第26話 溶け合う心
尻尾をふっくら大きく膨らませたラタトスクちゃんが、燕尾服四足歩行で背中にせかいじゅさんを乗せて颯爽と、斜陽の彼方から走ってきた。
走ってきて。
急ブレーキをかけた。
「わー!?」
両手を突き出しながらせかいじゅさんは私と笛吹くんの上を飛び越し、地面に頭から激突。
ずざー、と横滑りしていった。
「あちゃー、面目無い」
二足歩行に戻ったラタトスクちゃんが、ぺろっと悪戯っぽく舌を出す。
全く反省の色がみられない。
フレスベルグさんもニーズホッグちゃんも、笛吹くんですらも唖然とした。
「な……」
茫然自失する私。
なんという緊張感の無い登場をするのだ。
神話最大のトリックスター・ロキよりトリッキーってどういうことだ。
「いでででで……うう、死ぬかと思った……」
フレスベルグさんとニーズホッグちゃんが、なんともいえない表情でせかいじゅさんを立ち上がらせる。
お尻についた土を払い落としながら、よろめくせかいじゅさん。
「世界樹か……今さら貴方が来たところで、もうどうしようもないよ? ロキはとっくに目覚めてしまったようだからね。なんならスルトも連れてくれば良かったのに」
満身創痍のはずの笛吹くんが、うすら笑いを浮かべる。
せかいじゅさんは仁王立ちで顎先を指でいじりながら、首を傾けた。
「ヘイムダルか。よくも私の枝をパクってくれたな! 貴様の出番などこの世界には無いというに! それにスルトなんか連れてきたら、私もお前も焼かれてしまうだろがー」
「支えるべき世界を見放してこの限定された世界にやってきた貴方が、よく言うよ。貴方が分霊などというものを作らなければ、リンク・アクターの研究などは興らなかった。枝が伐採されることも無かっただろう」
何故か、自暴自棄なようにも見える笛吹くん。
「てめーら、このロキ様を無視して会話してんじゃねぇくだらねえ。世界樹、俺はお前に感謝してるぜ。お前が起こしてくれなきゃ、この世界じゃ起きてこれなかったろうからな」
私の体が悪ぶっている。
違和を感じた。
溶け合って、重なりあっていたはずの私が、解離し始めている。
「お前を起こした覚えなど無い」
「なら何故、この俺様の体に樹液を流し込みやがった?」
「…………」
押し黙るせかいじゅさんに対し、ラタトスクちゃんが尻尾をピンと立てて向かいあう。
「世界樹様。貴方が与えた命です。責任を取りなさい。リョーコ様はきちんと聞いて下さるはずです」
「うー……ラタトスク、お前は主人に厳しいぞ……」
「くふふ。主人の不手際は見逃しませんよこの栗鼠めは」
真顔で尻尾をふりふりするラタトスクちゃんである。
「ふん、知って何が変わるものか……」
笛吹くんが玉のような汗を浮かべながら、せせら笑う。
せかいじゅさんは彼の言葉を無視して、大きく息を吸い込んだ。
「………リョーコよ。お前は自分でも分かっている通り、悪神ロキと魂を同一としている。私もそれを知ったのは、お前の魂に触れてしまったあの日のことだったが……」
あの日。
せかいじゅさんが、私の深奥であり、震央に触れた、あの夜。
「…………」
私は黙る。
「同じ魂を持つ者は、例え世界が異なり名前が異なろうとも、似たような宿縁を持ってしまう。お前が己の出生を呪うように、ロキも神と巨人の間に生まれ、オーディンとの契りにより神族としての扱いを受けながらも、呪い続けたのだ――己の血と、因縁とを」
「…………」
もう一人の私も黙る。
「故にロキは、神を助けながらも神を憎む者となった。いわばロキは己の因縁に破れた神とも言えよう。破滅を望むかのような奔放さでロキはついに捕縛され、毒蛇の責め苦を受け、やがてはラグナロクの引き金となった。ロキの散華は――死に際は、後に他の世界に生きることになる全ての己の魂に、影響を与えることになった」
「…………」
私『達』は、怯える。
「ロキと同一の魂を持つ者は――皆、幸福には死ねない。その生の中で、必ず己を憎む。他者を憎む。縁の全てを憎む。リョーコ、お前もいずれそうなっていたであろう。私には、お前の行く末も見えてしまった」
「…………行く末だと?」
「孤独に、あらゆる縁から離れて、お前は野垂れ死ぬ。私には……」
――それが耐えられなかった。
せかいじゅさんは、悲しげにそう言った。
「それも良いじゃねぇか。死ぬ体なら覚悟も出来るぜ」
私達の意識が、さらに強く解離した。
「良くはない」
せかいじゅさんが首を振る。
「そうなるしかねぇから、お前はこの体に俺の意識を喚起したんだろ?」
「……違う。ロキが生んでしまった因縁の形を変えるには、それしか方法が無かった。リョーコの心が、ロキの魂の形を上書きするほどに強く変わってくれれば……」
「げらげらげら! この女の心なら、俺の中に溶けようとしてやがるぜぇ? 見ろよ。幼なじみで、たった一人の親友が殺しにかかってきたんだぞ。親父だって、病気でいつ死ぬんだか分からねぇ。救いはねぇ。この女がどう変わるっていうんだ世界樹!」
私の体が顎で、倒れている笛吹くんを示す。
「ぐぬ……」
せかいじゅさんが唇を噛みしめる。
笛吹くんも何も答えない。
そうだ。
やっと話せた、たった一人の親友と、私は殺しあった。
ロキとヘイムダルも、そうだったのだろうか。
神の世界でも二人は、最初から敵同士だったのだろうか。
「ニートどものラグナロク、いいじゃねーか。役割も無くだらだら生きてきた奴らに、宿命ってのを与えてやれたんだろ? ただ死んでいくより幸せじゃねーか。どーせやることも無いなら、戦争ぐらいやろうや。俺が一緒に死ぬまで戦ってやるからよ」
私の声は、やけっぱちになっているとしか思えない。
「そうだ……ラグナロクは必要なんだ……」
笛吹くんは、ぶつぶつと地面に呟いている。
「面白ぇ面白ぇ。オーディンはどこだ? バルドルの奴も生きているんじゃあるまいな? ヨルムンガンドは? ヘルもいるんだろ? トールの奴はどこで寝ぼけてやがる?」
私は叫び、問い続ける。
すでにこの近くには、リンク・アクターとして目覚めた引きこもりやニート達が集合している。
神の世界の因縁を引きずって、みんながここに集まってくる……はずだ。
けれど、いるのは笛吹くんだけだ。
私との――ロキとの戦いにも、笛吹くんは他のリンク・アクターを呼ばなかった。
彼らをギャラルホルンで操れるのなら、助けを呼べば良かったはずなのに。
「リョーコ、ヘイムダルの望むラグナロクなど、起きはせぬ」
せかいじゅさんが切なげに首を振る。
「この世界で全ての因縁に決着をつけることなど不可能だ――仮に全ての魂の記憶がこの世界に集中し、滅びが置かれようと、新たな世界にもお前達の魂は引き継がれる。その世界には、その世界の新しい因縁もあるのだ」
笛吹くんはせかいじゅさんを睨んでいるが、言葉は返さない。
私は、全く動じていなかった。
「それがどうした。だったらその都度、俺が出しゃばってやるよ。何度でも何度でも、世界を焼いてやる。その度にヘイムダルの奴が立ちはだかろーと、この俺がスーパーニートキングとして君臨してやるぜぇ、げらげら」
「お前が良い……」
きゅっと拳を握って、せかいじゅさんは絞り出すように呟いた。
「私は、リョーコが良い。今のリョーコといたい」
「こんな決断力の無い女がいいのか。お前が出ていったときだって、見捨てようとした女だろが」
自虐的な私。
こんな性格になったのは、ロキだったころの私のせいだろっつの。
「……私には、一個も因縁が無い」
「はあ?」
私は面食らう。
「私はあらゆる世界の中心で、全ての世界を支えながら、ずっと行く末だけを見続けてきた。大した自主性も無く、客観する視点だけを持つそれだけの存在としてだ。常にこの身に水は溢れ満ち足りてはいたが――それでも、思うことだってあるのだ」
「ほーん……何を思う?」
「誰か一人だけを支えてやりたい、と。たった一人のための世界樹でありたい、と――誰かと出会うために、孤独になってみたい、と」
「…………」
「リョーコ、お前に助けられて、私は初めて人との縁を得た。お前は、私という個が守りたいと思った、初めての縁なのだ」
せかいじゅさんは、無防備に手を広げながら私の方へと向かってくる。
警戒した私が、レーヴァテインの束を握りしめる。
「近づくんじゃねえ……てめぇに大した力が残ってないことは分かってる。レーヴァテインはあらゆるものを焼きつくす。木ぎれにすぎないてめぇなんぞ一瞬で消し炭に出来る」
「この体はただの分霊だ。お前に殺されるならそれも仕方ないのかもしれないなー……」
せかいじゅさんは口をつぐんで、瞼を閉じる。
「この体で経験した記憶や喜びは、本体の幹に一握の露として吸われ、消えてしまうだろうけども」
「……消える?」
それは、私自身の言葉だった。
ロキではなく、私だけの意思の。
「うん。私は世界樹の、ちょっとした遊び心でしかないから……死んだらそれまでだ。けどな。けどなあ」
せかいじゅさんの声が、震えだした。
胸が高鳴る。
せかいじゅさんと一緒に生活してきた、私の心の動揺が、今戻ってくる。
「せかいじゅ……」
私の唇が、息継ぎをするかのように囁く。
「けどなあ、リョーコ……お前が消えるのはイヤだよう! お前とまた遊びたいよう」
せかいじゅさんが走り寄ってきて、私の胸に飛び込んできた。
いつも隣に寝ていた尊大な女の子の肌の柔らかさが、私の胸に触れた。
吐息が耳に触れて仰け反る私。
ロキも耳たぶは敏感だったみたいで、邪悪な恥ずかしさが伝わってくる。
恥辱に焦った私の体が、レーヴァテインを振りあげようとする――その動作を。
私の意思が止めた。
「……!?」
ロキとしての私が愕然としている。
「リョーコ、お前が世界を守る必要は無い……世界を憎む必要も無い……ただ、もうちょっとお前と一緒にいたい……もっと人に、ご飯を作ってみたい……」
私の胸の中で、ぐすぐすとせかいじゅさんが肩を震わせている。
いつもながら、なんて反則的に可愛いのだ。
「なぜだ……」
煩悶しているのは、ロキだった。
世界を呪詛し続けた貴方も、自分の心は偽れない。
私はロキに告げた。
認めたくない、とロキは多分応えた。
私の心は私が一番分かる。
溶け合ったロキの心は、私に繋がって流れ込んでくるから。
これまでの生活の中で――
ロキ本人も、せかいじゅさんに惹かれてしまっている。
繋がってしまった私の因縁は、小さくて重大な、目の前の女の子を愛してしまっている。
「くだらねえ……こんなクソガキに……」
私が私に抗議する。
「悔しいよね。これだって、私達の遊び心でしかないけど」
私が私を慰める。
世界を惑わす神様にとっても、可愛いは正義だったらしい。
完璧に重なった私は――
せかいじゅさんの体を、力任せに持ち上げた。
「りょ、リョーコー……?」
顔を涙でぐしゃぐしゃにしたせかいじゅさんが、小首を傾げて私と視線を合わせた。
「私も、一緒がいい。いてくれるなら、花屋さんにもなれる」
「本当かリョー……ひへ?」
破顔するせかいじゅさんの唇に、私は自分の唇を押し当てた。
驚いたせかいじゅさんが、顔を真っ赤にして瞼を閉じる。
植物の化身とは思えないぷっくり柔らかな唇から、ほんのり漂う若葉の香り。
甘酸っぱい朝露が舌先に触れる。
――これぐらいのことをさせてくれるなら、多少の因縁があっても文句は無い。
フレスベルグさん達の方から、悲喜こもごもの視線や罵倒や揶揄が飛んでくる。
あれはロキがやったんだ、と後に私は述懐した。
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