弐
「それで、何の話をいたしましょうか」
「楽しい話が良い。そうだ、あの話。永森の城に忍び込んだ時に蛇と遭遇した話」
「またそれですか」
「いつも冷静な宵知が蛇相手に慌てふためく様が面白くての」
くすくすと思い出して笑う顔は、年よりも幼く見えた。心を許した相手にしか見せることのない黄雨の笑顔を見て、宵知はほっとした。先程までは緊張からなのか顔が強張っていたからだ。
黄雨は永森の蛇の話が一番のお気に入りだった。この話をすれば例え怒っていてもたちまち笑い転げて機嫌を直す。
「――そしてシュルシュルと蛇が舌を出し入れするのですが、それがちょうど俺の耳に入って、くすぐったくて仕方ないのです。もうやめてくれぇと叫ぼうにも、目と鼻の先に敵の見張りがいるので声も出せずに悶絶しておりました」
「その顔が、可笑しくて可笑しくて……!」
悶絶する顔を再現して見せれば、案の定腹をかかえて笑い始めた。目尻に浮かんだ涙を拭い、黄雨は満足したのかすっきりした表情になった。
「面白かった。久しぶりに泣くまで笑った」
「大きくなっても笑う姿は子供の頃のままですね。そうやって大笑いしてくださると俺も話し甲斐があります」
「今夜が最後だからな。宵知の話を聞けるのも」
うつむきながらぽつりと呟いた黄雨から、笑顔は消えていた。
宵知はこの城の主お抱えの忍、黄雨の嫁ぐ城に行くことは恐らくない。だから今夜がこうして話ができる最後の夜なのだと、黄雨の言葉で宵知はようやく思い知った。
「なあ、宵知。聞いても良いか」
「俺で答えられることであれば」
「毎度、父上に命じられて忍としての任務をこなすわけだが、嫌な仕事はなかったのか?」
「嫌だと思ったとしても仕事ですので。それができなければ仕事を失います。忍なんてものは消耗品、代わりなどいくらでもいる。こちらとしても食いっぱぐれるわけにもいかないので必死ですよ。嫌とか我儘言っていられません」
「どんな仕事でも?」
「やれと言われれば」
「人の命を奪えと言われたら従うのか」
「それが仕事ならば」
「女を抱けと言われたら、抱くのか」
「命令とあらば従うまでです」
「好きでもない女でもか」
「はい」
「……そうか」
忍と姫。身分は違えど、境遇は同じなのかもしれないと、宵知は思った。
主の命令に背くことは許されない忍と、結婚相手さえ自由に選ぶことなど許されない姫。運命はすべて主の手の上にある。好きでもない相手と一夜を共にするのも、任務の為、家の為。拒否することはできない。
「もうひとつ、宵知に聞きたいことがある」
「何でしょう」
「私の笑う姿が子供のようだと言ったな」
「はい、昔のままです」
「宵知には、私は幼く見えるか」
落ちていた視線を持ち上げ、宵知を見つめる黄雨の濡れた瞳は吸い込まれるほどに美しくて、宵知は息を飲んだ。
「私は、まだ子供に見えるのか」
黄雨が、布団の上に正座していた足を斜めに崩せば、肌と布の擦れる音が部屋にやけに色を持って響く。
「女に見えぬか」
先程まで子供のようにケラケラ笑っていた薄紅色の唇から放たれるのは、艶めかしい大人の女の、甘い声音。
「私も、女だぞ」
赤子の頃から知っているから、十六になってもなおまだ子供のままだと思い込んでいた。だが、宵知の目の前にいるのは、まぎれもなくひとりの女だ。
「宵知」
甘く溶けるような声で名前を呼ばれ、そのあまりの甘い刺激に喉がひりついてしまう。任務でどれほど美しい女を抱いても湧き上がらなかった熱が、宵知の体を席巻して戸惑ってしまう。
危険なまでの甘さに酔ってはならぬと我に返り、どよめく心を隠すように軽く笑い飛ばした。
「突然何を言い出すかと思ったら。黄雨姫様が女であることは、初めから知っていますよ」
「なら――」
「嫁いだ相手との初夜に誘惑する練習ですか?」
「違――」
「お見事です。きっとお相手は陥落しますよ」
「……」
何も言わぬ黄雨の顔を見ることなく、宵知は部屋を後にして、降りしきる雨の中をひたすら突き進んでいった。
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