小さな酒場で踊る男

 その男に出会ったのは、小さな酒場だった。

 その日の俺は、仕事で嫌なことがあって、むしゃくしゃしていた。行き場のないもやもやを酒で、忘れようと思ったのだ。

 まったく、あのクソヤローが。俺が、悪いわけねーだろ。

 どんどんと強い酒をあおり、安っぽいつまみで腹を満たす。

 くそみたいな夜だった。

 いい加減に帰ろうとしたときだった。

「兄ちゃん。ずいぶんと飲んでるみたいだが、大丈夫かい?」

 声をかけてきたのは、初老の男。酒で顔が赤くなった顔は、そこそこにしわがある。短いぼさっとした白髪だが、ひげはキレイに剃っていた。

 うるさい。ほっといてくれ。

 俺は、彼を突き放した。

 それでも、彼は話しかけてきた。

「なんだなんだ、荒れてるな。なに、こういう時は、誰かに話せばいいんだ。ほれ、俺に話してみろ」

 俺は、嫌なことを渋々しぶしぶ話した。

 彼は、酒を飲みながら聞いてくれた。

 ひとしきり、俺が話し終えた後、彼はジュークボックスへと向かい、曲を流す。

 そして、「兄ちゃん、見てな」といい、踊りだした。

 彼の踊りは、そこまでうまいとは言えなかったが、なんだかきつけられるものがあった。

 タップダンスのようにかかとを鳴らし、高く飛び、くるくる回る。

 気づけば、小さな酒場にいた人間たちは、彼のダンスを見ていた。

 曲の終わりに、ビシッとポーズを決めた……、と思ったら少しふらついた。

 そこまで大きくない拍手が鳴り響く。

 彼は、拍手に答えながら、俺の近くへと戻ってきた。

「兄ちゃん。嫌なことなんてことは、これから何度も経験する。忘れるために、酒を飲みまくってたら、体がもたねぇぜ? だからこそ、逃げ道を探さねぇと。逃げるってのは、悪いことじゃねぇんだ」

 彼は、酒を一口飲んで続ける。

「俺もプロのダンサーとして食っていきたかったが、ダメだった。練習が辛くてな。でも、こうして踊れてる。逃げてもいいんだよ。諦めなきゃいいんだ、好きなことをな」

 それだけ言うと、彼は、店の奥で飲んでいた連中のもとへと歩いて行った。

 それ以来、彼には会えていない。

 でも、何処かで踊っているだろう。何となくだが、確信できた。

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