第23話 トリックスター

「僕は笛吹春。最も古い時代の名前は――ヘイムダル」


 彼は少年とは思えない、爛熟した目つきでそう名乗った。


 それは、北欧神話の光の神。


 神の世界の見張り番であり、世界の終末、ラグナロクの訪れを知らせる者。


「笛吹くんが、かみさま……?」


 決して邪悪な神ではない――はずだ。


「組織は、ニートや未来に展望の無い引きこもりを片っ端から集めていた。そして、希釈した世界樹の樹液を投与したんだ。その中の一人が僕だった、というわけだよ」


 外見は昔の笛吹くんと変わらないのに、その眼に宿る強い曙光が私を怯ませる。


 自己実現なんて安っぽい言葉は使いたくはない。

 けれど、超然と満ちる自信は私が考え得る理想的な大人のものだ。


「貴方はもう、私の知ってる笛吹くんじゃないの?」


「逆だよ、リョーコ。僕達が共有する記憶は、この世界での思い出よりずっと多いんだよ? 僕とリョーコは、他の世界から幾つもの縁を受け継いできているんだから」


「……私は何も覚えてないよ」


「世界樹のせいで、思い出せなくなっているだけさ。残酷なことするよね、かの世界の支えたる大樹さんは」


 朝日のように生彩な爽やかさを湛えながら、彼は語る。


 違和感と懐かしさのどちらもが、私の胸を締め付ける。


「せかいじゅさんを狙ってその組織ってのに連れ帰ろうって言うなら、無駄だよ。だってせかいじゅさん、自分から貴方の組織ってところに行っちゃったんだもん」


 それを、私は追わなかった。


「うーん……二つ、リョーコは勘違いをしているね」


「勘違い?」


「そう。一つ目。僕は、世界樹を捕獲した方の組織には、もう属していない。しばらくは言うことを聞いてあげてたけどね。いいものを手に入れたから、脱走した」


「組織に属していない……?」 


「うん。といっても無所属じゃないよ。ちゃんと自分の組織を立ち上げたんだ。すごいでしょ、引きこもりからいきなり起業だよ」


「…………」


 理解力が着いていかない。

 組織組織って、そんな悪の秘密結社をぽんぽん作っちゃうみたいに言われても安っぽくて現実味が無い。


 ニーズホッグちゃんが話していた組織とは、笛吹くんが作った方だったのか。


「二つ目。僕は世界樹になんて興味が、無い。僕個人の狙いは、リョーコ、君だけだ」


 君だけなんだ。二度、断言された。


 いきなりの告白だった。


 緊迫した場面だというのに、私の頭の中は気恥ずかしさでふにゃふにゃになった。


「なな、な……何言ってるのいきなり!?」


「そのままの意味だよ。だからこそ、ニーズホッグに君を襲わせたりもしたんじゃないか」


「へ……?」


「……君、自分の本当の名前を知ったんじゃないの? その態度は、鈍いと言わざるを得ないよ。僕の名前はヘイムダル。ヘイムダルがどんな物語を背負い、どのように死んでいったか。それぐらい、君だって学んだはずだろ。ヘイムダルを殺したのは――僕の宿敵は、誰だい?」


「ヘイムダルの宿敵……」


 そういうことか。


 そういうことなのか。


 今朝、ラタトスクちゃんに告げられた名が、こんなところで意味を持つのか。


「そうさ、ロキ」


 その名前を呼ばれた瞬間、私の宿命が決まった。 


 ロキ。


 北欧神話最大のトリックスター。


 性別や肉体に囚われず、

 オーディンの愛馬であるスレイプニルを産み、

 冥界の女王ヘルを産み、

 巨狼フェンリルを産み、


 世界に混沌をもたらした悪神。

 

 ロキはヘイムダルとの間に深い確執を持ち、最期には相打ちとなる――


 運命だった。


「私はロキなんて名前じゃないよ……」


「まだそんなことを言ってるの? 自分の体や自分の力を見れば、一目瞭然だったはずだろ。男にでも女にでもなれる、あらゆる神の武器や道具や子どもを生み出せる――ロキの力は、きちんと君に宿っているじゃないか」


「やめて……私はそんな大層な神様なんかじゃない」


「やめないよ。リョーコがちゃんと目覚めないと、僕達の因縁は完成しないもの。それにロキこそが、神の世界を含む全ての世界を滅ぼす原因だったろう? 忘れたとしても、知らないとは言わせない」


 ――それぐらい知っている。


 オーディンの子どもを陥れ、神々の怒りを買い。

 縛られて毒蛇の猛毒という責め苦の中で復讐を誓ったロキは――


 最後のときにくびきから逃れ、戦う。


「私は関係無い……! 私はロキなんかになりたくない!」


「もう遅い。ニーズホッグの毒は、君の力を呼び起こすことに成功した。毒は君のトラウマだからね。すでにお膳立てはすんでいるんだよ。後はみんなを集めるだけでも始まるよ」


「集める……?」


「そうさ。僕達の因縁が、僕達だけで解決出来るわけないだろう? 僕の笛――ギャラルホルンが何を知らせるものなのか、思い出してごらん」 


 そう言って笛吹くんは、窓の外に向けて口笛を吹き出した。


 複雑な高揚を感じる。

 音色もメロディも、昔彼が私の隣で聴かせてくれたあの口笛そのものだった。


 私がどれだけ練習しても真似出来ない音色。


 同じであることが何より辛い。


 ――いつの間にか、窓の外が騒がしくなっていた。


 試験休みでみんなが帰ったはずの校門に、何十人もの人影が見える。


 生徒だけではない。

 いかにも社会人らしいスーツ姿など、様々な若者達が放課後の校門に集まってきている。


 皆、瞳に意志を感じられない。


 茫漠とした彼らの視線はじっとこちらを向いていて、だらりとしたその歩調は笛吹くんの口笛に引き寄せられていた。


「彼らこそが、僕の『組織』だよ。みんな僕が樹液を投与してあげて、リンク・アクターとして目覚めた者達さ。目覚めかけの彼らは、僕の口笛で操れるみたいでね――知っているよね。最後の戦いは、ヘイムダルが吹く笛の音で始まる。みんな一度世界が終わったことを知っているから、無意識に体が動いちゃうみたいなんだよね」


「この、誰も争う必要の無い世界で……?」


「うん。ラグナロク、始めちゃおうよ」


 ちゃらい口調で笛吹くんは告げた。


「笛吹くん、ゲームの魔王にでも憧れてたの? 馬鹿馬鹿しいよそんなの」


「世界征服にも滅亡にも興味は無いよ。ただ僕は、僕とリョーコを縛るものと同じように、みんなが自分の『因縁』に決着をつけるべきだとは思っている」


 因縁。


 私が子どものころから忌み嫌っているもの。


「ニートが神様になっちゃって何の解決になるのよ」


「神様だけじゃない。全ての世界に同時に存在するリンク・アクターの記憶全てを、僕はこの世界に喚起するつもりだよ。だって、面倒じゃないか。その世界ごとに別々の運命と、同じ魂が向き合わなければならないなんて」


「……何を言ってるのか分からないよ」


「分からなくても戦いは始まるよ。見えるんだ。『枝』を通じてあらゆる世界の因縁が、この世界に流れ込んできているのが――これから全員が、世界樹と同じように、全ての世界を見渡せる存在になれる。自分の全ての因縁と、向き合えるようになる」


「そんなの嫌だよ! この世界のしがらみだけでも苦しかったのに、他の自分のしがらみなんて背負いたくない! みんなにも、背負ってほしくない!」


「違う。みんなは無縁が怖いと言っていた。今度はどんな小さな縁をみんなが理解する、望まれた社会がやってくるんだ。真の意味で『働く』ということはそういうことだよ」


 陶然と説く笛吹くん。


 ヘイムダルは本当にこんな神様だったんだろうか。


 ロキの記憶なんてものはどうしても思い出せない。


 そんなものと向き合うつもりなんて無かったのに、


「さあ、ロキ。かかってこい……今度は前のラグナロクの時のようにはいかない」 


 笛吹くんはまたしても、安っぽい悪役のような口上で私を睨んだ。

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