五月闇に隠して
空草 うつを
壱
厚く重い雨雲が月を隠せば、亥の刻を過ぎた世界は闇に包まれた。視界を奪われた今、降り注ぐ雨音だけが止めどなく耳に入り込み、聴覚を支配していく。
「こりゃあ本降りだな」
御殿の外廊下を歩きながら雨が降る庭園を眺めていたのは、無精髭を生やした男。
有名画家に描かせた襖絵や豪華な装飾が目を引く御殿には、男の着ている濃紺色の野良着姿は場違いにも見える。しかし、決して侵入者などではない。この城の主に仕えている
今しがた、諜報活動をしていた隣国から帰還して主に報告を終えたばかりだった。
「明け方になっても止みそうもないな」
これからまた、とんぼ返りで隣国に行かなければならないのだが。止む気配のない雨に気が滅入ったのか、落胆のため息をつく。
外廊下を建物沿いに曲がると、人の姿が見えて宵知は足を止めた。夜更けの廊下の端に、誰かが腰掛けている。月が出ていない為に近づかなければそれが誰なのか分からない。
だが、部屋の障子から漏れる蝋燭の灯りが、その顔貌をぼんやりと映し出していた。
「
宵知に声をかけられた女性が、顔を宵知の方へ向けた。東国一の美女として男達をざわめかせているその美貌は、障子越しの僅かな灯りの中でさえも映える程だ。黄雨は城主の娘で、今年十六になる。宵知とはひとまわり以上年が離れていて、黄雨がまだ乳をしゃぶっていた頃から知っていた。
「その声は、宵知か」
「左様です。夜もだいぶ更けて来ました。部屋にお戻りになってください」
「そうしたいのだが、足が濡れて中に入れないのだ」
よく見れば、寝間着の裾は膝まで捲られ、華奢な足は軒先の外に放り出されて雨に濡れてしまっていた。
「何故そのようなことを」
「特に理由はない。宵知、足を拭いてくれぬか」
そう言うと、黄雨は足を宵知の方へ差し出した。
黄雨は昔から警戒心が強く、よほど親しい者でないと何かを頼んだり笑顔を見せることはない。幼い頃から見てきた宵知にはよく懐き、時々こうして我儘を言ってきたりする。
宵知は黄雨の傍らに片膝をついてしゃがむと、捻りでもすれば折れてしまうほどに細い黄雨の足首を左手で優しく持った。もう片方の手で野良着の懐にしまっていた手ぬぐいを取り出し、足を滴り落ちる雫を拭った。
黄雨の肌は雪を欺くほどに白い。強く擦っては赤くなってしまうだろうから、宵知は上から手ぬぐいを優しく押し付けるようにして全ての雫を取り払った。
「助かったぞ、宵知」
「では、俺はこれで」
「あとひとつ頼みがある」
「……何でしょう」
「雨に濡れていたせいで、足が凍えて力が入らぬのだ。部屋まで運んでほしい」
宵知は黄雨に気づかれないように小さく息を吐き捨て、細い体を横向きに抱きかかえた。
障子を開け、部屋に敷いてある布団の上に黄雨を降ろした。
「ではこれで」
そそくさと退散しようと背を向けた宵知だったが、踏み出した直後にぐいと野良着の裾を引っ張られた。
「もう、行ってしまうのか」
雨音にかき消されてしまうほどにか細く、まだここにいてほしいと懇願する声音に、宵知の足は完全に止まってしまった。
「珍しいですね。黄雨姫様がそのような弱気なお声を発するのは」
「……雨のせいだろう。気分が、落ち込んでしまっているのだ」
「雨ではなく、祝言の前だからでは?」
明日、黄雨は嫁に行く。同盟を結んだ国の若武者との祝言を控えていた。この婚姻に黄雨の意志などはない。同盟を結んだ証に黄雨を嫁にほしいと相手側が進言したのを、黄雨の父が了承したのだ。いわゆる政略結婚だった。
ちらりと視線だけを後ろに向ければ、野良着の裾を掴む黄雨の白魚のような指が小刻みに震えているのが目に入り、心が揺れてしまう。
「祝言前は誰しも気分が憂鬱になるものだと、よく言うではありませんか。きっとその類です。気が安らぐ香でも焚いて眠ればそのうちなくなりますよ」
振り向かずにつらつらと根拠もないことを言ったのは、きっと黄雨は悲哀に満ちた目をして宵知を見ていると思ったからだ。美しい顔が涙で歪んでいるのを見てしまえば、その涙に心が乱されないわけがない。
「昨日試したが香を焚いても落ち着かなかった。少しだけ、側にいてはくれぬか。話をしていれば少しは気が紛れると思うのだ」
宵知の野良着を掴む力が強くなる。黄雨の手を払い除けることなどできず、結局宵知の方が折れた。
「……では、少しだけですよ」
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