第13話 猛毒

 芳醇な香りは、鼻腔から消えていた。


 代わりに薬品のツンとした臭いが漂ってくる。


 目が覚めても視界は薄ぼんやりとして、はっきりしなかった。

 柔らかい光が灯る高い天井に、清潔な白い壁。


 自宅の天井や壁では無い。


 新しいシーツと薄い掛け布団に包まれて、私はベッドに寝かされていた。

 傍らで誰かが会話している気配がするのに、瞼が鉛のように重くてそちらに視線が向けられない。

 頭痛や倦怠感も激しくて、体を起こせない。


 ようやく私は喉の筋肉を奮わせて、第一声を絞り出した。


「ここ……病院……?」


「リョーコ! 目が覚めたかー!」


 震える大きな涙声が聞こえたかと思うと、いきなり眼前にせかいじゅさんの顔が現れた。


 この距離ならはっきり見える。


「ちょっと……せかいじゅさん、唇、鼻についてるって……」


 ぷよぷよと、鼻先に熱くて柔らかい感触。

 青臭い。


 さすがに今の状態では、敏感な私の体も反応しなかった。


「凉子様! ああ、良かった……」


 せかいじゅさんを押し出すように、ラタトスクちゃんの顔面がフェードインしてきた。


 今度はラタトスクちゃんの鼻が頬に触れて擦れる。

 湿った鼻息で頬が濡れる。


「心配……でした」


 続けてフレスベルグさんもフェードイン。

 銀髪の先っちょが首筋に触れてくすぐったい。


 視界が三人の顔で万華鏡みたいになってるんですけど。

 他は全部ぼやけてるし。


「私……なんでここに……?」


 喋る度に、全身に鈍い痛みが走る。


「お前は部屋で倒れたのだぞー! おでこ触ったら火傷するぐらい熱いし叩いても起きないし、それはもう心配で心配で……私達じゃどーにもならないから、辻サンに救急車を呼んでもらったのだ!」


 やっぱり病室だった。

 お父さんの入院している病院かと思ったけど、窓の外に見える光景には見覚えが無い。


「世界樹様、あまり大きな声を出しては凉子様の体に障りますよ」


「む? そうだな、リョーコごめんな」


 二人とも、ミリ単位の至近距離で会話しなきゃいいんじゃないかな。

 注意したいけど喋るのもしんどい。

 どうしていきなり倒れたんだろう。


 ストレスは貯まっていたかもしれないけど、倒れるほど柔な体ではないつもりだ。 


「リョーコ様の体は、毒に蝕まれている……ですね」


 フレスベルグさんが神妙な顔つきで告げた。


「どく……?」


 いつの間にそんなものが。


「凉子様、家に帰る前に誰かに襲われませんでしたか? あ、いや襲われるとは言っても性的な意味では無く、暴力的な意味ですよ。まあ前者の場合は暴力性も併せ持つでしょうし、私も参加したいところですが」


 ラタトスクちゃんの饒舌トークにも、なかなか頭がついていかない。


「襲われてなんて……ああ」


 伝え忘れていた。


 私はせかいじゅさんの侍従を名乗る女の子に、出会っていたのだ。

 暴力というほどのものでは無いけれど、突然耳をちくりと噛まれたんだった。


 それを辿々しく伝えると、


「……やはり、ニーズホッグか」


 せかいじゅさんが、苦虫を噛み潰したような顔で呻いた。


「にーず……ほっぐ?」


 聞き覚えがあるような無いような。


 確か、せかいじゅさんが家に来てから興味が出て読み直した、北欧神話の本にその名前があった気がする。


「ニーズホッグ様――フヴェルゲルミルの泉で世界樹の根を囓り、ラグナロクを生き延びた巨大な蛇の化身である御方の名です、凉子様」


 ラタトスクちゃんが丁寧に教えてくれた。


 あの女の子がそんな大層な怪物だったのか。

 確かに蛇っぽい子だったような気がする。

 ただの印象だけど。


「あいつは、フレスベルグの宿敵……」


 フレスベルグさんがですますをつけずに、眉根を寄せる。

 ニーズホッグちゃんとは、伝説中では犬猿の仲なんだっけ。


 ……早くもちゃん付けで呼んでしまった。


「あのニーズホッグめが、リョーコに毒を流したのだろう。おのれ、私が置いてきたからと言って、リョーコに手を出すとはあの痴れ者め!」


 憤慨するせかいじゅさん。顔が近いから唾が飛んできて、私の口内に入った。


 レモングラスの味がした。


「しかし世界樹様、呼んでもいないニーズホッグが、どうしてこちらの世界で人間の実体を得ているのでしょうか?」


 怪訝そうに声を潜めるラタトスクちゃん。


 せかいじゅさんは苦々しく唇を噛む。


「分からぬ……分からぬが、まさか……ということもあり得るな。私を掴まえた奴らが、何らかの方法でニーズホッグを呼び寄せたのかもしれない」


「早く始末してしまえば良かった……です」


 綺麗な顔で、真摯に恐ろしいことを呟くフレスベルグさん。


「私の、せいだな……」


 せかいじゅさんが肩を落とす。

 ニーズホッグちゃんは、せかいじゅさんと喧嘩したと言っていたっけ。


 だとすれば、私は二人の喧嘩に巻き込まれたことになるんだろうか。

 私を猛毒に犯したところで何の得も無いだろうに。


「どうされますか、世界樹様……? このままでは凉子様は弱ってしまうばかりです」


 深刻そうなラタトスクちゃんに、


「全くだな、リョーコは毒には弱いのにな……」


 意味の分からないことをせかいじゅさんが零す。


「どくに弱いって……?」


 掠れる私の声に、


「な、何でもないぞ!」


 とあからさまに怪しい挙動のせかいじゅさん。


「弱いか強いかは別にして――凉子様が犯されている毒は、こちらの世界では治癒出来ない、神の世界の猛毒なのです」


 ラタトスクちゃんの顔から、緊張の色が消えない。


「治せ、ないの……?」


「ニーズホッグの毒は……ニーズホッグにしか消せない……です」


 フレスベルグさんも剣呑とした声音で述べる。


 では、ニーズホッグちゃんを探し出して来て貰わないと、私の体は治らないのか。


 いきなり風前の灯火なんて笑えてくる。


「あんたらのせいで……私死んじゃったりするわけ……?」


 険のある言葉遣いになってしまう。

 生まれてきただけで殺されるなんて、私の人生っぽすぎて自嘲したくもなる。


「リョーコ……」


 せかいじゅさんが押し殺した声を出し、私の側から離れた。

 視線も外された。向こうから目を逸らされるのは初めて。少しだけショックだ。


「世界樹様、如何に?」


「相手はニーズホッグ……一筋縄ではいかぬ相手……フレスベルグめが参ります」


 ラタトスクちゃんとフレスベルグさんが、主の命が下されるのを待つ。


「ひとまずは――待機だ」


 せかいじゅさんが発した。


「な……」


 フレスベルグさんが愕然と口を開ける。


「ご冗談を、世界樹様! 凉子様がどうなっても良いのですか!」


 ラタトスクちゃんが声を荒げる。


「奴がどこにいるのかも分からず、どう出ようとしているのかも分からぬのだぞ。今はこちらから動かずに、出方を待って迎え撃つのが最上最善の手だろう」


「しかし、今は悠長に待っている場合では……」


 抗議しようとするラタトスクちゃんを、せかいじゅさんがキッと睥睨する。


 途端にラタトスクちゃんは、お尻から飛び出した大きな尻尾をピンと立てて、


「う……」


 とすぐに床に垂らした。


「待機…………」


 フレスベルグさんも納得いかない様子だけど、言い返さずに泰然と立っている。


「しばし待つのだ。これは、確実な勝利のためだぞ」


 私を見ないまませかいじゅさんは窓の外にそびえる自分の本体を見て、そのまま黙り込んでしまった。


 つまりはニーズホッグちゃんが自分から来なければ死ぬという状況に、私は追いやられてしまったわけだ。


「あっはあ……傑作……」


 変な笑い声が漏れる。


 私の安っぽい命の扱いなんてこんなものだろうさ。

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