消しゴムのおまじない
朝田さやか
消しゴムのおまじない
「なあ武井、知ってる? 消しゴムのおまじない」
そのとき、どくん、といつもより大きく胸が鳴った。中村くんと喋るのはいつもどきどきするけど、いつもよりもっと、胸が大きく鳴ってたんだ。
「ま、ま、またそうやって雑談ばっかりするんだから。はやくこの問題教えてよー」
机を挟んで対面する中村くんと目を合わせられずに、話を逸らしたくて参考書をトントンと指で叩いた。教室を染める夕陽の色が、きっと私の赤い頬を隠してくれてると信じて。
放課後の教室はいつも、中村くんと二人きり。数学が壊滅的にできない私のために、担任の先生に頼まれて毎日、中村くんは私の放課後補習に付き合ってくれている。
「教えるのだけだと飽きるんだよ」
「もう、こっちは数学二連続赤点のピンチなのに!」
でも、中村くんは真面目で面倒見が良くて、っていうようなタイプじゃ全然ない。授業中もずっと友達と喋って、たびたび先生に注意されてるような人だ。昨日の席替えで隣の席になってからは何かと話しかけられて、授業に集中できなくて困ってる。私は中村くんのせいで他の教科も成績が下がっちゃいそうなのに、当の本人の成績はずっと学年トップなんだ。
頭が良いのは間違いないけど、勉強を教えてもらうのには向いてない。だって、飼っている猫が洗濯機に入ってた話とか、クラスの男子で流行ってるゲームの話とか、学校では怖い理科の先生が娘にでれでれしてるのを見た話とか、口を開けばほとんどが勉強以外の話で、教えてもらってるというよりは楽しくお喋りしてるって感じだから。
中村くんの話は面白すぎて、気をつけてないとどんどん引き込まれて話し過ぎて、勉強時間がなくなっちゃう。だけど、たぶんそのおかげかな。毎日の補習の時間が待ち遠しくて、昔からあんなに大っ嫌いな数学の勉強が、楽しいって思えてるのは。
「はいはい、しゃあねえ分かった分かった。この問題はまず……」
だけど中村くんは、先生に頼まれたからしぶしぶ私の勉強に付き合ってくれてるだけだ。それなのに、毎日ちゃんと時間を取ってくれて、なんだかんだ言ってもこうして教えてくれる。しかも、昔っからの数学嫌いの私でも理解できるくらい分かりやすい。こう見えても、とっても優しい人なんだ。
「ここで今日授業で習った公式使うのな」
「はい、中村先生」
中村くんがくれるヒントを頼りに必死で手を動かしながら、それでも気づけばちらちらと中村くんの顔を盗み見てしまう。今どきのマッシュヘアにはっきりとした大きな瞳、すらっとした鼻筋。クラスの女子から大人気な「韓流イケメン」って感じのその顔についつい見惚れてしまっていたら、私の視線に気づいた中村くんと目が合った。
「なんだよ」
「ううん、なんでも」
そう言いながら、すぐに視線をノートに戻す。恥ずかしい。ずっと見てたの、気づかれたかな。
「武井こそ集中しろよなー、教えねぇぞ。ほらここ、間違ってるし」
「え、ええ、あっ、そっか」
――ああっ、消しゴム!
間違い箇所を指摘されて慌てて消しゴムを掴もうとした拍子に、掴み損ねた消しゴムが指に当たって前方へ飛んでった。ころころと転がった消しゴムが、広げて座っていた中村くんの足に当たって止まる。
「何してんだよ」
そう言って拾ってくれた消しゴムを差し出す、軽く笑った表情にすらきゅんとしてしまう。
「ありがと」
けれど、私が消しゴムを受け取ろうとした瞬間に、出していた手を引っ込められた。
「ちょっと、消しゴム」
「もしかして、返してくれないと困ったりすんのか?」
「え、な、何が?」
「いいや?」
中村くんはそう言って、意味ありげに微笑んだ。にやにやと、大魔王くらい意地悪そうな表情で。
「慌ててたのってもしかしてさ、消しゴムのおまじないしてるからとかじゃねーの?」
中村くんと目が合って、どきんと胸が熱を持つ。じわじわとその熱が身体中に広がって、教室の茜色ではごまかしきれないくらいに赤くなった。
「し、知らないよそんなの」
返して、という視線を送っても、中村くんは取り合ってくれそうにない。本当はおまじないのこと知ってるけど、そんなこと絶対言えない。
「ふーん。いやさぁ、新品の消しゴムのカバーの下に好きな人の名前を書いて、使い終わるまでに誰にも好きな人のことを言わなければ恋が叶うってやつなんだけど、この消しゴム新品だし、さーて、どうだ」
「あっ、ちょっ」
そう言いながら、中村くんは私に許可も取らずに消しゴムのカバーを勢いよく引き抜いた。
「なんだよ、真っ白かよ」
だけど、消しゴムは真っ白なまま、そこには何も書かれていない。
「だから知らなかったってば、ほら、返して」
知らないふり、知らないふり。そうやって言い聞かせながら、できるだけ普通を装う。どきどきしてることがバレませんように。
「はいよ」
「ありがとう」
返してもらった一瞬、指が触れただけで心はオーバーヒート寸前だ。そのことにも気づかれないように、すぐに間違ってた部分を消して、うんうん数学の問題に唸ってるふりをした。
本当は、中村くんが言ってた消しゴムのおまじないに絶賛力を借りている最中だ。筆箱の底に眠ってるもう一つの消しゴム。そこには、カバーの下にはっきりと「中村良平」という字が書いてあった。人前で使うのが恥ずかし過ぎて、数ヶ月前に下ろしてからほんのちょっとしか消費できてない。
「なら、武井は好きな人とかいねえの?」
「うぇえっ!」
「どうしたどうした、そんなに驚くな」
「ご、ごめん」
中村くんから飛んできた、突然の質問。そんなの、びっくりするに決まってる。だってちょうど、中村くんのことで頭をいっぱいにしてるときだったんだから。
「ははーん、いるんだな、その反応。教えろよ」
「いないよ」
私は首が痛くなりそうなくらいぶんぶんと首を横に振る。中村くんです、なんて本人を前にして言えるわけない。中村くんはみんなの人気者で、頭が良くて、かっこよくて、優しくて、クラスのムードメーカーで。
「言わないと勉強教えないぞ」
「だから、いないってば」
「ほんとか?」
頭が悪くて、勉強を教えてもらうようになる前は大した接点もなくて、それでも私はずっと前から好きだった。
中村くんはきっと、覚えてないと思うけど。あれは忘れもしない高校入試の日のことだった。消しゴムを忘れて来たことに気づいた私は慌てふためいていて、周りに知り合いもいなかったから、どうしようどうしようって不安に包まれてた。そんなとき、「どうしたの?」って声をかけてくれたのが中村くんだった。
自分も入試直前のはずなのに周りに気を配って、席が隣だった私の様子に気づいてくれて。私は知らない人と喋るのにどきまぎしながら、藁にもすがる思いで消しゴムを忘れたことを話した。
そうしたら「じゃあこれ使いな」って、自分の持ってた消しゴムの先の部分を大胆にちぎって私に渡してくれた。だけど、とにかくテンパってた私はありがとうとかすみませんとか、とにかく訳も分からず言葉を並べ立てた記憶がある。
そんなとき、中村くんがふっと笑みをこぼして。思わず見惚れてしまって、そんな私の間抜けな顔を見て、中村くんはくくくっとさらに笑い始めて。その笑顔が何故だか私の心をすーっと冷静にしてくれた。
流れるように消しゴムを私の手に乗せた後、中村くんは「じゃあお互い頑張ろ」とまた優しく笑ってくれて。たまたま席が隣だっただけの、言わば受験のライバルに嫌な顔一つせず消しゴムをちぎってくれた優しさに、私は惚れてしまったんだ。
消しゴムをぎゅっと握りながら、私はその笑顔をもっと見たい一心でその日の入試を乗り越えた。中村くんはテストが終わると同時に帰ってしまったから、お礼も何も言えないまま。だけど、またもう一度会えるように、二人とも合格していることだけを祈っていた。
あの日から気づけば半年。入学して同じクラスになって、運命だって一人で勘違いして話しかけようとしたけど、中村くんは全く私に気づかなかった。まあ、私も高校デビューとばかりに髪型をばっさり切って、メガネからコンタクトレンズに変えたんだから無理もないんだけど、そうじゃなくてもきっと中村くんは覚えてないと思う。
日常的に優しさを周りに振り撒いてる中村くんにとっては、あれは特別な出来事なんかじゃない。そのことを分かってるけど、日に日に好きな気持ちは大きくなるばっかりで。消しゴムは私が中村くんを好きになった特別なものだから、このおまじないに頼るくらいしか、こんな私の恋が叶うチャンスはないのに。消しゴムを使い切るまでは、この恋は誰にも言えない。
――ガラッ。
「良平〜」
私が昔のことを思い出しながら、中村くんと睨み合っているちょうどそのとき、教室のドアが元気よく開いた。そこに姿を見せたのは、同じクラスの中村
「有栖、どした?」
「ごめんね、体育委員会の会議そろそろ始まるから呼びに来た」
「ああ、なら行くわ」
下の名前を呼び合う親しげな雰囲気に、心がチクリと痛む。有栖ちゃんは賢くてノリも良くて顔も可愛くて、かっこいい中村くんにとってもお似合いだ。二人はとっても仲が良くて、なにかと一緒にいることが多かった。
「じゃあ今日はここまでだな」
「うん、ありがとう」
「また明日な」
「うん、また明日」
ばいばいと手を振って、中村くんが有栖ちゃんと一緒に教室から出て行く。「わはは」と楽しそうな笑い声が聞こえて、また胸が締め付けられた。私も同じ名字なら何か違ってたかな、なんて思わず意味のないことを考えてしまう。
筆箱の底から、もう一つの消しゴムを取り出す。この消しゴムを使ったところで、この恋が叶わないってことは分かってる。それでも、「また明日」の言葉に期待を込めて、意味もなく目の前の図形をごしごしと消した。
✳︎
「武井、今日俺消しゴム忘れた」
次の日、登校して席に座るとすぐに中村くんが私にそんなことを言った。
「あ、なら私二個持ってるから一個貸すよ」
中村くんが忘れ物なんて珍しいな、とか、あの日の借りを返すチャンスだな、とか、私を頼ってくれて嬉しいな、とか、今日もかっこいいな、とか。そんなことが一度にぐるぐると頭を渦巻いたせいで、あまり深く考えずにそう言ってしまった。
「あ……」
「どした?」
「ううん、い、いやなんでもないよ? こ、これどうぞ」
言ってしまってから気づく。昨日消しゴムのおまじないの話をしたばっかりだっていうのに、二個持ってるなんて言ったら気づかれてもおかしくない。
「こっちほぼ新品じゃん、もう一個の方は?」
「大丈夫! こっち使って」
もう一個の消しゴムなんて、貸せるわけがない。昨日みたいにカバーを外されたら今日こそ一巻の終わりだ。
「いや、そんなに言うなら絶対もう一個の方貸してくれ」
「絶対無理!」
頭の良い中村くんだ、今のでほぼ間違いなく気づかれた。だけどそれでも、貸さなければバレることはない。知られずに使い終わらなきゃいけないから、どうしても。
「これから勉強教えないぞ」
「そればっかりじゃん!」
「ほら、貸してって」
「もう、私じゃなくても有栖ちゃんに借りれば良いじゃん」
こうなったらやけくそだ。私を頼ってくれたのが嬉しいって思ってたのに、私じゃないとダメだって理由なんてないでしょって気持ちが心の中でぐちゃぐちゃに入り混じる。
「嫌だな、いとこだからこそ余計な借り作りたくねぇ」
「えっ? いとこ……」
「ん? そうだけど?」
知らなかったのか、とでも言いたそうに、中村くんは私を見つめていた。いとこ、いとこ、いとこ……。私の頭をその三文字が埋め尽くす。よくある名字だから同じなだけだと思ってたけど、いとこだったからなんだ。
「仲良いのは、いとこだからってだけだ」
中村くんのテノールの素敵な声が、私の耳に響く。届かないと思ってた、大好きな声。そっか、それならもしかして私にもチャンスがあるって思っても良いのかな。
「だから、消しゴム」
今度はもう逃さない、そんな真っ直ぐな視線が私を射抜く。
「なんでそんなに、中村くんは私の消しゴムにこだわるの」
中村くんの視線に触れたそばからどきどきが止まらない。恋する気持ちが、ゆっくりと身体中に飽和していく。今にも弾けてしまいそうなほど、この鼓動は特別に拍を刻んでいる。
「知りてぇからだよ、武井の好きな人が」
「えっ」
――ああっ、筆箱!
中村くんの言葉に驚いて、肘をぶつけた拍子に筆箱がひっくり返って机から落ちた。ガシャガシャと盛大な音を立てて中身が床に散らばる。
「隙あり」
私が、落ちたことに戸惑った一瞬の隙だった。中村くんはまるで飢えたライオンみたいに、床に落ちた消しゴム一つを目にも止まらぬ速さで拾った。
「あっ、だめ!」
静止の声も虚しく、中村くんがおまじないのかかった消しゴムのカバーを勢いよく引き抜いた。
その瞬間、世界が止まったみたいだった。消しゴムに書かれた「中村良平」の文字を見た途端、中村くんが固まって。それと一緒に私の心臓も時間も止まったみたいに思えた。
「ふはっ」
だけど、あの日みたいに緩んだ中村くんの表情に、世界がまた動き出した。心臓は張り裂けそうなくらいに大きな音が立っている。そして、身体中が真っ赤に染まるのが自分でもわかった。
「入試の日も思ったけど、武井って分かりやすいよな。まあそんな素直なとこが可愛くて良いんだけど」
え、待ってそれって。もしかして、もしかするの?
「覚えてたんだ、というか私だって気づいてくれてたの」
「ばーか、俺の記憶力なめんじゃねーぞ」
そう言いながら、嬉しそうにくくくと笑う中村くんの笑顔があの日と重なる。視線が私に注がれてどきどきして、だけど気づいちゃった。中村くんも、私みたいに耳まで赤くなってるってこと。
「安心しろよ、消しゴムのおまじないは好きな人を言わなければセーフだ。なあ、俺の消しゴムのカバーの下にはなんて書かれてるだろうな?」
にやり、と、中村くんが意地悪に笑う。ときめく恋心には、その笑顔は刺激的過ぎて。ごまかすみたいに、落ちた筆箱の中身を拾う。
「武井、一緒に使い切るまでな」
隣でしゃがんだ中村くんが、私の耳にそっと囁いた。恥ずかし過ぎて、見つめることはできないけど。きっと中村くんは、またさっきとは違う
「うん」
中村くんに教えてもらって、たくさん勉強しよう。そうすれば、頑張った分だけ消しゴムを使い切るのが早くなる。消しゴムを使い切るまでは、誰にも言えないけれど。使い切ったら一番に、想いを伝えてもいいかな。
だって、この消しゴムのおまじないはきっと叶うから――。
消しゴムのおまじない 朝田さやか @asada-sayaka
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