第21話 彼の名は

 世界樹の分霊はあちらへと向かったようだ。 

 今さらになって、視界を自ら封じたあの者に何が出来ようか。


 何が出来るものか。


 これで私の方は手を出しやすくなった。


 世界樹の枝は、我が手にある。


 語り手は私だ。


 笛は私が鳴らす。


 彼女に笛は鳴らせない。


 新しいラグナロクは、私の手によって紡がれるのだ。


 私の組織の力は、嘲笑う者など比較にならぬ。


 私達はまた出会う。

 私達は出会い直す。


      *

 

 ラタトスクちゃん達を振り払って、私は学校に向かっていた。


 晴れ渡った空に田園の青臭さが憎らしい。

 登校中の生徒達の笑顔がきらきら眩しくて辛い。


 ようやく帰り咲いた日常のはずなのに、学校がいつもの何倍も遠く感じる。


 校門に入ってすぐに、由里と会った。


「おはよーリョーコ、この前の子とは上手くやってるー?」


 無邪気に手を振られて、私は


「さーねえ」


 と木訥に、ため息を吐きながら答えた。


 一言以上の会話が煩わしかった。

 自分の席について授業が始まっても、何も頭に入ってこない。


 全てが上の空だった。

 休み時間もトイレ以外は動きたくない。

 

 不貞寝しようとしても、睡眠時間はたっぷり取ってしまっていたので眠れやしない。


 私の不機嫌にすぐに気づいた由里は、あっさりと私から距離を取って一日を過ごすことに決めたらしい。

 休み時間になっても近づいてこない。


 それでいい。

 つかず離れずの友人がいないと、孤独を楽しむことも難しい。


 充分な空疎の中で、一日は進んでいった。


 昼休みに買った購買のパンがどんな味だったかということも忘れてしまって、何も起こらない一日は終わっていた。

 放課後になっても動きたくない私は、ぼけっと自分の席から、裏山を眺めていた。


 後は家に帰るだけ。

 フレスベルグさんやラタトスクちゃん達はいなくなっているかもしれないけど、それは元に戻っただけ。


 好きに出て行けばいい。

 許さないですむから。


 それにしても、見事なまでに誰とも喋っていない。


 喋らないでおこうと心に決めたら、意外と遂行は簡単なものだった。

 

 ほとんど生徒も出ていって、残っているのは私一人。


 試験が近いのでどの部活も休みに入っている。

 みんな勉強するか諦めて遊ぶために、さっさと帰ってしまったのだ。


 ばんざいばんざい一人の時間。


 下らない思考を切断してしまえ。


「リョーコ、ちょっといいかな?」


 不意に聞き覚えのある、懐かしい声が背後からした。


 ああ面倒臭いと感じながらも私は、記憶の淵から思い出を掬いとる。


「……笛吹くん?」


 笛吹春くんが、山向こうに沈みゆく陽を浴びてそこに立っていた。


「久しぶりだね、リョーコ。やっと話せた」


 目尻を下げて笛吹くんが笑んだ。


「ひ、久しぶり……」


 私はこの笑顔を知っていた。幼かったころ――

 その、さらに遡った昔から。


 あのむかつぐぐらいの笑顔は、いつの記憶だろう?


「元気が無いね。今日一日、外ばっかり見てたけど?」


 心配そうに顔を覗き込まれる。動悸がどんどん激しくなる。


「あ、う、うん……まあ……」


 言葉が全然出てこない。

 何を話すべきなんだっけ。


 子どものころは彼と運命で結ばれていたぐらいに思えていたのに、分からない。


「リョーコと二人で話すのは何年ぶりかな……昔はよく一緒に、一日中同じ部屋で遊んだのにね。ブロック遊び、覚えてる?」


「う……」


 フラッシュバックするかのように、脳裏にその光景が走る。


 小学校に入ったばかりのころの私と彼が、狭い六畳間で過ごした長い長い時間。


 レゴブロックを二人で組み立てては壊し、組み立てては壊し、どんどん複雑怪奇にしては壊す――

 変な遊びだった。


 もっと昔は、もっと大変なものを壊していたような気もする。

 あの頃は聞いたことのないメロディアスな曲を簡単に口笛でそらんじる笛吹くんを、憧憬の目で見ていた。


 こっそり練習しても私の唇はぴいぴい言うだけで、それでも諦めきれなくて未だに練習しているくらいだから。


 笛吹くんのことは忘れていたくせに口笛だけは覚えているなんて、これも白状だろうか。


「笛吹くんは、最近元気そうだね?」


 ようやく口をついた話題がこれ。さもしく情けない女だ。


「うん、体の動かし方が分かった――というか、思い出せたからね」


「笛吹くん、運動神経は結構良かったもんね」


「そうだね。僕が笛吹春になるずっと前からね」


 遠い目をして、彼は囁いた。


「ずっと前……?」


「うん。遠い遠い、一度終わってしまった世界のころからね」


 その言葉の意味を咀嚼するまでに、私はしばしの時間を要した。


「笛吹くん、まさか君……」


 可能性を自分の中で懸命に否定しながら、私は訊いた。


 こくり、と彼が頷いて、学生服の胸元のボタンを一気に外した。

 

 その下のTシャツの胸には、それはそれは安っぽい曼荼羅のマークが刻印されていた。


「僕は、組織によって生み出されたリンク・アクターだよ」


 安っぽいアニメのような台詞だった。

 非道い裏切りのようにも聞こえた。


「……君までせかいじゅさんを狙ってるの? 私に話しかけたのも、そのため?」


 やっぱり幼なじみの縁なんて消えていたか。


 仕方、無いのかな。


 そんなものなのかな。


「世界樹か。彼女は今、旧組織のリーダーの元へと向かっているようだね。でも、僕の今の狙いは世界樹では無いよ。世界樹の枝(ユグドラシル・チャート)と彼らが呼ぶ物さえあれば、人々をリンク・アクターにすることだって些事に過ぎないのだからね」


 変わらぬ涼しい笑顔で彼は語る。


 旧組織? 


 せかいじゅさんが狙いでは無い? 


『枝』を持っている?


「笛吹くん、貴方――だれ、なの?」


 私は矛盾した日本語を笛吹くんにぶつけた。


 彼は嬉しそうに、ぴゅう、と口笛を吹いた。


「僕は……」

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