所持金残り57万6千円
ジャックリーンあまの
第1話 所持金残り57万6千円
「本日はお忙しい中お集りいただき・・・」
「ねえ、そこはいいわよ。思い出すと悲しくなるでしょ、心から同情するわ。テレビでもネットでもあなたの話題で持ち切りだったから。私も見たしさ、もっとも葬儀会場のモニターに映っているあなたを手元のモニターで見たから画質はザラザラだったけどね。そうじゃなくて私が聞きたいのは、なんていうかハッキリ言って手口よ。どうやって復権したのか」
「あなたもですか、これまでも接触してくる皆さんの目的はそこなんですよね、どうも私の書き込みだけでは理解できないようで、かといって会いましょうかっていうと、あんな大きな葬儀を執り行った人と会うのは会うのはちょっとって及び腰で、
そもそも葬儀だって大谷製作所三代目の経営者として言わせてもらえば、四回が一回で済んだわけですから効率的にはベストの選択だったと思いますよ、ただもっと早くやるべきだったのではないかというご批判は受けましたけど、私としては全てにおいて満足しています。はい」
「葬儀に関しては理解しているわ。私が伺いたいのは葬儀を利用したアイデアというか、あなたにとっては復讐なのかしらん、そりゃああれだけの騒動になったんだから動転もしたでしょうし、個人的な悲しみより公人として責任も問われるし、消えたくなった気持ちも分かりますし、消えたからこそ実行したんでしょうけど」
「ちょっと待ってください。みなさんそうおっしゃるんですよ。僕が計画的に消えたって」
「でも消息が分からなくなって騒動になったのは事実だし、大谷製作所は殺到する質問に次期社長の三代目がまだみつからないのでって一つ覚えの一辺倒だったでしょ。国会のナントカ委員会って嘘をつくと罪に問われるってところでも、堤さんっておじいさんが新社長の消息がつかめませんって何度も何度も同じことを言ってたわ。まあ、あの方もまさかの結末だったけどさ」
「転びようのない大企業に成長した今、トップはバカに限るってみんな思っていたと思うし、さらに行方不明なら空の神輿を担いでいればいいだけ。永遠に不明にされて永遠に利用され続けるところでしたよ。だから帰国した僕ではない僕になった見た目が僕を見て、堤圭太総務部長が驚いたのなんのって、冷静さを欠いてしまって慌てて社葬の話なんか始めちゃって、それが大規模社葬を執り行った真相です。それだけの話です。これまでもあなたのように接触してきて、いろいろ相談にのってもらった皆さんには、生い立ちや家庭環境や大西洋の島での様子やブラジルのサントスのホテルの事だとか飛び飛びに質問されて答えてきたんですけど、自分の中で順序経ててお話しした方が早くご理解いただけると思うんですけど」
「分ったわ。黙って聞いてるから説明してちょうだい。ただ、一つだけ、あなたホンモノの大谷雄星さんなのか証明して欲しいの。方法は任せるわ」
「じゃあ、僕の方からも確認したいんですけど、web上で架空の物語として書き込んでる僕をどうして大谷雄星だと分かったのか教えてもらっていいですか」
「それは、そっちが先に証明したらしてあげるわ。じゃあとりあえず全部話を聞いてからでいいわ」
「じゃあ、僕が僕である証明は最後にさせていただきます。葬儀の話から始めます。これだけは分かって欲しいんだけど、哀しすぎると本当に涙って出ないんですよ。
葬儀の喪主として大型モニターに映った泣いてあいさつした僕は、事前に収録したモノなんです」
「うそー、ショック。そんな事するんだ大企業って、でもそうだよね、そりゃそうだよね、世間とは違うんだもんね。イメージだよね、だってこう言っちゃなんだけど亡くなり方も特異っていうか、無二だもん。お金のある人じゃなきゃ到底かなわない派手な最期だもん。あっごめん、別にはしゃいでるつもりじゃ、ねえ、ねえってば、待ってごめんなさい。ちっ、切られた」
「切ってないですよ。黙って聞くっておっしゃってましたよね」
「あっごめんなさい。本当に素直な感想なんだって、だってあの葬儀って私が大学の入学式やった同じ会場だよ。知っている有名人だってかなり映ってたしさ、香港のアクションスターのファンチェンも来てたでしょ、あとEUのあの太ったおばちゃん」
「二チェスランギン」
「そう、さすが日本が誇る大谷製作所だよね、あっ、黙るから、どうぞ」
「僕は今後親交を深めなくてはならない立ち場なので、全員の顔と名前を覚えるのに必死でした。暗記は得意で、アメリカの友人たちの社会保険番号なら全員分暗唱してるんですよ。葬儀で胸に喪主用の大きな菊の花をつけるだけの係の人は営業二課課長代理の大谷安奈さん、渡してくれれば指に気を付けて自分でやれるんだけどそれは彼女に与えられた業務なのでやっていただいた。さらにその指示を出していただけの野口翔平部長の名刺の裏に書いてあった緊急連絡先の下四桁に万キロメートルを付ければ地球から火星までの距離と同じだったなって、今思い出しましたよ。だからこれまで僕に連絡をしてきた警察関係者や弁護士、救済団体や裏社会の住人とか、もちろん親切なあなたの情報も残らず掴んで覚えています。ん、どうかしました、大丈夫ですか」
「ごめんなさい、コーヒーを引っくり返しちゃって。どうぞ続けて」
「ママとパパとババとジジがロンドンで死んだっていう知らせは菅谷さんが伝えてくれたんですよ。ご承知の通り、例のロンドンのトンネル多重追突事故です。四人が乗っていた車が炎上したって息を切らしながら、ね。みんな性別不明になるまで焼けたけどママのパスポートだけ無傷で見つかって。見栄っ張りの置き土産だよね、フランスの馬革職人に特注した完全耐熱バッグのお陰であごを整形する前のパスポートだけが助かったなんてうかばれないよね。だって死ぬほど嫌だった写真が残っちゃったんだからさ。僕はあの日は前の晩から友人たちと星空の沖へ出ていて朝日を見てからハーバーに戻ってブランチバーベキューをしていたんですよ。その時館内放送があって、お知らせいたします。大谷様、大谷雄星様、至急ハーバー事務所までご連絡くださいってね、僕が聞いたんじゃなくて、笹本さんのお姉さんの方が雄星呼んでるわよって」
「笹本さんって笹本理研のミスアジアになった」
「それは伯父さんの娘のジャクリーンさん。僕に教えてくれたのは笹本証券の双子令嬢の璃子さんの方ですよ」
「ああ川辺選手の元カノの、すごい美女よね。へえ、友達なんだ。星を見に行ったんだ、ふーん。それにしても未だに館内放送とか残っているんだね、びっくり」
「ヨットハーバーは大抵どこもね。ゴルフ場もサーキットもラウンジとかも、僕が知ってるシニア会員が半数以上を占めるクラブではそうですよ。古いって感じじゃないですよ、伝統ですよ、今だってメンバー同士は出自も仕事も変わった趣味とかもお互いに知っていてフルネームで呼び合ってるし、皆さんとは肝胆相照らす仲です」
「そんなの表向きでしょう、カンタンソウショウなんて。企業人の詭弁よ。死ねばいいって思ってるでしょ。ああ、ごめん死ねばなんて、そう言う意味じゃ」
「大丈夫、気にしていません。それはつまり、こう言っては失礼かと思いますけど貧乏人の勘ぐりです。嫌味に取られると困るんですが、お金の心配がない環境で暮らしているとお金には興味がなくなります。金ならいくらでもあるかわりに僕は孤独なんですよ。同じように孤独という共通項を抱えている世間的にはライバル視されている金持ちたちとの方が金で上下関係がないだけ横の結びつきが強いくらいです。言いたい事は分かっています。だったらその連中に相談すればよかったじゃないって事ですよね、でも彼らの答えは分かっていた、金なんかくれてやればいいじゃないかって言うに決まってます。だから僕は別の選択をしたんですよ」
「つまり金持ちであるってステータスを捨てたって事ですよね」
「それだけじゃない。生きるのをやめて生きていこうと決めたんですよ。つまり三代目になって大谷製作所並びに大谷家を相続してから巻き起こった陰謀に対抗するべき死者を結集した闘いです」
「じゃあその武勇伝を、とにかくそのヨットハーバーの知らせから順序だてて聞かせてください」
「総務部の菅谷誠さんが走って来た続きからですよね。はっきり覚えています。先に気が付いたのは並んで貝を焼いていた剛士なんですよ。僕が、いいんだ知ってる人だからって声を掛けなかったら、きっと病院に、いやひょっとして菅谷さんの葬儀も執り行った可能性だってあります。なにせ革靴ネクタイの血走った中年が泳ぐような仕草で向かって来たんですから、中学の時からボディガードを買って出てくれている中野剛士の必殺エルボーの餌食にならなくて本当の良かった。その菅谷さんが、雄星坊ちゃん、外務省からの連絡でって、そこで菅谷誠さんは大きく息を吸い込んで、ちなみに菅谷さんって、去年廃部したアイスホッケーチームのセンターフォワードだったんですよ。走るのって氷の上と力点が違うから体力的に辛かったと思いますけど、そこは名選手だけにピンチの場合は心得ていると見えてまずは自分を落ち着かせるために大きく息を吐いて、吸い込みながらこう伝えて来たんです。ご両親とおじいさまおばさまがロンドンでお亡くなりになりました。現地で駐在員が対応に当たっていますがただちに私と一緒に来てください。目をこうして、見開いてね」
「それでロンドンに向かったのね」
「ちょっと待ってください。そこまでにはまだ続きがあります。菅谷さんの後ろからパパ専用の社用車が進入禁止ゲートから逆走して来るのが見えたんです。中野剛士にトングを渡して、ラムチョップは反対側はもう焼いてあると伝えました。菅谷誠さんと車に乗ってから甘い煙の臭いが漂いました。まあそんな事はどうでもいいですかね。で、助手席に乗っていた総務部長の堤圭太さんから今後の説明を受けました」
「今後って、ロンドンから後の日程もその時決まっていたんですか、じゃあすべてが会社の計画だったんですね」
「さっき、黙って聞くって言いましたよね。質問は無しです。堤さんはロンドンへ行ってからのスケジュールだけ教えてくれました。僕に伝えると菅谷誠さんといっしょに車を降りたんですよ。そのまま車は羽田方面ではなく銀座ルートに合流しんですよ、寄る所がありますからって言うんだよ、運転している横路益生さんは社長専属ドライバーで、僕の通学と帰宅を担当した横路勇生さんの義理のお父さんなんだけど、ママよりパパの事を理解していた人なんだ。この車で羽田までお送りしますが須藤総務部長を拾いますっていうんだよ。大谷製作所には総務部長が二人いるんだ。菅谷さんと一緒に降りた堤圭太さんは会社に関する一切を仕切っている部長で、もう一人が須藤真景さん。祖父の代からの大番頭で大谷家の一切を仕切っているんだ。その須藤さんがどこで待っていたと思う、その前にちょっと飲み物を取って来てもいいですか、そろそろ混みだす時間なんで」
「いいわよもちろん。自分のペースで構わないわ。私の方からもお願いがあるんだけど、先生を呼んでもいいかしら」
「先生って」
「かずかずの修羅場を経験して困っている方に手を差し伸べる神様みたいな、いや、神様は変だな、そうね、現代のお釈迦様かな」
「その方って今の僕の状況はご存じなんですか」
「もちろんざっくりとは。上品な英語表現のwebダイアリーも拝見したって言っていたわ。総資産2兆円の大会社の経営を継いだ三代目で個人で相続した税引き六千億円を会社関係者に食い尽くされて身ぐるみ剥がれたけど、秘密裏に復讐して表沙汰にはなっていないけどいくつかの命を奪ったって言っていたわ。いろいろと通じている先生だからリモートで話すだけならいいんじゃないかと思って」
「かまいませんよ、どうぞつないでください。って言うかすでに侵入している痕跡がみえますよ。ここはネットカフェですけど使用しているのは僕ですよ、大谷製作所の取引会社の回路を経由して利用しているので、先生は丸見えです。いまさら隠れても見えてます。ああ声は無理です、そちらからの音声は遮断しています。でも僕からは全部見えています。参加できないかって、ダメですね約束ですから。じゃあこうしましょう、特別に30文字以内のコメント参加なら認めます。ただしその言葉を取り上げるかスルーするかは僕次第って事で、そうですか、なら彼女経由って事で特別に。ただ、一度再起動してからでいいですか、これまでの履歴を消去したいんで。ありがとう。じゃあのちほど」
「もしもし大谷さん、聞こえますか大谷雄星さん。ああ良かった。見えました。いえ、また繋ぎますってのはばっくれちゃう手だから、いえ、心配はしていませんでしたよ、ただ本当に良かったなって」
「約束は守りますよ」
「じゃあ、先生を正式に招待しますね。ありがとう。ポン、ポンっと。あっ、先生お久しぶりです。そうだ声はNGでしたね。自己紹介ですか、こちらが深谷慎吾先生です」
「ああやっぱり。さっきそうじゃないかと、覚えていますよ。浜松の祖父の別荘でお会いしましたね」
「亡くなった野中次官とご一緒させていただきました。って、1,2、3と全部で23文字だからOKですね」
「あの時って深谷さんではなく良信さまと記憶していますけど、僧名でしたよね。子供ながらに目の鋭い僧侶の方だなって、あっ、すいません余計な事を」
「なんだ、知り合いだったんだ。じゃあさっきの途中から、ロンドンに向かう前の菅谷さんという総務の方とお父様の専用車で銀座方面に向かわれた続きから教えてください。先生なら途中からでも大丈夫ですよね、そうですよね、じゃお願いします」
「はい。菅谷誠さんはすでに堤圭太さんと下車したので、車は東銀座でビルに入りました。天井の低い地下駐車場を抜けて車ごとエレベーターに入って撮影スタジオに着きました。ドアを開けてくれたのは長身のインド系男子で、ここからの動きを覚えてくださいって英語で言われました。彼の英語が完璧なイントネーションだったのでロンドン育ちだと分かりました。スタジオには白い棺が四つ並んでいて、須藤真景さんが立っていました。この状態でウエストミンスターの教会でご対面になりますって教えてくれて、こちらからおじいさま、おばあさま、お父さま、お母さま。事故の犠牲者の身元は非公表だけど、大谷一族がいるという情報が一部マスコミに漏れていると報告を受けているので、坊ちゃんが誰にすがって泣くべきか決めておきたいと言うんです。隠し撮りされた一枚が大谷製作所三代目の始まりだと。教会ならカメラ位置は祭壇側なので、表情を、特に目線と泣く時の手の動きは重要だからって指導されたんです」
「つまりリハーサルだったんですね」
「はい、教会では手前から順にのぞき込んで、四つ目の棺を回るまで顔をあげてはいけないって。もう一度おばあさまの棺に戻って泣き崩れて、手を時々強く握る事。頃合いを見てロンドン支社長のジュリアン北村に支えられて出るようにって。それで二度、言われた通りにやってみたんですよ」
「おばあさまに戻る意味は説明されたんですかって、先生が」
「ババは経営には一切かかわっていなくて、本当にいつも優しかった。何をしても、何がおこっても、まあいいじゃないかってやぐさめてかばってくれたんです。ぼくも四人の誰が居なくなったのか悲しいかって言われれば、それはやっぱりババであって、ババには会いたいなって思おうわけであってほんと、ぐすん」
「分ったわ、分かったから続きを」
「ちょっと鼻をかんでいいですか。どうも失礼。で、そこから一緒に車に乗って、撮った映像を見ながら羽田に向かったんです。いつものジェットが待機していて乗り込むとそこにも棺が四つ並んだ教会のジオラマがありました。須藤真景さんに何度も動きと表情を叩きこまれた。デリーで給油している時に中野剛士に連絡したら、バーベキューの後でまた星空を見に沖に出たって言われて。もう日本は夜中だったんですよ。機内に戻るとジオラマは片付けられていて、テーブルには半身のチキンとボトルの頭が三つみえるワインクーラーが載っていました。そういえばずっと食べていなかったんです。かぶりついたら少しだけ涙が出ました。じわっと広がるセージの香りの甘い脂で想い出しちゃったんですよ、何でも作れるババと違ってチキンの丸焼きはクリスマスだけのママの味だったから」
「思い出は嗅覚で記憶されて、涙を刺激する神経回路の近くに蓄積されているって聞いた事があるわ。ごめんなさい、はい、どうぞ続きを」
「指が脂まみれになった僕に、須藤さんはおしぼりと手書きのメモを渡してくれたんです。相続予定の概算でした。遺言書と非嫡出子の確認はしておりませんって言いながら、だから大家家の全てが坊ちゃんへ引き継がれますって」
「具体的な金額はって先生が打ち込んでいますけど、ご記憶ですか」
「はい、課税金額も正確に千の位まで書いてあったのを覚えています。覚えてからサインしました」
「サイン」
「ええ、そのためのおしぼりで、内容を確認したというサインです。いつもの事ですけど」
「先生が他に何か変だなと思った事はありませんでしたかって、なんでもいいので思い出してください」
「食べた後は眠ったから、そうだ、うーん、そういえば」
「なんですか」
「チキンの胸肉を須藤さんが食べたんですけど、ジジより年上だから八十も後半なのに須藤真景さんの噛み方は、小学校の時に飼っていたグレートデンに似ていたなあと」
「そんな事。で、いよいよロンドンに到着ですね」
「目覚めた時にはすでに着陸していました。滑走路で待機していたブラックキャブで教会に向かったんです。税関ですか、もちろん寄りましたよ、ああ、プライベートジェットは個別ゲートですから。キャブには現地支社長のジュリアン北村さんも同乗して事故の概要を説明してくれました。事故現場は市街地からイーストエンドに抜けるトンネルでロンドン名物にもなっている渋滞の名所だったようです。合流地点が大きく右カーブしていて、そこにほぼノーブレーキで最初の車が突っ込んで、あとは続けてどんどんと二十四台が玉突き炎上。水素ガスと軽油を満載していたタンクローリーが二台含まれていて大爆発が起こってしまいトンネルの一部が崩落しているって、印刷された紙を見ながら説明してくれたんですけど、二枚目をめくったら黙ってしまって。それで須藤さんが、原因は調査中ですかって尋ねたんですよ。そうしたら少しだけ上半身を向けて、こんな感じで、それまでは日本語で説明していたんですけど、なぜか英語で、もう読めませんって」
「ジュリアンさんってあちらの方ですか」
「ええ、日本人男性と結婚したイングランド人です。須藤さんが大谷製作所社員八千人と家族に関わる大惨事なんだ。お身内を全員亡くされた坊ちゃんも会社の将来を案じておられる。その紙を全部読みなさいって強い西海岸なまりで叱るように言ったんです。その英語は、無表情を徹底教育されているブラックキャブドライバーでさえミラーで二度チラ見したぐらいきつい言い方で、僕も聞いていてかなり耳障りでした」
「あの事故って、車軸だけ残って焼けてしまった何とかマーチって名車のスピードの出し過ぎじゃなかったですか、ニュースで見ました。先生もご覧になったでしょ」
「73年型直列六気筒アストンマーティン。へえ、先生って車も詳しいんですもんね。どんな車なんですか、ふむふむ、ハンドルを握れば狼に変わる名車中の名車。へえ、そうなんだ。車好きの奥さまらしい高級レンタルだって打ってますよ」
「はい。確かに運転していたのはママでした。ノーブレーキで壁に激突して回転しながら渋滞の最後尾に突っ込んだ。それが水素ガスを移送中のタンクローリーで、外れたフェンダーミラーがタンクのアルミを突き破って生じた火花が気化したガスに着火して炎上。高温の炎がトンネル内を吹き抜けた。後続の追突車両に乗っていた犠牲者の多くは熱風を吸い込んで器官が焼けて窒息したとの報告で、ジュリアンさんは死因を知って言葉が出なかった。だから東京でリハーサルまでしたのかって謎が解けました。教会はカメラを構えたマスコミ関係者とスマホを持った野次馬に囲まれていました。近づくと連中が追って来て、中庭に通じる門が開く間にキャブが囲まれてフラッシュがバンバン炊かれてしまって」
「見ましたよテレビで。水掛けたんですよね」
「ええ、クラクションを鳴らして女王陛下万歳って叫んだドライバーが黄色いつまみを押したら、前後左右の窓の下からウォッシャー液が噴射されたんです。うわってマスコミが散ったすきに教会に入ったんです。銀座と同じように棺が四つ並んでいました。脇に祭服の牧師が立っていました。リハーサル通りお辞儀をして手前から順に近寄って、小窓を覗きました。最初の棺にはジジの写真が花びらをクッションにして載っていました。神妙にじっとしていたら牧師が寄り添ってきたんですよ。僕の大学の教会では旧約聖書プログラムを組み込んだ牧師型ロボットが葬儀で活躍していたけど、さすがに大聖堂だけあってそれなりの立場の人がそれなりにって思って神妙にしていたんですよ、だけどその牧師がモゴモゴとつぶやいては何度も十字をきって頭を垂れる動作を繰り返すだけなんですよ。だからちょっと見たんですよ、目だけでこうして、驚きました。なんでリハーサルでずっと下を向いているようにって言われたのか、その訳が分かったんです。だってその牧師って、紅いビレッタ帽を深くかぶっていたけど、車のCMに出ているあの有名な、れ、れ、れおなんとかって役者だったから」
「レオーネ・バルカス。さすが先生」
「そう」
「レオ様だったの、すぐそばに、隣にぴったり、凄すぎる。まるで映画じゃない」
「有名な役者だったから、そうだ撮影用かって思い出して二度とみないようにしながら順番に四つ回ってババに戻ってから棺にすがったんです。数を数えてね。5の倍数でしゃくりあげて25まで数えた時にジュリアン北村氏が肩に手を添えました」
「あの写真ですね。新聞全紙の見出しがみんな一緒で話題になった。なんてタイトルでしたっけ、ねえ先生なんでしたっけ。そうそうこれ、日本は誇る創業一家が招いた大惨事。地獄の未来に唯一残った御曹司覚悟の涙。大きかったですよね。ほぼ一面。首相がなにかやらかしたってあのサイズでは載らないでしょ、さすがよ大谷家は。でもそれからぱったりと、写真も動画も噂さえ出回らなかった。抑えたんですね、財力と政治力ですべてを封じ込めた」
「分りません。だけど、だからこそ僕は早めに謝りたかったんです。一度だけ世間に謝罪したいって言ったんですよ、そうしたら、いづれしてもらいますからって須藤さんに言われて、今は待つようにって。ロンドンは常に狙われているから北アイルランドで待機しているようにって言われて」
「あの時ロンドンで謝っていれば展開は違っていたのに、ねっ」
「でも須藤さんが、大谷家は、芸能人や腰の浮いた議員とは違います。この試練は風化しません、それを背負って尚、会社の繁栄を継続していく使命を天に与えられたのです。これをピンチとみてはいけません。会長と社長と大奥さまと奥さまが坊ちゃんに遺したチャンスなのですからって言われて」
「それでアイルランドへ。まあ須藤さんもまさかの展開だったでしょうからね」
「その須藤さんからプライベートジェットは目立つからって、格安航空のチケットをジュリアンさんが届けてくれて」
「なるほど、だからしばらく消息が、ふーん、それも計算だったのか」
「チケットを渡された僕はひとりで電車も乗った事がなかったし、生まれて初めての単身移動で毎日が冒険でした。でも出会った人たちはみんな親切で助かりました」
「北アイルランドからどこを経由して戻ったのかって先生が質問していますよ」
「チケット通りに乗り継いでブラジルに着いたんですよ」
「ちょっと待って、そういえばお金はどうしていたの。チケットはあるとしてカードか電子マネーなの。いつもお金ってどうしていたの」
「僕の場合は読み取り登録をしていて、四つの大きなクレジット会社ならどこからでも利用が可能なんですよ。つまりカードとかスマホとか代物は不要で僕自身が証明書だから、レンズを通せば使い放題なんですよ」
「どういう事、先生は分かりますか、ん、虹と彩でニジサイですか、コウサイって読むんですか、虹彩と静脈の併用、そうなんですか」
「先生はご存じのようですね。VIPファミリーの60人だけが利用可能なアースシステムで、指紋認証だとロシアの電力王の子息のように指を切断されて800憶円を盗まれてしまった悪しき前例があるので、目と手の併用措置で利用が可能なんです。顔認証だと七億人に一人の誤差があるけど虹彩なら目玉をえぐられたとしても生体反応自体が消えてしまう。静脈と併用なら100%間違いがないからW認証で引き出し限度は日本円で一日五十憶円に制限されています。ファミリーで一人という制限があって、パパが死んだから自動的に僕に切り替わっていて。パパが最後に使った記録はアストンマーチンの購入で五十億ギリギリ」
「車ってレンタルじゃなかったんだ。ひょーっ五十憶で買った車がすぐにパーなんて、あっごめんなさい」
「パパは三日続けて利用していたので、車は百五十億でした。パパはママが欲しがるものを買ってあげるのが好きだったから」
「まあ大谷製作所を世界規模の大企業にした二代目の功績からみれば微々たるはした金でしょうね」
「ジジが町工場からスタートして半世紀、お陰様で建設現場や鉱山で働く重機部品の世界シェア78%まで成長しました」
「最強無人兵器の弾頭部、ウクライナに提供した長距離砲って、先生30文字越えちゃいますよ。そういう部品も大谷製作所が供給しているんですか」
「先生には参ったな。隠し事出来ないですね、安全保障バランスも握っている民間企業だから各国政府とも親しい関係だって堤総務部長も言っていました。だからロンドンの事故は国と国とが話し合わなければ解決できないから、しばらくアイルランドに居てくれと。そこからアゾレス諸島へ行って、小型飛行機でバーミューダの島へ、そしてハイチを経由して南米大陸に入ればブラジルで日本行きのチケットを受け取ってアメリカを経由して戻れる予定だったんです。ベネズエラからバスでブラジルを目指しました。ずっと一人だったけど安全は担保されていました。僕の所在は追跡されていたんですよ。それが分かったのがスリナムって分かりますか、南米大陸北東部の小国なんですけど、ブラジルに向かう途中で誘拐されたんですよ。バスに武装集団が乗り込んできて、おまえ大谷だな、降りろって銃を突き付けられたんです。名前もバレていて、大平原の一軒家に連れて行かれました。扱いは丁寧でした。ごはんも水も与えられて、ベッドもありました。個室に監視は三人で覆面をとると少年でした。一度トランプをしました。ある朝眩しくて起きると窓が開いていました。その窓の下で三人が重なって死んでいて、他の部屋も全員死んでいました」
「先生からの質問で、どんな死に方だったかって」
「みんな首の骨が折れていたんですよ。あごが胸にめり込むほどおじぎをしてうなじの皮が延びきって横に裂けていました。こんな風に」
「先生が、こんな形のナイフを持っていなかったかって、分かりますかこのイラスト見えます」
「そうそう、そういう十字のストッパーが付いたやつを持ってました。でも寝ている間の出来事で何も」
「コロンビアの傭兵集団だろうって、身代金目当てで外国の要人を誘拐するけど少年団とは舐められましたねって。皆殺しにしたのも元海兵隊の傭兵集団だろうって」
「朝起きたら、まあ僕だけ起きたんですけど、みんな死んでいて、外に車があったんですよ。前日は無かったのに停まっていて。初めて見る形の車で、僕は運転が得意じゃないんですよ。でも車には詳しいんです。乗ったらハンドルの少し上に小さなレンズが見えたんです。だから見つめたんです。ずっと奥に光が見えて、すぐにエンジンが始動しました。つまり僕だと認識して目的地を目指して勝手に走り出した。あとはハンドルに手を掛けて運転しているフリをしながらブラジルまでノンストップでした。国境もノーチャックで、ていうかブラジルに入ってからは白バイが先導してくれたんです」
「あの、先生が、その時はまだ大谷製作所の三代目として守られていると信じていたのかって訊いていますけど」
「もちろんです。これで日本に帰れるだろうって思ってサントスまで車で連れて行かれました。そう、有名な港町のサントスです。車がホテルの駐車場で止まって、そこからはホテルの人に部屋まで案内されて。ベッドがクイーンサイズだったのでくつろげました。ロンドン以来のまともな部屋でした。これで安心だって、きっと須藤真景さんがだれかを迎えに来させるんだろうって丸々二日も待っていた。はい、ずっと部屋にいました。備え付けのパソコンがあったので日本の情報サイトでいろいろ調べました。本当にショックでした。まったく予期せぬ展開になっていて僕は行方不明だって騒いでるじゃないですか、会社だって三代目の僕に十字架を背負わせたままにしておけばいずれ収まるだろうって対応で、本当にショックでした。どうして、誰がって」
「だれがって、ねえ先生。えっ、私の推理ですか、そりゃあ須藤真景さんか堤圭太総務部長が深く関わっているんじゃにですか。違う、違うんですか」
「違わないですよ。二人共です。っていうか周りの人間みんながそうでした。驚くべき闇です。だから僕は、虹彩登録のお陰で僕が地球上のどこに居るのかピンポイントで監視されているから隠れられないと信じ込んで安心している連中の盲点を利用しました。地下駐車場に行ってみるとスリナムから乗ってきた車がまだ停まっていたんですよ。バンドルの上のレンズを取り外して部屋のパソコンに組み込みました。僕はアメリカの大学で電子工学を学んだのでいろいろ組み立てるのは得意というか専門家ですから。工具ですか、シャンプーのポンプとカミソリの刃があれば適当な酒のアルコール成分を利用して回路をいじれますから。大手ショッピングサイトから虹彩認証で利用停止されたクレジット会社のホストコンピューターを経由してある国の官邸サイトに侵入してある国のデータを少し利用させてもらったんですよ。正確には国民だった人のデータですけどね」
「ゾンビ作戦ですかって、先生が」
「まあそうですね、死亡届の改ざんというか復権ですからね」
「じゃあ今はその人に成りすましているのね」
「僕は違います。一応誰かになりすまそうと操作した段階でAIが誤作動しちゃったんですよ。結局一人だけじゃなくて1921年から2022までに亡くなった約66万人が僕として甦っちゃって。入力ミスを指摘した操作をAIが勝手にディープランニングしちゃったみたいで他の細かなミスも見つけて自動修正しだしちゃって、結果、ミスを指摘された故人のデータが全部復権していきなり人口が66万人増えちゃったんです。まあ、あの国にしたら誤差の範ちゅうですけどね」
「シンガポールですねって先生が打ち込みました。そうなんですか」
「ええ、確かにシンガポールの会社が管理するデータですけど国はインドです。人口が過密な国って言語も多くて国民管理が大変だから生体認証IDで識別しているでしょ、だけどインドは自国で管理していなかった。たどって行ったらシンガポールの官民合弁企業でした。セキュリティーが万全でアメリカ経由でもロシア経由でも入り込めない。あきらめて窓から港を見てたんですよ。おおきなコンテナ船が曳航されていました。それで思いついたんです。そうだ船員だってね。シンガポール船籍で働く乗組員は生体登録が必要なんです。港に入ろうとしている船を検索したら乗船している機関士がベトナム人だった。名前と年齢を利用してベトナム政府経由でデータに入り込めたんですよ。そこで虹彩データを僕と入れ替えた、それだけです。だから僕は生きているベトナム人に成りすまして帰国できた。正確な表現なら来日ですけど」
「なるほど、納得。それであの葬儀とつながるんだ」
「葬儀は帰国から一カ月後でした。僕はサントスから船で南太平洋上にいる事になっていたんです。冷静沈着な大番頭として大谷家を支えて来た須藤真景さんが家にいた僕を見て本当に腰を抜かしたんですから。それでも平静を装って、坊ちゃんご無事で何よりでしたって。だから四人の合同葬をしたいって言ったんですよ。あっさりOKですよ。それほど動転していたんだと思います」
「それでいったいどうやって入れ替えたんですか。どうやって葬ったんですか、ほら先生も、どうやって虹彩を手に入れたのかって、やっぱり先生も分からないって打ち込んでいますけど、先生待って、30文字ギリギリですよ」
「虹彩ですか、葬儀で一網打尽ですよ。喪主の僕と対面するわけですから、その時に車から外したカメラで盗もうって思ってたんですけど、頭を下げるだけで目を見ないじゃないですか、だからババの遺影に仕込んだんですよ。焼香した時って遺影を見ますよね。だからババに目が行くようにロンドンで撮った例の写真を大型パネルにして入口に飾ったんです。みんなが焼香の際にババの遺影をチラリと見る、パシャですよ。僕は喪主の席から手元で復讐した。目星をつけていた裏切り者が焼香した瞬間に実在した66万故人データと入れ替えていったんですよ。葬儀会場からの帰りはインドの故人になっている。電車にも乗れないし電子決済も出来ない。堤圭太総務部長なんて葬儀後に無銭飲食で連行されたんですよ。本人確認で示したカードが偽造だってことになって会社の顧問弁護士を呼んだけど弁護士も本人確認が出来なくて大混乱ですよ。まだまだ日本はデジタルの道は遠いでしょうね」
「でも、そこにまた鉱脈があると大谷製作所の三代目は目をつけた。ですよね」
「そうだ、僕が大谷雄星である証明をするんですよね。ほらこれが大谷雄星名義の通帳で、この欄はカクヨムからの広告収入。これが全財産です」
「1,10,100,大谷製作所の三代目なのにたったの57万6千円だけ」
「いづれ書籍化が決定したらもっと詳しくからくりを書きますよ。じゃ、またどこかで」
「あっ、ねえ待って、ああ切られちゃった。どうですか先生、三代目の虹彩手に入りましたか。じゃあOKですね、あれ、先生、なに、これってなに、消えていく、せんせーい。あっやだ、まだつながっていたんですね」
「先生はインド籍にお入りになりました。僕と初めて会った時はお坊さんでしたから本望じゃないですか。ひとつ教えておきましょう、金額を数える時って目を見開きますよね、気をつけなさい、いつのまにかインドの故人にされちゃうからね。web上で復権したい方は@大谷製作所まで」
「ひどい」
「まあいいじゃないですか。欲のないババはいつもそう言っていたから」
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