「寒いですね」
3月末のことである。
春分の日を過ぎたが、気温はそれほど高くない。夕方になると、なおさらだ。
少し厚手のコートに身を包んだ女性が、オレンジ色に染まる住宅街を歩いていた。近くには、小川が流れている。
女性は、ワイヤレスイヤホンで音楽を聴いて歩いていた。聴いているのは、春の曲だ。寒い日が続く中で、春が早く来てほしいという願いから、聴いていた。どちらかというと、寒い日への抵抗という意味合いが、近ごろ強くなっているが。
いつもの帰り道。いつもの音楽。いつもの夕焼け。
そのはずだった。
「寒いですね」
急に女性の耳に声が聞こえた。
驚いて、後ろを振り向く。
しかし、誰もいない。
「聞き間違い……かな?」
そんな訳ない、と思ったが、無理やり自分を納得させる。
イヤホン越しに、はっきりと聞こえた声。
女性が聴いている音楽からの声ではない。今聴いているのは、女性がボーカルの曲だ。
聞こえた声は、明らかに男性の声だった。
女性は、やっぱり怖くなり、小走りで家へと向かった。
それからのことである。
女性は、謎の声に悩まされていた。
あの日以来、帰り道では、必ず「寒いですね」という声を聞いていた。
何度か帰り道のルートを変えてみた。だが、結果は同じだった。
声が聞こえ、すぐに振り返っても誰もいない。
これでは、警察に相談もできない。帰りに姿が見えない相手から話しかけられる、なんて言っても、取り合ってもらえないのは目に見えてる。
うんざりしながら、女性は、今日も帰路についていた。
そして。
「寒いですね」
また、同じ声だ。
――どうせ、意味ないんだろうな。
そう思いながら、振り返る。
そこには、何かがいた。
川から出てきたかのように、濡れている何かが。
形は、完全に人間だが、人間じゃない。直感でそう思った。
だって、こんな近くにいるのに、暗くて顔が分からない。こんなに西日が輝いているのに。
そして、何だか急に寒い。
「ひっ……」
息を飲む。
人間ではない何かは、こちらに手を伸ばしてきた。
その後何が起きたのか。それを知る者は、誰もいない。
短い物語たち きと @kito72
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