第11話 ハヤシライスの香り

 小豆色の空に、酸味の利いたドミグラスソースの臭い。


 どこかご近所で、晩ご飯にハヤシライスを作っているっぽい。


 ハヤシライスは私の大好物だ。


 ろくに料理も出来なかったころ、お母さんと別れたお父さんがしょっちゅう作っていたのが、ただ辛いだけのカレーだった。


 毎食続くカレーバリエーション(主にライス・うどん、ときどきドライカレー)に辟易したころに、私は友達と行った洋食店で初めてのハヤシライスに出会った。


 カレーとは似て非なるあの深い味わいに、私は感動さえ覚えた。

 その日から私は家でもハヤシライスばかり作って、今度はお父さんが辟易する羽目になったけれど。


 思い出の味に食欲が刺激されて、だらしなく私のお腹がグーグー鳴る。

 校門を出てから走り込みすぎで、太腿がパンパン。


 さっきので、今日何度目の逃走だっけ。戦略的逃走じゃなくて、ただの敗走。

 みじめだし体力も失われるしで、散々無惨。


 重たい足を引きずり、整理しきれない頭を抱えて、私は自宅にたどり着いた。


 そっと入り口から覗き込むと、今日も店内は賑わっていた。商店街のおじさん連中が列を作っている。 


「ちゃんと並ぶように……」


 声量は小さいのによく響くこの声は、フレスベルグさんだ。


 おじさん達は整然に列を乱すことなく、レジに立つフレスベルグさんに一輪ずつ適当な切り花を渡していた。


 客は花なんか見ちゃいない。


 一〇五円の花に、みんな千円札か万札を財布から出している。


 雪のように冷たい視線でフレスベルグさんは、けれどもしっかり相手の顔を見据えて、


「八百九十五円……落とさないで」


 ぎゅっと丁寧に手を握り、お釣りを渡す。


 フレスベルグさんのぬくもりが伝わるその瞬間が、なんというか、おじさん達の至福のひとときであるらしい。


 アホかと思う反面、分からないでもない。私もフレスベルグさんに見つめられて手を握られたりしたら、正気を失うかもしれない。 


 雇われ店長の辻さんはというと、おじさん達に紛れて鉢を整理している。

 エプロンをしているから区別がつくものの、うっかりしていたらモブキャラとして見落とすところだ。


 黙って素通りしてしまおうと、私は壁際をそろそろ歩く。

 どうせ客は私も見ちゃいない。


 身を縮めながらフレスベルグさんの後方へと回ると、


「おかえりなさい、リョーコ様……です」


 フレスベルグさんがこちらに視線も向けず、淡々と客を捌きながらぼそり、囁いた。


「た……ただいま」


 おじさん達の脂ぎった視線が一気にこっちを向いたけど、フレスベルグさんはまだこちらを向かない。


 どうやって気づいたんだ。


「フレスベルグさん、背中に目でもついてんの……?」


「鳥の視野をバカにしてはいけない……ですから」


 ちっちっち、と涼しい表情で人差し指を左右にふりふりするフレスベルグさん。

 着物姿でやられると、なんとも背徳的なジェスチャー。

 いきなり鳥を自称しだす美女に、おじさん達もざわざわと困惑気味である。


 そういえば、店内にラタトスクちゃんとせかいじゅさんの姿が見えない。

 さぼってやがるのだろうか。


「フレスベルグさん、ラタトスクちゃんは?」


 ついせかいじゅさんの名前を省いて尋ねてしまう。


「ラタトスクは、家の中にいるはず……ですが? 家事を任せていたもので……世界樹様は分からない……ですね」


 フレスベルグさんは、聞いてもいないせかいじゅさんのことを報告してくれた。


「……ありがと。引き続き店番お願いね」


「合点承知……です」


「どこでそんな言葉覚えてくるの?」


 おじさん達の誰かに吹き込まれたんだろうけど、こんなに覇気の無い江戸っ子も珍しい。


「さて。あいつ、寝てんじゃないでしょーね?」


 ここにいても邪魔になるし、仕方ないので様子を見に行くことにした。

 あくまでも、仕方ないので。


 そしたらせかいじゅさんは私の部屋で光合成していた。


「気持ち良さそーに、まあ……」


 用意してあげた布団ではなく私のベッドの上で大の字になり、開けっ放しのカーテンから落日の光を浴びている。


「くかーくかー、ぴー、くかー」


 鼻息混じりのだらしない寝息。

 遥か向こう、太陽の下にそびえ立つトネリコの樹木。


 この子は超巨大な世界樹の化身であって、人間のように見えて植物的な身体構成をしているのだった。

 じゃあ人間みたいにがつがつ飯食うなよ、といつも思う。でたらめな体に腹が立つ。


 校門でのイライラがふつふつとまた沸き上がってきて、私はせかいじゅさんのおでこをぺしっと思い切りはたいてやった。


「ふがっ、いでー!?」


 おでこを押さえながら、せかいじゅさんが飛び起きた。


「のーのーと人のベッドで何してんのよあんたは、このごくつぶし!」


「ごくつぶしとか古くさいな……あ、おかえりリョーコ! もう少しでご飯だからな!」


 嬉しそうに叫ぶ、せかいじゅさんのおでこは真っ赤――


 痛いより嬉しいのかこいつ。その無邪気さが何より腹が立つ。


 もう一発デコピンでもしてやろうかと画策していると、どたどた大きな足音が階段から響いてきた。


「なんですか今の叫び声は世界樹様っ!?」


 燕尾服の上からエプロンを羽織った姿のラタトスクちゃんが、おたまを振りあげながら部屋に入ってくる。


「あら、凉子様でしたか。お帰りなさいませ」


「ん……ただいま」


 恭しく頭を下げるラタトスクちゃんに、憮然と答える私。


「それにしても凉子様。またしても世界樹様に暴行を働くとはよろしくありません。あんなんですが、あれで世界の支えのご意志そのものなのですからね」


「あんなん言うな」


 せかいじゅさんが口を尖らせて抗議すると、


「失敬失敬」


 ラタトスクちゃんがぺろっと舌を出す。


「絶対反省してないでしょ、ラタトスクちゃん」


「失礼ですね凉子様。このラタトスク、生まれてこのかた反省しかしておりませんよ」


「それもどうなの」


「反省だけなら猿でも出来るじゃないですか。私は栗鼠ですが」


「ラタトスク、自己弁護が一切出来てないぞ」


 せかいじゅさんにすら突っ込まれるラタトスクちゃんだが、料理をしていたらしい彼女に文句を言うつもりは無い。


「ラタトスクちゃんはいいわよ別に。問題は爆睡してたせかいじゅさんよ!」


 激昂する私に、せかいじゅさんが姿勢を正して、


「ひ……」


 と表情を歪ませる。




「んん? 凉子様、せかいじゅ様は先ほどまで私と一緒に、今日の夕食の準備を……」


 言いかけたラタトスクちゃんを、せかいじゅさんは


「良い、ラタトスク」


 と制した。


「確かに寝てしまっていたよーだ……すまぬ。油断していた。大変に申し訳ないと思う。ごめんな、リョーコ」


 正座したせかいじゅさんは、両腕を足の隙間に突っ込んで、もじもじしながら俯いた。


 ――その仕草。


「だ……だからさあ……謝ってもさ……」


「この通り、私が悪い……許してくれリョーコ。ごめんな」


 背中を丸めて、頭を何度も下げるせかいじゅさん。


 ――ああ謝ってる姿が反則的に可愛いぞ。

 うおお畜生。


「ま、まあそこまで謝るなら……」


 怒っておくべきな気がするけど、無理矢理怒るとまたそんな自分に腹が立ってエスカレートしてしまう。


「凉子様、私も謝りますのでどうかどうか」


 ラタトスクちゃんまで膝を折りだしたので、私は慌てて止める。


「もういい! もういいから、許す許す、許すからさ!」


 やれやれ。また丸め込まれてしまった。


「ありがと、リョーコ」


 慎ましく微笑むせかいじゅさんの顔を見ていると、また心がかき乱される。


「もういいってば……着替えて勉強するから、邪魔しないでね」 


 カバンを置こうと勉強机に向かった私は。


 私の目は。


 天井を見ていた。


 ――あれ?


「リョーコ!」


「凉子様っ!?」


 二人の焦燥に満ちた声が、遠くから聞こえる。


 ひどい吐き気がして、足が動かない。

 鉛のように頭が重く、手が震える。


 ぼやけた天井を、ラタトスクちゃんとせかいじゅさんのアップ画像が塞ぐ。


 二人が何か叫んでいるけど聞こえてこない。

 私の耳の中で轟々と、津波のような音が鳴り響く。

 次第に視界も鈍っていき、曇って淀んできた。


 無音と無窮の闇に、私の意識が支配されていく。


 ぎりぎりまで残っていた私の嗅覚が、ラタトスクちゃんが握っていたおたまから漂ってくるハヤシライスの芳醇な香りに気づいた。


 お腹減った。

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