南風

lager

海の少女

 南風はどこだろう。


 私がその少女に出会ったのは、茹だるような真夏日の、寂れた農村だった。

 彼女は日に数本しかない電車に乗って、山間のこの村に現れた。

 真っ白のワンピースと麦わら帽子。髪の毛は豊かなウェーブを描いた黒。細い手足は、どこか潮の香りを纏うような、小麦色の肌をしていた。


 南風はどこだろう。

 歌うような声でそう呟いた彼女の声を私が拾ったのは全くの偶然で、私は無人の駅舎から見える山の景色を撮影するのに夢中で、彼女が私の背後を通り過ぎたことにも気づかなかったのだ。

 私からすれば突然聞こえたその声に(だって、まさかこの電車に人が乗っていたなんて!)、私は弾かれたように振り返り、彼女の姿を見た。


 彼女もまた振り返って私と目線を合わせると、にっこりと微笑んで言った。


「夏休みかしら」


 ほんの僅かに嗄れた声は、年相応の少女のようにも、世間ずれした女のようにも聞こえ、こんな中年の男に向かって「夏休みかしら」とは、一体なんのつもりかと訝しむ間に、少女は踵を返して歩き出した。

 ただ歩いているだけなのに、どこか踊っているかのような軽やかな足取りで、少女は太陽の光を跳ね返していた。


 一体どこから来たのか知らないが、彼女の持ち物は小さなショルダーバッグだけだった。その背中から口笛でも聞こえてきそうなほど、彼女は浮かれた様子だった。


 蝉の音が四方八方から聞こえる。

 頭上からは暴力的な夏の太陽が光線を撒き散らしている。

 アスファルトの道は蕩けそうで、青々とした山の景色も、道端の雑草も、畑の稲も、何もかもが眩い緑色で。

 彼女の白いワンピースだけが、夢幻のように揺れて風を感じさせていた。


 彼女の向こうから、自転車に乗った駐在の警官が汗みずくで現れた。

 その少女が地元の人間でないことは一目でわかったのだろう。その丸々と太った人好きのする笑顔で彼が声をかけると、少女は立ち止り、いそいそとショルダーバッグを漁った。


 そして、その中から取り出した拳銃で警官を撃った。


 冗談のように大きな音が鳴って、蝉の音が止んだ。

 警官の体が揺れ、自転車ごと倒れた。

 どくどくと、血が流れだす。

 赤い血が。

 アスファルトに広がっていく。


 それはやがて空の色を映したように蒼色に変わり、道を覆い始めた。

 明らかに一人の人間から放出されたとは思えぬ量の液体が、どんどん広がり、緑色の世界を侵していく。


 風に、潮の匂いが乗った。


 私は彼女の後を追った。

 彼女はそのまま集落のある方向へと足を向け、すれ違う人間を次々と撃って行った。

 畑仕事をする老爺も、犬の散歩をしている老婆も、彼女の鼻歌と拳銃の轟音と共に地面に倒れ伏し、どくどくと潮水を吐き出していった。


 水はどんどんと量を増していき、気づけば村の道はすっかり海辺のようになっており、ところどころに珊瑚礁が現れていた。

 私の足元を見たこともない魚が泳ぎ、聞いたこともない鳥の声が天から聞こえてくる。

 ぷかぷかと浮いた、先ほどまで田んぼの手入れをしていたはずの老人はほとんど皮だけの姿になって白目を剥き、鈍色の背の魚に身をついばまれていた。


 少女の足取りは軽やかで、日の光は相変わらず強烈で、足元の水嵩はどんどん高くなり、風に合わせて波打ち始めた。

 海だ。

 噎せ返るほどの真夏の緑の匂いは、すっかり潮の香りに塗り替えられ、山間の村の景色は、今にも海の中に沈んでいきそうだった。


 やがて集落の中で一番大きな屋敷から村長が現れ、少女の前に立ち塞がった。


「もう手遅れだ。こんなことをしても。我々は育ちすぎてしまった」

「ええ。だから還るのよ。みんな、最初は潮水から生まれたんだもの」

「これからどこへ向かわれるのか」

「南風の吹くところ」


 轟音。

 どくどくと。水が増していく。

 私は見渡す限り広がった塩辛い水に膝の上まで飲まれながら、黒髪を風にはためかせる彼女の姿を、夢中でシャッターに収めた。


 木造の民家は、いつしか黒々とした藤壺に覆われ、空の色を映した水面は白い飛沫を撥ねさせ、蝉の声はどこにも聞こえなくなっていた。

 代わりに、どこからともなく繰り返す大きな波の音に村中が包まれ、眩い太陽がきらきらと輝いて乱反射していた。

 遠く向こう、山の麓で、鯨が跳ねた。

 

 少女はくるりと振り返り、私に微笑みかけた。


「夏休みは満喫できた?」


 私が曖昧に微笑み返すと、彼女はすっかり濡れたワンピースの裾を持ち上げ、眩い小麦色の足でじゃぶじゃぶと潮水をかき分け、私の横を通り過ぎた。


「最初はね。もっと簡単だったのよ。水の中だけにいればよかったの。人間だって一度は海に帰ったのに、また陸に戻って行った。そんなにいいものかしら。こんなに乾いて、欲しがって、積み重なって。今にも倒れてしまいそう」


 少女の声は少しだけ寂しそうで、その口元には笑みが浮かんでいた。

 私はもう一度だけ、太陽の光を浴びる彼女の姿を写真に撮ると、南風はどこから吹くのかと、それだけ聞いてみた。


「さあ。きっと暖かくて、優しい場所じゃないかしら。そうだといいな」


 藤壺に塗れた民家に波が打ち付けられ、飛沫が散った。

 日の光によって輝きを増したそれが、少女の微笑みを彩った。

 鼻歌を口ずさみながら去って行く少女の背中を、私は黙って見送った。


 眩暈がしそうな夏の日差しと、潮の香りが私を包み込んでいた。

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