の声は、明らかに悲しげだった。


 「ありがとう。私を好きになってくれて」


 「先輩……」


 たったそれだけなのに、私の心は大きく揺さぶられた。今にも泣き出しそうになってしまうくらい、先輩の言葉は私に染みた。


 「あの日、可憐が告白してくれた時。すっごく嬉しかったんだよ?」


 「そうなんですか?」


 「うん。可憐のこと、初めて見た時からずっと気になってて、バンドのこと話してる間にどんどん好きになっていって――――」


 先輩はひとつため息をつくと、


 「でも、諦めてたんだ。女の子同士だったから」


 「そう、なんですね……」


 「うん。だから、可憐が私のこと好きって言ってくれた時は、本当に嬉しかった。好きなのは私だけじゃないんだって思えたから」


 そうだったんだ。

 先輩も、私と同じだったんだ。


 「だから、ありがとう」


 先輩は清々しいほど綺麗な声で言った。そこに嘘がないのは言うまでもなかった。


 「こちらこそありがとうございます。先輩のことを好きになってよかったって、心の底から思ってます」


 「あははっ。こんな重い女と付き合って嬉しかったんだ。可憐も変わってるねぇ〜」


 「私だって重い女ですもん」


 そんな風に冗談を言い合って、お互いにちょっとからかいあって、そんな時間がいつまでも続いたらいいのに。

 そんな幻想は、一瞬で砕かれた。


 「あっ」


 思わず声に出してしまった。

 例の白い橋が、目の前に現れたんだ。


 「おっ、やっと着いた。結構疲れたね」


 「ですね」


 私と先輩は、その橋に足を踏み入れる。軽く鳴る木製の橋は風に揺れる葉っぱの音と轟くような川の音にかき消され、太陽の光を白く反射して私たちに存在をアピールした。


 「ここから先は立ち入り禁止区域なんだ。ちょっと足を踏み外せば、死ぬ気がなくても死んじゃうような場所」


 先輩はそう言うと、一歩踏み出して背中を向けたまま言った。


 「だから、ここでお別れだね」


 ……あぁ。聞きたくなかった。

 ここから離れたら、もう、先輩とは会えないんだ。

 悲しくて、辛くて、涙が零れそうだった。でも最期くらい笑顔に送り出したいって、そんなちっぽけなプライドを持ってた私は、何とか涙を堪える。

 奥歯がガチガチとぶつかり合い、指先は震えて仕方ない。


 「ねぇ、可憐」


 先輩は振り返って、言った。


 「私が死んだら、悲しい?」


 …………ッ!

 なんで……なんでそんなこと聞くんですか。

 ずっと我慢してたのに、言いたくても堪えてきたのに、せっかく最期は先輩と笑っていようって思ってたのに……!

 そんなこと言われたら、もう……!


 「ちょっと、無視しないでよ」


 先輩は頬を膨らませながら私に詰め寄る。


 「別に、無視してるつもりはないですけど……」


 私は不意に目を逸らしてしまった。先輩を見ているだけで、目が潤ってしまう。


 「じゃあ答えてよ。悲しい?悲しくない?」


 私の鼓動は早くなり、少しずつ呼吸が乱れるのも分かった。それでも、こればっかりはハッキリと伝えないと。

 これは報いだ。先輩はきっと私の返事を聞いて後悔する。でも私は悪くない。先輩は私を置いて先に行ってしまうんだ。このくらいのお仕置きは受けてもらわないと。


 なんて、自分に言い訳してるけど、結局私は正直に言う他ないんだ。先輩はきっとそれを分かって私に問いかけたんだ。

 この人は、本当にずるい。


 「悲しい……です。先輩が死んだら」


 先輩の自殺は、もう止められない。どんな言葉をかけようと、きっと先輩は死んでしまう。

 そう思うと、ずっと堪えていた涙がとうとう溢れ出した。


 「可憐……」


 私は嗚咽を上げながら泣いた。

 どれだけ言葉で飾り付けても、結局根っこは変わらない。先輩を見送るんだ、最期まで先輩のカノジョとして一緒にいるんだ、なんてカッコつけた言葉を言ったところで、先輩が死ぬ悲しさには耐えられない。

 分かってたはずなのに。

 身構えていたはずなのに。

 なんで泣いちゃうんだろう。


 「先輩……最後に1つだけ、わがまま言ってもいいですか?」


 聞かなくたっていい。むしろ聞いて欲しくない。今までの私の頑張りと、先輩の夢を壊す一言だから。

 それでも言わずにはいられない私の弱さを、象徴するような一言だから。


 先輩は私の目を見て頷いた。

 それを見て私は先輩に抱きつくように顔を押し付け、声が裏返るのを抑えながら言った。


 「行かないでください…………」


 なんで言っちゃったんだろう。

 こんなこと言ったら、先輩は後悔するに決まってるのに。先輩の気持ちなんかこれっぽっちも考えてない、自分本位の言葉なのに。

 それでも、我慢できなかった。こんな自分勝手な台詞を吐かないと耐えられなかった。

 涙が止まらない。どれだけ泣いてもまだ枯れない。泣けば泣くほど先輩が困るっていうのに、それなのに私はまだ声を上げている。


 「可憐」


 先輩は優しく私の背中を撫で、両手で耳を塞ぐようにして私を少し離した。その表情はとても優しくて、私の気持ちがほんの少しだけ晴れやかになる。


 先輩はそのまま私に目線を合わせて、私がそれを止めるのが間に合わないくらい唐突に、


 私に、キスをした。


 「……へっ?」


 一瞬だった。

 1秒にも満たない時間の中で私は頭が溶けていくような感覚を味わった。砂糖菓子が舌の中で崩れて甘さが口の中に浸透していくような、そんな柔らかい幸福が私に訪れた。


 「びっくりした?」


 「…………しました」


 「可憐の泣いてる顔が可愛くて、つい」


 「先輩ほんとそういうとこずるいです……」


 笑ってる先輩と、まだ少し泣いている私。

 これじゃあ、どっちが自殺するのか分からない。


 「ねぇ、可憐。私も1個だけわがまま言っていいかな?」


 「なんですか?」


 「最期くらい、1回だけでいいから名前で呼んでよ」


 ……そうだった。

 先輩、ずっと言ってたな。名前で呼んでほしいって。かく言う私も先輩のことを名前で呼んでみたかった。卒業してないから、名前で呼ばなかっただけで。


 私は深呼吸して、頭の中を整理した。

 絵里香先輩、絵里香先輩、絵里香先輩。

 言い間違えたり噛んだりしたら最悪だ。何度も何度もイメージトレーニングした。

 でも、そんな中先輩が言った。


 「あっ、今敬語使おうとしたでしょ」


 ……読まれてた。


 「いやでも、それは――――――」


 「私これから死ぬってのに、敬語で見送るなんてよくないんじゃないのー?」


 あぁ、もう。

 先輩は本当にずるい。

 もう練習なんてどうでもいい。私が思ったことをそのまま口に出した方が、きっと先輩も嬉しい。

 私はもう1度深呼吸して、自然と笑顔になりながら言った。


 「大好きだよ、絵里香。これからもずっと」


 絵里香は頷いて、こう返した。


 「大好きだよ、可憐。私を忘れないでね」


 カノジョは笑顔のまま、頬から雫を流した。

 それが私の見る、絵里香の初めての涙だった。




 ――――――――――――――――――――――――――




 それから十数分。

 先輩と別れた私は来た道を戻りながら、考えていた。灰色のアスファルトは来た時よりもずっと軽くて、先輩が死んだっていうのに私の気分はスッキリしていた。

 先輩が望んだことなら、これは悪いことじゃない。先輩が私のために死んでくれるって言うんなら、こんなに幸せなことはない。


 私が1歩1歩踏みしめて進んでいく度に、先輩との思い出が走馬灯のように駆け巡っていく。そのどれもが楽しい思い出で、一点の濁りもない清水のようで、胸が締め付けられたけど悲しくはならなかった。


 先輩には、もう会えない。

 でも先輩は私の中でずっと生き続ける。

 先輩がこの世に生きた証拠は、私だ。私がいる限り、この世から先輩は消えないんだ。


 後悔なんて、もうひとつもない。

 これから何があっても、先輩と一緒に過ごした日々を思い出せば乗り越えていける。


 そう思っていた。


 そう思っていたのに、私は帰路の途中で聞いてしまったんだ。




 先輩の断末魔を。




 「…………ひっ!」


 思わず顔を引き攣らせて、声を上げてしまった。次の瞬間、今まで隠していた黒い感情が先輩との思い出ごと呑み込んで、私を支配した。

 先輩は、死にたかったわけじゃない。心の底から死にたいと思って死んだんじゃない。

 だからあんな凄惨な叫びを上げるんだ。


 嫌だ……。気づきたくなかった。

 先輩を助けられるかもなんて、絶対に無理だと思って押し殺したのに。先輩の為にならないと思い込んでかき消したのに。

 今更になって、私のエゴは先輩を求めている。


 嫌だ……。

 嫌だ嫌だ嫌だ……!

 今ならまだ間に合うかもしれない。もしかしたら、息が繋がってるかもしれない……!川下に行けば、もしかしたら先輩を助けられるかもしれない…………!


 私は全力で走って、転げ落ちるように下流へと向かった。吹き抜ける風の心地良さが腹立たしくて、そよそよと揺れる木の葉の音がやかましくて、踏み鳴らす砂利の音には殺意すら芽生えた。


 お願いします、先輩を……助けてください!

 信じたことすらない神に祈りながら、私は全力疾走して先輩の下へ向かう。わずかでも可能性があるなら、捨てたくなかったから。








 でも、間に合わなかった。








 「先……輩…………」


 先輩は、そこにいた。

 多くの落ち葉と少しの花びらに囲まれながら、岩に引っかかっていた。

 でも、私が見つけた時にはもう意識はなく、呼吸も止まっていた。私には心肺蘇生なんて出来ないし、助けを呼ぼうにも周りには誰もいない。

 というより、そんなことをするだけ無駄だ。先輩はもう、死んだ。


 「なん……で……!」


 私は、声を大きく上げて泣いた。

 私の中にはもう後悔しかない。全部予想できた結末なのに、それを止められなかった自分が憎くてしかたない。


 先輩。あなたは本当に幸せでしたか?

 私が好きだから死んで、最期まで私のことを愛してくれて、そんな私のための人生を過ごせて、そしてこんな形でそれを終わらせて、本当に良かったんですか?


 だとしたら、なんでこんな苦しそうな顔で死ぬんですか。


 「嫌だ…………!」


 私は先輩を引きずり出し、抱き上げた。

 水を吸った先輩の服と体はすごく重くて、腕が引きちぎれそうだった。これが人の死の重さなんだなって、そこで初めて思い知った。


 先輩はさっき見た時と何も変わってない。強いて言えば靴を脱いだくらいで、服装も髪型も、別れる前と何も変わってない。

 さっき見た先輩と、今ここにある死体が同じものだって、嫌でも理解できた。


 「行かないでください……!私を、1人にしないでください……!!」


 考えれば考えるほど、辛くて仕方なかった。

 もう先輩は帰ってこない。今更何をしたところで無駄だって言うのに、それでも私は先輩に起き上がって欲しい。

 自分勝手なわがままだっていいじゃないですか。私、先輩のカノジョなんですよ?これまでも、これからも、先輩のことを一途に想い続けるって、そう心に誓った女なんですよ?

 わがままくらい、聞いてくれたっていいじゃないですか……!


 どれだけ叫んでも、先輩は黙ったままだ。

 心のどこかで、いつもみたいに私をからかって死んだフリをしているのかもしれないって、そう思うのも、そろそろ疲れてきた。


 先輩は、もう死んだんだ。


 受け入れたくない。乗り越えたくない。先輩の死を乗り越えたら、それは先輩のためにならないと思う。

 先輩は言ったんだ。私を忘れないでねって。それなのに先輩を軽々と乗り越えてしまったら、先輩はなんのために死んだって言うんだ。


 私は先輩の死を背負っていく。

 このまま先輩を抱えて、元の生活へと戻っていく。たとえそれが先輩の望みじゃなかったとしても、もう関係ない。

 これは、私のわがままだから。




 ――――――――――――――――――――――――




 卒業式の日。

 私は部活の3年生の門出を見送るために、学校を訪れていた。


 「可憐ちゃん……!来てくれたんだ!」


 「はい、先輩方にはお世話になりましたから」


 いつも以上に身なりを整えて私を出迎えてくれた先輩達。その下手な作り笑顔が、私の心を締め付けた。


 「ありがとうね、可憐ちゃん。ここに来るの、辛かったろうに」


 「…………バカだね、中野。可憐ちゃんは私達に会いに来たわけじゃないでしょ」


 「……そうだよね」


 先輩達は複雑そうな表情を浮かべていた。

 卒業という晴れやかな行事なのに、一つだけパズルのピースが欠けている。

 その一点の違和感が何よりも悲しくて、彼女達に作り笑顔を強要していた。


 「絵里香ちゃんも、きっと可憐ちゃんが来てくれて喜んでるよ」


 私と先輩が付き合ってるのは、部の中では割と有名な話だったらしい。だからこんなに気を遣わせてるんだ。なんだか申し訳ないことしたな。


 「……あなたが、可憐さん?」


 「え?あぁ、はい」


 私が呼び掛けに振り向くと、そこには正装の中年の女性が立っていた。なんとなく醸し出す雰囲気から、それが誰なのか分かった。


 「ありがとう、来てくれたのね」


 先輩のお母さんだ。


 「おい、その子が可憐さんなのか?」


 後からやってきたのはお父さんだと思う。同じく雰囲気からなんとなく察しがついた。


 「えぇ……。本当に、絵里香がお世話になりました」


 「いえ、そんな。私は何も」


 「そんなことはない。絵里香は生前、君のことを楽しそうに話していた。君は絵里香の心の支えになっていたはずだ」


 「えぇ……。きっと、私が絵里香を追い詰めてしまったのよ」


 お母さんは涙ぐみながら私を見る。

 お父さんも微かに肩を震わせながら俯いている。


 よかったですね、先輩。あなたが死んで悲しんでくれる人はこんなにいます。

 あなたの存在は、無駄じゃなかったんですよ。


 「いえ、違います。お二人のせいじゃないですよ」


 私は微笑みながら言った。

 かつて先輩が私にそうしたように。


 「先輩が死んだのは、私のせいです」


 ねぇ先輩。

 あなたが死んだ後も、この世界はなんの不自由もなく回ってます。どこまで行っても、先輩はただ1人の人間に過ぎません。いなくなったところで、世界が滅ぶなんてことはないです。


 それが憎くて仕方ないのは、いけないでしょうか?

 先輩がいないのに形を保ってるこの世界。

 先輩を失ってもなお変わらず回り続けているこの地球。

 先輩がいないのに大地を照らし続けてる太陽。

 その全てに苛立つことは、悪いことでしょうか?


 ねぇ先輩。

 私はあなたの死に納得してません。今更になって引き止めなかったことを後悔して、毎日毎日夢の中であなたに恨まれて、それでも朝になればあなたを恋しく想ってしまう。

 私があそこでわがままを通していれば、先輩はみんなと一緒に笑っていたのでしょうか。それを見て私は少し嫉妬して、そんな私に気づいて駆け寄ってきてくれて、それが私と先輩との最後になる。

 そんな未来はあったのでしょうか。


 先輩。

 私のことを忘れないでって言ったあなたは、私のことを覚えてますか?

 天国で私との思い出を思い出してくれていますか?


 先輩。

 もう少しだけ待っててくださいね。

 不謹慎かもしれないですけど、私今から死ぬのが楽しみなんです。

 先輩はきっと私の姿を見て怒るだろうけど、たまには喧嘩してみるのもいいかもしれないですね。


 先輩。

 向こうで会えたら、また絵里香って呼んでもいいですか?

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大好きな先輩が自殺した セリシール @cerisier_0910

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