ぬかるむ道に足を取られながら、宵知は城下町の外れにある古寺に駆け込んで、境内にある大きな木の幹に寄りかかった。

 走ったせいであがる息を整えながら、雨粒が降ってくる天を仰いだ。


 脳裏に浮かんだのは、まだ赤子だった黄雨。

 ちょうど、任務を終えて城に帰ってきた時だ。長雨の合間に訪れたつかの間の晴天。乳母に抱かれた黄雨は、葉から滴る雫を熱心に見ていた。瞳に映るものすべてが新鮮だったのだろう。

 黒曜石を思わせるその瞳が、この世のものとは思えないほど綺麗で目を奪われてしまった。


 初めて言葉を交わしたのは、それから数年後。主に報告をし終え、疲れて木陰で寝ていた時のことだった。

 突然頬を擦られ、慌てて飛び起きた。そこにいたのは六歳になったばかりの黄雨で、小さな手には水で濡れた手ぬぐいが握られていた。


「何でしょう?」

「汚れておったから……」

「それはそれは、ありがとう、姫様」


 礼を言えば、しかめっ面だった顔が赤くなった。それを誤魔化すように、手ぬぐいで宵知の頬を強く擦ってきたので、しばらく頬がひりひりと痛んだのは今となっては懐かしい。


 任務を終えて城に帰還すれば必ずと言っていいほど黄雨が待っていた。宵知の顔を見るなり、安堵して笑顔を浮かべる黄雨に、荒んだ宵知の心も癒されていた。

 いつからだろうか。黄雨に恋心が芽生えたのは。確かな時期は分からない。癒しを与えてくれる黄雨に恋に落ちていた。でもその思いに、気づいていても気づかぬふりをしていた。城主の娘に手を出すなど不届き千万と、自分の保身に走って。なのに。


 ――私は、まだ子供に見えるのか

 ――女に、見えぬのか


 子供だと思うわけがない、女に見えないわけがない。魅力で溢れすぎているから、他の男に嫁ぐ前に今すぐ押し倒して自分のものにしたいという衝動を抑えつけるのにどれほど苦労したか、黄雨は知ることはない。


「ああ、くそっ」


 今日が雨で良かった。火照った体を頭を心を、一気に冷ましてくれる。境内を出た宵知は、降り注ぐ雨に全身を濡らしながら、再び隣国へ向けて歩みを進めた。



————



 宵知が去った部屋で、黄雨はひとり布団の上にうずくまっていた。

 今夜が最後だから。会って話せる最後の夜だったから。最後にひとつだけ、我儘を聞いてほしかっただけだった。

 心から好きになった人に抱かれたかった。


 初めて言葉を交わした日を、鮮明に覚えていた。木陰で寝息を立てる宵知の頬が汚れていたから、手ぬぐいでぬぐってやると慌てたように飛び起きた。

 怒られるかと身構えた。城主の娘なのだからあれをやっては駄目、これをやっては駄目、はしたないことは城主の娘の恥じだと言われ続けてきたから。また、駄目だと言われる様なことをしてしまったのだと思ったからだ。

 だが、宵知は無精髭の目立つ口の端を吊り上げて「ありがとう」と言ってくれた。その声が温かくて優しくて。一目惚れだった。

 

 でももう、これでお終いだと、黄雨は震える体を抱きしめた。


「大丈夫、大丈夫……」


 明日、顔も知らぬ男に抱かれるとしても、乗り越えられると思った。雨に濡れた足の雫をとってくれた無骨な手の優しさと、横向きに抱きかかえてくれた時のぬくもりさえあれば、きっと。それだけで十分だった。好きな男の温もりさえあれば、どんな苦痛も平気だ、と。


 今日が雨で良かった。この雨音が、失恋の痛みにあえぐ黄雨の泣き声をかき消してくれたから。


 ふたりの思いを流しきるまで、五月雨は降り止まない。




(終)

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五月闇に隠して 空草 うつを @u-hachi-e2

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