僕はその日、青春の匂いを嗅いだ。

絢郷水沙

青春は甘くてほろ苦い。それでいて埃っぽい。

 僕はその日、青春の匂いを嗅いだ。

 その匂いは甘酸っぱく、でも苦くて、ほんの少し埃っぽい、そんな匂いだった。


    ◆


 五月のとある晴れた日。その穏やかな日の昼休み。自席で頬杖をつく僕の頭の上に、突然、がさりと何かが乗っかった。


「なに、ぼんやり見つめてんだよ」


 頭上からうざい声が降ってくる。と、同時に柑橘系の甘く酸っぱい匂いがふわりと揺れた。

 視線を上げてみると、僕の前の座席の男子が、真後ろからゆらりと現れた。ちゃりんちゃりんと音を出して、否応なく僕の視界に入ってくる。


「なにって……。別になにも」

「嘘つけ。見てただろうが、高城のこと」


 ビニール袋を持っていた彼は、自分の席に背もたれを抱え込むようにして座った。


 教室の窓は開いていて、さわやかな五月の風が吹き抜ける。

 まっさらな僕の机の上は、賑やかな教室に染まるように袋の中身が広げられた。

 それは、購買で売られている百六十円のクリームチョコパンと、二百五十円の水曜限定かつ、十個しか発売されないという噂のアイスメロンパン。


「邪魔なんだけど」


 と、僕の声も聞かずに彼は、アイスメロンパンの包みを破る。ワイシャツの両袖をまくり、大きな口でひとくち齧った。


「なあ、知ってるか?」


 もごもごとした口で彼が聞く。

 なんとなく察しはついていた僕だったが、「なにが?」と聞いていた。

 彼は、少しだけ楽しそうな声を滲ませてからこう言った。


高城たかじょうの彼氏が誰か」



    ◆



 目の前にいる彼の名は、夕張ゆうばりいつきといった。僕の中学時代からの知り合い。

 爽やかな見た目に憧れた、今時の男子高校生。昔はそんな風柄ではなかったのに、今では制服を着崩したり、耳にピアス穴を開けたりしている。高校に入ってから鍛えだしたようで、太くがっしりとした腕には、Casio製の腕時計がはめられ、嫌でも目に入った。

 夕張が高城さんの名前を出したのは、僕が彼女のことを見つめていたからだ。でも言うほど見ていたのだろうか?


 僕は夕張の投げかけには、「知らない」と答えた。

「気になってるんだろう」という夕張に、僕は「別に」と答える。


 高城佐南さなは、僕や夕張と同じ二年五組のクラスメイト。

 お淑やかで、笑顔が素敵な彼女。艶やか黒髪はいつも後ろで縛られ、揺れるたびにちらりと覗く白磁はくじのようなうなじが僕は好きだった。

 しかし、今日だけは違っていた。


「ほら、高城さんの髪型いつもと違うから」

「ああ、なるほどな」


 今日の彼女は髪を下ろしていた。肩甲骨の辺りで毛先がさらりと揺れている。

 三つほど離れた席の彼女は、友人らしき女子とお昼ご飯を食べていた。僕たちの邪な視線には気づいていないようだった。


「告ってみろよ」


 彼が唐突にそんなことを言いだした。


「どうして」

「好きなんだろ。だったら告ってみろよ」

「…………」


 たぶん僕は彼女のことが好きだ。でもそれとこれとは違う。


「無理だよそんなの。二重の意味でね」


 夕張は「だろうな」と、当然のように嘲笑った。

 彼は、僕が弱虫だと決めつけている。告白しないだろうと分かっていて、わざとそういうことを言う。そしてわざとそういうことを言っていると分かっていて、僕は何も言い返さない。


 僕は話題を変えたくて、目の前のパンに視線を移した。


「それ、噂のメロンパンでしょ。一口ちょうだいよ」


 だが、夕張はくれなかった。薄眼であしらうように手を振ってくる。

 わかっていたことだった。

 短くない付き合いの中で彼が器の小さい男であると知っていた僕は、そこまで悲観はしなかった。それに話題転換のために言ったに過ぎない。あまりお腹も空いていない。


「食いたいなら買いに行けよ」と、夕張がいけずなことを言う。


「別に。それに今行ってももう売り切れてるでしょ。チャイム鳴ってすぐに行かないと」

「そうだな。今日の俺はラッキーだった。なんたって朝のテレビでやってた占いで一位だったからな」

「その割には、財布忘れてるけどね」


 すると、夕張は少し驚いた顔を見せた。


「おい、なんで知ってんだよ。あ、さては、俺が金借りてるのをどこかで見てたな」

「見てない。でも簡単な推理だよ」


 不思議そうな顔の夕張。僕は説明した。


「さっき君のポケットからちゃりんちゃりんと小銭の音がした。購買でパンを買った時のお釣りでしょ。たぶん九十円。財布を持ってるなら普通そこにしまうはずでしょ。それに君はいつも、パンと一緒に自販機でアイスティーも買ってくる。でも今日は買ってない。買わないんじゃなくて、買えない。それは財布を忘れたから。九十円じゃ足りないからね」


 すこし眉を上げた夕張。


「すげえな佐久間さくま。お前、探偵になれるぞ」


 彼はポケットの中の小銭を取り出し、机の上においた。五十円玉一枚と、十円玉四枚。


「よくお釣りが九十円ってわかったな」

「それはただの当てずっぽう。でも理に敵った当てずっぽう」


 聞かれてないが、言いたいので僕は言う。


「まず、お金を借りるとしたら五百円か千円か切りのいい金額だと思った。君が買ってきたパンの合計金額は四百十円。五百円ならお釣りは九十円。千円なら五百九十円。でも千円も借りたのならアイスティーを買わないはずがない。だからお釣りは九十円」


 もちろんアイスティーが売り切れていた可能性もあるが、ないならないで別のものを買うだけだろう。夕張もそこまでこだわってアイスティーを飲んでいるわけでもあるまい。


「へえ……。やっぱすげえよお前」


 僕の推理を聞いた夕張は、感嘆をもらした。が、その割には、声に感心がこもっていない。


「将来は探偵にでもなったらどうだ」と、また揶揄った。



    ◆



 夕張樹は自慢したがりの高校生。

 彼が「知っているか?」と聞いてきた時、たいてい僕はその内容を知っている。そして、僕が知っていることを知っていて、それでもなお聞いてくる。それは彼が自慢をしたいから。

 ついこの間も、「これいくらか知ってるか?」と腕時計を見せてきた。知らないわけがなかった。なぜならその腕時計は、僕が欲しいと以前口にした時計だからだ。何気ない会話の合間にぽろっと口から出たそれを、彼はしっかりと覚えていたようだ。

 さらに彼が「やれば?」と何かを提案してきたとき、たいてい僕にはそれが不可能だと彼は思っている。


 ついさっきも探偵になることを勧めたけれど、なれるなんて微塵も思っていないだろう。そう思わせる声の抑揚だ。極めつけは「告ってみろよ」ときた。心底、僕を馬鹿にしていた。あいつは腹の中で今も嗤っているんだ。

 僕自身、探偵になれるとも、なりたいとも思わない。でも推理には自信がある。今だって、お前は僕に自慢したがっていることがあるんだろう。


 それを確かめるために僕は話題を振った。


「ねえ、昨日は学校終わってからどっか行ったの?」


 クリームチョコパンをかじる夕張は、わずかなを空けてから「なんで?」と聞き返した。質問の意図を問う人間は、たいてい秘密を隠している。

 だが、今の僕にはそれを許すことはできない。確かめたい。

 僕は油断を誘う為に、少し引いてみる。


「ちょっと気になったから」


 警戒をうすめた夕張は、「友達の家に遊びに行った」と答えた。

 間違ってはいないだろうが、おそらく正しくもない返答。

 さて、その友達とはいったい誰なのか?


 と、その時、僕の視線と高城さんの視線が交わった。

 僕はまた無意識に彼女を見ていたのだろう。彼女が僕らの方を向いたので、自然と僕と目が合った。

 彼女の目を細くした愛想のいい柔らかな笑みが僕の心を掴む。

 おもむろに席を立った彼女は、僕たちの方に近づいてきた。手には何かを持っている。


「やあ、高城さん」

「佐久間くん」


 声をかけると、高城さんはまた微笑みかけてくれた。高城さんのいつもの香りがふわりと僕に触れた。

 僕と視線を交わした高城さん。でもやはり、用事があったのは前の席の男のようで、


「はい、樹くん。さっき見つけて渡すの忘れてた。これ落ちてたよ」


 と、彼女は手に持っていたそれを渡した。それは、忘れたはずの夕張の財布だった。


「おお、そっか。わりい。サンキュー」


 感謝の感じられない態度で財布を受け取った夕張。そのそっけない態度がまたムカつく。

 高城さんの用事はそれだけだったようで、渡すと直ぐ席に戻ろうとした。

 だから僕は、彼女に声をかけた。


「ゴムはしたほうがいいよ」

「え」


 彼女ははっと振り返って、僕の顔を見た。


「ヘアゴム。そのほうが高城さんらしい」


 僅かな戸惑いを安堵に変え、口の端に笑みを作った彼女。


「そうかな」

「うん。そのほうが僕的には好きだな」


 照れるように、彼女は頸に手を当てた。


「今日はちょっと気分を変えてみたの」

「そうなんだね」


 そして彼女は自分の席に戻っていった。



    ◆



 いま全てが繋がった。だからこそはっきりと言葉にしよう。そう、僕は高城さんが好きだ。

 僕が高城さんのことを好きになったのはなぜだろう。一目ぼれから始まり、言葉を交わし、だんだんと内面を知って、好きを募らせていった。

 決定打はない。ただ僕の好きの条件に彼女が当てはまっただけだ。

 それでも僕は、間違いなく高城さんが好きだった。でもその好きを形にしようとしなかった。それはこの恋がそれほど大切なものだと思わなかったからだろう。どうせ、彼女じゃなきゃいけない理由はないんだ。だから……。


 ……いや、違う。これは言い訳だ。


 好きを形にしようとしなかったのは、僕がおびえていたからだ。

 おびやかされて強く意識した。

 僕は、日常が壊されていくのを極度に恐れていた。

 今までうざいやつが現れても適当にあしらってきた。得意げに自慢をされても、反発もせず受け流してきた。敵対すれば日常に翳が差すから。

 恋も同じだ。

 すれば間違いなく日常は変化する。今までと同じではいられない。

 恋は実に甘美だ。甘くて、甘ったるい。少し味わっただけでも、魅せられる。

 そして苦みを知れば甘さはより際立つ。


「なあ、知ってるか夕張」


 僕は甘みと苦みを味わった。だから次はお前に教えてやろう。

 僕は目の前の男を見据え、はっきりと言ってやった。


「君の彼女──高城佐南は誰とでも寝る女だって」


 その瞬間、夕張は目を大きく見開いた。




 そうさ、お前が「知ってるか?」と聞いてきたとき、僕は全てを分かっていた。お前と高城さんが付き合っていること。そして昨日、お前ら二人が交わったことも。交際を隠しているようだが、僕にはわかった。


 二人から柑橘系の特徴のある同じシャンプーの匂いが漂っているのが何よりの証拠。普段からこの匂いを漂わせているのは高城さんだ。つまり夕張は昨日、高城さんの家に行った。そして行為に及び、風呂に入った。


 自慢したがり男は自己顕示欲が強い。

 高城さんは昨日、行為の中で夕張にキスマークを付けられたのだろう。それを隠すためにいつもと髪型を変えていた。僕が髪型を指摘したとき、彼女は自らのうなじを手のひらで覆い隠した。そこにつけられている痕を見られていないか不安だったのだろう。


「ゴム」というワードに敏感に反応したのは面白かった。


 財布の中に避妊具のゴムを忍ばせている男は多い。夕張もそうだったのだろう。だからこそ、高城さんが財布を持っていた。落ちていたなんてあからさまな嘘をついて。高城さんの家に置き忘れてきたんだろ。お前も隠すつもりがあるなら「どこに落ちてた?」ぐらい聞けばいいものを、聞きもしない。そりゃそうか。馬鹿だもんなお前。

 それにしても、まさかとは思うが付けずにやったなんてことはないだろうな?

 おまけは名前だ。

 僕には苗字呼びなのに、お前には「樹くん」だとさ。隠すつもりあんのかよ、ほんと。


 ほんと……いったい何がしたいんだろう。


 僕はいきなり殴られた。

 気がつくと床に倒れていて、頬がじんわりと熱い。

 見上げると、仁王立ちの夕張は怒りの形相を見せていた。


 ……そうか、殴ってきたということは彼女のことが本当に好きだったんだな。


 てっきり僕に見せつけるためだけに付き合っているのだとばかり思っていたから。そう、その腕時計のように。

 でもなるほど。ははは。見抜けないなんて、どうやら僕は探偵には向いていないらしい。それはそうか。自分の気持ちもわからないのだから。

 ほんと……いったい僕は何がしたいんだろう。──誰とでも寝るなんて、彼女を傷つける嘘までついて。


 殴られた頬には、柑橘系の香りがついている気がした。

 教室の床は埃っぽい。

 きっとこれも青春の匂いなのだろう。

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僕はその日、青春の匂いを嗅いだ。 絢郷水沙 @ayasato-mizusa

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