第10話 黒い少女

 学校からの帰路を全力疾走すること、数分。


 他の生徒達から充分な距離を稼いだ私は、せかいじゅさんの手を引きながら、とぼとぼとあぜ道を歩いていた。


一面に広がる田園は沈みかけた陽で朱に染まり、姿の見えない虫達は啓蟄を過ぎて元気に合唱している。


湿った空気にどこからか、銀杏の臭いが混じる。


ぎゅっと私の手を握った世界の支えは、大振りに足を動かしながら嬉しそうに、


「はーるーこうろうーのはーなーのーえーんー!」


 何故か滝廉太郎の『荒城の月』を、間の抜けた声で熱唱していた。


 熱唱するような歌か。

 楽しそうに、人の気も知らず。


「……何が楽しいのよ」


「うんー?」


 飄々とせかいじゅさんが、風を浴びながら顔を上げる。


「学校にまで来て――私の日常を壊して、そんなに楽しいの? 世界を支えるとか言っておいて、空気一つ読めないの?」


「リョーコ……?」


 どうしたのだ、と私の手を握る力が強められた。


 頼るな。


 あんたを守るために握ったわけじゃない。


「……先に帰ってて」


 苛立ちを隠したまま足を停めた私は、投げ捨てるようにせかいじゅさんの手を解いた。


 びくり、と震えてせかいじゅさんが後ずさる。


「リョーコ、みんなが店でお前の帰りを待っているぞ。早く帰ろう。日が沈むと私もしんどいしな」


 知った風なことを言われて、余計にむかっ腹が立つ。


「……たまには一人にしてよ。元々一人が好きなんだから私は。賑やかだからいいなんて思わないんだから」


 面白おかしく盛り上げれば、正解だとでも思ったか。


 私は必要最低限でいい。絡み合って子どもが出来るような、複雑怪奇で数奇で気色悪い縁なんて、いらない。


「リョーコ――帰ろ?」


 せかいじゅさんがすがるように、こちらに歩み寄ってきた。


 仕方ないので私は、一歩、前に出る。


 機械的に右手を前に出して、笑顔になりかけたその胸を。


「一人で、帰れ」


 ぐっと力を込めて、押し返す。


 よろめきながら、せかいじゅさんの体が離れていった。

 

 たちまち笑顔が崩れたせかいじゅさんは、唖然と口を開けながら体勢を整える。


「後から戻るから、今は放っておいて」


 自分でもびっくりするほど、私の声音は冷たく低く凍っている。

 北欧神話の氷の国は、ニヴルヘイムだったっけ。


「本当だな……帰ってくるのだぞ? 絶対だぞ……?」


 せかいじゅさんの声は、威厳を失って風の音に消え入りそう。


 神様みたいなもののくせに、そんなに私一人に嫌われるのが怖いのか。

 格好悪い。


 何も答えてやらずに、私は歩いてきたあぜ道を戻る。


「ご飯作っておくからな、きっときっと帰ってくるのだぞ?」


 しつこいせかいじゅさんに、


「あんたは食べるだけで、作るのはラタトスクちゃんでしょうが」


 大人気無く酷薄に吐き捨てて、私は立ち去った。


 最低かもしれない。

 どう最低なのか、自分にも分かりゃしないけど。


 老若男女の憩いの場であるフードコートでは、昼間っから暇そうなおばちゃん達がお菓子やお茶を広げて談笑している。

 

 迎えに来てくれたせかいじゅさんを追い返したまま、私は田舎特有の無駄に大きなスーパーで時間を潰していた。


 混沌とした喧噪が充満していて、ゆっくり落ち着こうとしても落ち着ける場所ではないけれど、洒落たカフェなんて近所には無い。

 最寄りのファストフード店は、クラスメイトがバイトしているはずなので入りにくい。


 洗練されていないこの中途半端な雰囲気が、今の私にはお似合いだ。


 いるだけで湿った苛立ちが、からからに乾いて枯れていく感じがする。


「落ち込む必要なんてないはずなんだけどなー……」


 私をこんな体にしたのは、せかいじゅさんだ。

 面倒臭いこの現状を生み出したのは、あのちっちゃい世界の支えのせいだ。


 なのにせかいじゅさんの悲しそうな顔を見てしまうとぎりぎり胸が軋む。

 木の枝で背中をつつかれるみたいな、不意で鮮烈な痛みが走る。


 あの夜、自分の中をぐちゃぐちゃに掻き回されたときに、実は洗脳でもされちゃったんじゃないだろうか。

 確かめる方法は無いけれど、そんな気がする。


 その上、今日は久しぶりに幼なじみの笛吹くんまで私の日常に浮上してきた。

 登場人物がいきなり増えすぎて、感情を処理しきれない。


 余計な感情を別世界に吹っ飛ばしたい。


 こんな精神状態だと、帰ったらまたせかいじゅさん達に翻弄されて、キレてしまいそう。


 そうやって感情を爆発させて、後から落ち込むのも私なのだ。


「あー。帰りたくないなー……」 


 紙コップの冷水をぐいっと、飲んだことも無い大吟醸みたいに煽ると、視界に黒いひらひらが入り込んできた。


「おねーさん、一人?」


 小学校高学年か中学生ぐらいの、女の子が立っていた。


 漆黒に染め抜かれた黒いレースの豪奢なドレス。

 腰まで伸びた長い黒髪に、丸っこい顔につり上がった濃い紫の瞳。


 ゴスロリファッションというか、きついことを言って客を泣かせる占い師みたいな雰囲気。


 およそ田舎のスーパーには似使わないとんがった可愛さだ。なでなでしたい。


 さすがの私も、ここまでロリをこじらせた子どもには反応はしないと思う。

 きっと。

 たぶん。

 そこに反応してしまうなら、私は性別以上のものを失っている。


「一人だよ。あんたはどうしたの? お母さんとはぐれちゃった?」


「はぐれたと言うか、捨てられた」


「…………え?」


 女の子は不機嫌そうに、指の爪をがじがじと囓りだした。異様に犬歯が長く、他の歯ぐぎざぎざに尖っている。


 よく見れば体もやせ細っているし、ビタミン不足かもしれない。


 ――虐待かな。


 面倒だけど放ってもおけない。


「あいつは身勝手だからな、けっ。あたしのことなんて覚えていないんだろーさ」


 やっぱりか。

 娘にこんなファッションさせてるんだから、まともな親だとは思えない。


「お、お店の人……じゃなくて、警察呼ぼっか?」


「警察? ふん。あんなの相手にならないよ」


「話を聞いてもらえないの? 物証とか無いとダメとか? きっついね」


「……? お前、何言ってんの。あたしは別に、一人で平気だし」


 昔の私みたいな強がり方だ。

 一人が平気な子は、それを口にはしない。


 私は、本当に一人が平気な子に会ったことが無い。


「居たければ、ここに居ていいよ。ジュースぐらいおごってあげる」


「ジュース?! わは、何にしよう……って違ーう! 調子の狂う女だなもう!」


 女の子は頬を紅に染めながら、だんだん、と足を踏みならす。


 ストレートな感情表現が、せかいじゅさんそっくり。


「遠慮しなくていいよ。アイスでもいっか。アイス屋さんあるしね」


「ア、アイス……? チョコミントはあるかな? ストロベリーチーズもいいな……じゃなくて、食べ物で釣るなー! 世界樹もこんな感じで丸め込んだんだな、お前ー!」


 ――世界樹?


「あんた、まさかせかいじゅさんの関係者……!?」


「そーだそーに決まってるだろバカかお前バカだなお前。こんな美しい姿の人間がそーそー地上にいるわけないじゃん」


「いや知らんけど……美しさ関係あるの?」


 自分から美しいと言っちゃうあたりは、せかいじゅさんの近縁者っぽい。


「ふんふんふん。見かけがちっちゃいのはたまたまだけど、この体は世界樹の分霊なんかよりずっと可愛いだろ。だろだろ?」


 女の子は腰に手を当てて無い胸を突き出し、みなぎってきた。


「どうかな。可愛いけど、せかいじゅさんもなかなかの美少女だし……」


 って、どうして私はせかいじゅさんの美貌の肩を持っているんだ。


 女の子も血相変えて頬膨らましてるし。


「ギギギ……! あたしが、あんなワガママなやつより劣るわけない! ないもーん!」


 地団太を踏む女の子に、近くのおばちゃんが「元気でいいね~」と目尻を緩ませる。

 せかいじゅさんの知り合いは、どうしてこうも騒々しいのだろう。


「んで、アンタもまさか、私の家に居候するってんじゃないでしょうね……これ以上家や店が賑やかになるのも考え物なんだけどな」


 ラタトスクちゃんのように小動物の姿になれるのなら、生活費への影響はそんなに考えないですむ。

 かといって、我が家を動物王国にするのは躊躇われる。


「……世界樹があたしなんか、迎え入れるわけないやい」


 自信満々だった女の子が、暗く怜悧な視線を落とす。

 その弱々しく痛々しい面持ちに、私の胸がまたしても軋む。


「せかいじゅさんと喧嘩でもしたの? しょうがない、一緒に謝ってあげるから」


 着いておいで――


 言いかけた私の敏感な耳たぶに、鋭い痛みが走った。

 女の子が私の首筋に顔を寄せて、小さな腕をぐるっと首に回して抱きついている。


 水晶のようにつぶらな紫の瞳が、目と鼻の先にあった。


「な、何してんの……?」


 女の子の頬と私の頬が擦れる。

 どうやら、女の子があの鋭い犬歯で私の耳たぶを噛んでいるらしい。


 痛みがぴりぴりと、耳全体に広がってきた。


「貴様なんかただの生き餌だ」


 耳元で女の子が囁き、ちろり、と冷たい舌が私の耳たぶを舐めた。

 全身が粟立って、血液が逆流する。


 何故かブルーベリーの香りがする。


「ひゃん!?」


 喘いでいるような声をあげる私に、何事かとまた視線が集まってくる。

 もう目立つのは嫌だっていうのに。


「これで世界樹も黙ってられないだろ」


 首に回された腕が、締め付けてきた。

 その指先が私の胸に触れて、さわさわとまさぐられる。手つきが年下とは思えない。


 丸飲みにされてしまうんじゃないだろうか、というあり得ない恐怖がふつふつと沸き上がってくる。さらに恐ろしいのは、それを妙に官能的に感じてしまっている、この私の体だ。


 私は反射的に、女の子の体を突き飛ばす。

 小さな体は簡単に離れて、ごろごろと床を転がった。


 近くのおばちゃん達が「まあ、あんな子どもにひどい……」「虐待かしら」などと囁きあう。


「うう……」


 痛い。

 耳たぶなんかよりずっと背中が痛い。


 女の子はそんな私を見つめて寝そべったまま、爪をがじがじと噛んでいる。


「うう……なんで私ばっかり……」


 この場所も、もう限界だ。

 腐海に飲み込まれた大地を見捨てるかのように、私はカバンを抱えてその場から駆けだした。


「きしし」


 という奇妙な笑い声が最後に聞こえた。

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