第16話 ニーズホッグちゃんの液

 嘲笑う者――


 ニーズホッグは充分役目を果たしてくれた。


 まさかあの程度で戦いを放棄するとは思わなかったが、いきなりグングニルなどを喚起されるとは私も予想がつかなかった。


 彼女が生み出したものが無数と言えども、あの槍は破格にすぎる。

 かの主神オーディンがこちらに来ていないからこそ出来る芸当だろう。


 終局は読めてもそれまでの局面は読めない。

 語り部の才能は、残念ながら私には無い。


 それは世界樹の力を以てしても同じことだが、結果さえこの手に掴めれば問題は無い。


 戦いの時は近い。

 目覚めた者達も決起するだろう。


 全てが私の元に集う。

 新たな未来の元に、リンク・アクター達は集う。


 オムパロス計画(プラン)は成就する。


 この私の手で成就する。

 終わりの始まりと共に。


 始まりの号令は、私の最も重要な仕事だ。


      *


 鈍色の夜が更けたころに、私達は部屋に戻ってきた。 


 窓の外、見映えもしない地味な夜景の向こうには、変わりなくそびえ立つ巨大な世界樹の幹。


 毎日見ていたせいで、それが異常な光景であるという認識も相当に薄れてしまった。


 うっかりしていると由里との日常会話でも、


 「今日もあの木は変わりないね」


 などと言いかけてしまう。


 かといって、今いきなりあの巨木が見えなくなっても不安になる。


 私、難しい女の子になってしまった。

 

 ……今日も汚れてしまったし。


「リョーコ、もう苦しくないんだな? 本当だな?」


 勉強机に突っ伏した私に、ベッドに腰掛けたせかいじゅさんがしつこく呼びかけてくる。


「大丈夫だって言ってるでしょ……気持ちは折れてるけど……」


「うええ、うええ……ふえええー! ふええええーーん!」


 私の声をかき消す、けたたましい泣き声。


「あー! うるさいなあもう!」 


 狭い室内には、また一人ゲストが増えていた。


 畳に正座したラタトスクちゃんの膝にすがって泣いている、ニーズホッグちゃんである。


 綺麗な闇色ドレスは汚れてしまったので洗濯機に投入し、今は私のお古である小学校のジャージを着ていた。

 『半野木』のゼッケンが郷愁を呼び覚ます。


 その隣に座ったフレスベルグさんは、呆れ顔でニーズホッグちゃんを見下ろしている。


「命が助かったのだからニーズホッグを許してやってくれまいか、リョーコ?」


「許す許さないじゃくて、助かる方法が、大・問・題なのよッ!!」


 せかいじゅさんの言葉に、私はむせび叫ぶ。


 あの後、私はせかいじゅさん達の手でニーズホッグちゃんの毒を解毒してもらった。


 私を蝕む毒はすでに全身に回っていて、一筋縄では治癒出来ない状態にあったそうだ。


「これはすぐにニーズホッグ様の濃厚な体液を、経口摂取しなければいけませんね」


 殊勝な態度で語ったラタトスクちゃんは、恐怖で失禁したニーズホッグちゃんのそれをナプキンで拭き取ってその絞り汁を弱って抵抗出来ない私の口に無理矢理――


 これ以上はハードすぎるので、描写を控えさせていただきます。


 そういう方法で命拾いした私は、なぜかニーズホッグちゃんまで引き連れて帰宅したのだった。


 体は楽になったけど、私の心身はズタボロだ。

 これじゃ体が元に戻ったとしても、取り戻せない物の方が多い。


 毒で死んでおいた方が幸せだったかもしれない。


「ご、ごべんなざい……ごべんなじゃいいいぃ!!」


 涙と鼻水とよだれをずるずる垂らしながらしゃくりあげて、ニーズホッグちゃんは謝り続けていた。

 よっぽどグングニルで貫かれかけたことが、恐ろしかったのか。


「生意気な口を聞いてごめんじゃしゃいいい世界樹様ああああ!」


 そっちかよ。


 失禁したこととか、私に毒食らわせたことも謝ろうよ。


「よーしよしニーズホッグ様。きちんと謝れば、世界樹様もお許し下さりますからね」


 背中を撫でながら、ラタトスクちゃんがニーズホッグちゃんを諭す。


「ニーズホッグ、お前はなぜ私から侍従を外されていたのか、理解したのだな?」


 尊大なせかいじゅさんが、腕を組んで睨む。


「うう……ぐじゅ、世界樹様にタメ口を利いてしまったから……」


 ニーズホッグちゃんが、鼻水を手で拭いながら訴える。


「ですをつけろ……です」


 眉尻と口角を上げるフレスベルグさん、貴方の『です』は無駄が多いです。


「ふむ……分かっておるようだな。可愛がってやっていたのに、世界の支えたる私への敬意を忘れるとは。それはとってもとっても悪いことなのだぞ!」


「分かってる……分かってるよう。だから大人しく根っこかじってたんじゃないかあ……」


 ラタトスクちゃんにすがり、いじけた目つきで身をよじらせるニーズホッグちゃん。

 まるで駄々っ子だ。


「ですをつけろと言っているのに……です」


 頬を膨らませるフレスベルグさんだけど、追い出したり殴りかかったりしないあたり、宿敵というよりただの姉妹的ライバル関係なんじゃないかって気がする。


「むう……しかしその姿だとちょっと可愛いじゃないかタメ口も……」


 せかいじゅさんが、ゴクリと唾を飲んだ。


「……?」


 ニーグホッグちゃんが不思議そうに顔を上げる。

 きょとんとしたその顔は、小悪魔っぽくて確かにキュートだけど。


「いや、せかいじゅさん。可愛いから許すみたいなパターンは止めようよ。みんな命がけだったんだから」


「リョーコ……可愛いは正義だぞ?」


 真剣な顔で言い放った。


 言いやがった。


「その可愛いあんたの侍従に、私は毒殺されかけたんだけど」


「む、そうだったな……ニーズホッグ! 反省しているな?! もちろんリョーコに毒をもたらしたこともだぞ!」


「『も』って言うな『も』って」


 ニーズホッグちゃんは唇を真一文字に結んで、


「うん……ごめん」


 とやっぱりタメ口で謝った。


「よし! もーやっちゃダメだからな!」


 朗らかに頷くせかいじゅさんに、ニーズホッグちゃんがうんうん頷いてひれ伏した。


「結局あっさり許しちゃうわけね……」


「体液までなめなめした凉子様のプライドはどうなってしまうのでしょうね」


「やめろ」


 ラタトスクちゃんは執拗に、私の傷口をほじくってくる。


 ニーズホッグちゃんはせかいじゅさんの裸足に顔をすりよせて、がじがじとつま先や踵を甘噛みしている。


 相手が人間の体でも根っこはかじりつきたくなるっぽい。


 あれだけ嗜虐的でSっぽかったニーズホッグちゃんは何処へ。


 フレスベルグさんは


「調子に乗るな……です」


 とぶつぶつ呟きながら睨んでいる。


「それよりニーズホッグ、気になるのはお前が顕現している理由だぞ。お前をこちらの世界に喚起したのは――奴らなのだな」


 玄妙に訊くせかいじゅさん。


「ぐが?」


 がじがじしながらニーズホッグちゃんは首を傾げる。


「隠さずとも良いのだニーズホッグ。いたいけな私を容赦なく組み伏せ、蹂躙し、ぐりぐりし、さわさわした、あの、あいつらのことだ!」


「なんで後半の説明ゆるゆるになったの」


「法と自主規制の波がな……ああ、こちらの世界はまだ緩かったのだな」


 せかいじゅさんは、遠い別世界の条例を思い出したようだった。 


「奴らは、私の体を調べることで、幾重にも広がり連なる世界の謎を解かんとしていたのだろう。しかしまさか、私の侍従を呼び出すという禁忌に触れようとは! 許さじ! マジ許さじだぞリョーコ!」


 勝手に憤慨するせかいじゅさんの足下で、ニーズホッグちゃんはなにやらもごもご口を動かしている。


「じゃあ、その組織ってのはもう一回あんたを捕獲しようとして、ニーズホッグちゃんをけしかけてきたってこと?」


「普通に考えればそうですね」


 他人事のようにラタトスクちゃん。


「せ、世界樹……確かにあいつは、あんたの『枝』を持っていたけどさ……」


 言いかけたニーズホッグちゃんを、


「やはりかー!」


 せかいじゅさんは幼い眉間に皺を寄せて、遮った。

 

 驚いたニーズホッグちゃんは、またしてもまごまごと言葉を飲み込んでしまっている。


「ぐぬー……確かに私がいなくとも、私の一部たる『枝』があれば別世界の観測には事足りよう。奴らめおのれおのれー」


「あのさ、興奮してるところ悪いんだけどもうちょっと分かるように説明してくれない? 枝とかリンク・アクターとかさあ。ニーズホッグちゃんがこっちに出てこれたことも、私の体に起きた変化と関係あるんでしょどーせ?」 


 怒れるせかいじゅさんを御して、私は尋ねる。

 これまで様々なことを軽く流してきたが、ここに来てまた分からないことが増えてきた。


 いや、気になることか。


 この私の体に起きた変化。男性の象徴が生えてしまった体。覚えがないのに記憶にある夢。


 私から生まれた黄金の槍。


「そ……そうなのか?」


 せかいじゅさんがラタトスクちゃんを見やる。


 ラタトスクちゃんは


「そうなのでしょうか?」


 とフレスベルグちゃんに目配せ。


 フレスベルグちゃんは


「そうらしい……ですか?」


 と一周して私に聞いてきた。


「みんなしてベタな逃げ方するんじゃないの!」


 一喝したら全員黙った。


 沈黙されても困る。


「じゃあ、ニーズホッグ。頼むぞ」


「えっ」


 突然振られたニーズホッグちゃん、困惑。


「……まあ誰が喋ってくれてもいいんだけどさ。殺されかけたんだし、その責任ぐらい取ってもらおうかな」


「きしー……あたしがこんな状態だからって調子に乗りやがって……」


「ニーズホッグ……メッ。です」


 フレスベルグさんにガンを飛ばされて、


「仕方ないなくそ……」


とたじろぐニーズホッグちゃんであった。

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