95――再会と決別
蛍光灯に照らされた倉庫内は、きちんと整理されていた。でも毎日掃除をするわけじゃないだろうから、床には埃や本当に小さな塵などが落ちていて、そこに黄色と黒のロープで足までグルグル巻きにされた人間が横たわっている。
最初に見た時は『誰だろう?』と思わず凝視してしまったぐらい、私が最後に見た姉よりもかなりほっそりとしていた。確か更生施設もかくやというほどに厳しい学校に入学させられたと聞いていたけど、痩せて引き締まったその姿に件の学校の厳しさを垣間見たような気がした。
「……お姉ちゃん?」
主任さんがここに案内して、社員さんが門番の真似ごとみたいなことをしていたのだから、ここに姉がいることは間違いない。きっと目の前にいるミノムシみたいな状態のこの人が姉なのだろうけれど、どうしても面影が重ならなくて確認するように呼びかけてみた。
すると一瞬身動ぎして、それからグリンとまるでホラー映画の人形のように首がこちらを向いた。私を睨む視線は鋭くて、思わず息を呑みそうになった。でも冷静に考えると、私が睨まれる理由はないんだよね。そんな風に理不尽に睨まれる謂れはまったくないんだし、怯んだら負けだと思ってしっかりと足を踏ん張る。
むしろ私は今回の件では押しかけられた被害者なのだから、姉の理不尽な怒りを受け止めてあげる義務なんかない。だから別におかしくもないしバカにするつもりもないのだけど、姉の姿を見下して鼻で笑ってやった。
「何その格好、ミノムシかと思った。地面に這いつくばっているんだから、イモムシの方が合ってるかも?」
こんな嫌な言い方するのに慣れていないから、声が震えそうになる。前世での姉を上位の者として扱うように躾けられた順位付けが効いているのか、どうしても姉は怖くて逆らえない人という意識が首をもたげてくる。けれども私は女優、これくらいの虚勢ぐらいは張れないと。せっかくだからこの経験を、これからの役者人生の糧にさせてもらおう。
「うるさい! こんなところに閉じ込めやがって!!」
「そりゃあ追い返されそうになったからって暴れて事務所の備品を壊したんだから、事務所の人たちにしてみれば危険人物を縛って閉じ込めるのは当たり前の措置でしょ」
呆れたようにため息をつくと、姉は痛いところを突かれたとばかりに口を噤んで押し黙った。でもぶっちゃけた話、私は姉と長話をするつもりはない。こちらが言いたいことをさっさと言って、後は事務所の……あずささんの判断に任せる。それが警察への通報とか、児童相談所への通告だったとしても私からは特に何も言わない。事務所までの道中に色々と考えた結果、そうすることに決めた。
でもその前に、ひとつ聞いたおきたいことがある。姉からすれば恥を偲んでお金の無心をしたのに、それをにべもなく断った私になんて会いたくなかっただろうに。あくまで姉の視点から考えればであって、私からすればあの電話は完全に脅迫みたいなものだったけれど。
それなのにどうやって来たのかはわからないけれど実際にこの東京の事務所までやってきたということは、よっぽど切羽詰まっているということに他ならないのだと思う。姉は多分この事務所の場所を知らなかっただろうから、わざわざ調べたんだろうしね。
じゃあその理由はなんなのか、本当にあの電話で言っていたように姉の学費なのだろうか。でも姉の性格だったなら嫌いで下に見ている私にお金の無心をするぐらいなら、両親や祖父母の方に行くんじゃないかな。それをせずに私のところに来るということは、そうせざるをえない理由があるのではないかと考えたのだ。
「お姉ちゃんが今日ここに来たのって、前に電話で言ってたお金の話だよね? あの話はちゃんと断ったはずなんだけど。まさか直接押しかければ私が諦めて、お姉ちゃんが望む金額を素直に渡すとでも思ったの?」
「……お前が今好き勝手にここで生活できているのは、あのオーディションに応募した私のおかげでしょ。普通は感謝して金でもなんでも喜んで差し出すべきなのに、この恩知らずが」
ボソボソと小さな声でそう言いつつ、最後の方は吐き捨てるように姉は言った。めちゃくちゃな論理で、思わず吹き出しそうになった。姉があのオーディションに私の名前で勝手に応募したのは、私を貶めるためでプラスの理由なんて全くなかったでしょ。しかもそこで神崎監督と出会ったのも偶然で、彼に引き合わせてもらったあずささんに認めてもらえたのは私の実力だったし。姉に感謝するところなんて、本当に見当たらないのだけど。
それをオブラートに包まずにそのまま伝えたら、姉はグッと口を噤んで押し黙った。よかった、まさか本当にそういう風に考えていたのならどうしようかと思った。姉も自分が言ったことに無理があるとわかっていたからこそ、反論できなかったのだろう。もし本気でそう思っていたのなら、多分激昂して罵詈雑言の嵐だっただろうし。
「こんな風に常識的な話がまったくできない人間っているものなのね、驚きだわ」
私と姉の話を邪魔しないように私の背後に控えてくれていた洋子さんが、思わずといった様子でそう呟いた。そういう風に言われても仕方がないよね、だって考え方が最後に会った小学生の頃と全然変わってないのだもの。まるで成長していない、なんて前世でよく目にしたネットミームがふと頭をよぎった。
でも姉だって相手が一番見下している私に対してだからこそ、こういう対応をしてるんじゃないかな。寮で暮らしているなら他人とも関わらないといけないだろうし、他の寮生にはもうちょっとまともな対応をしていると思いたい。でもさっきの洋子さんの呟きを聞き咎めたのか、鋭く彼女を睨みつける姉の姿を見ると自分の予想への自信がしぼんでいくのを感じる。
「じゃあ、他の理由はないってことでいい? お姉ちゃんは自分の学費のために、妹の私にお金を集ろうとした。これでいいんだね?」
反応を見ると他の理由もありそうだけど、それをご親切に聞いて解決してあげる義理は私にはない。『家族なのに?』とか『元大人なのに?』とか罪悪感を煽るような言葉が頭に浮かぶけど、姉の問題の解決は私じゃなくてまず両親が取り組むべきことだ。車の中でも考えていたけれど正直な気持ちを言えば、両親に対してめちゃくちゃ怒っているんだよね。姉に東京に行くと話したあの夜、私は両親と約束をした。姉とちゃんと向き合うって。それを反故にしただけでなく、この件だって私は随分前に手紙でちゃんと報告したはずなのに両親がどういうつもりだったのかは知らないけれど放置したせいでこのザマだ。
東京に引っ越しするために使ったお金はもう返し終わってるし、いっそ家族と縁を切るという選択肢もアリなんじゃないかと思う。以前あずささんに誘われていた養子縁組を受けて、舞台役者をしながら寮の管理人とあずささんの家の家政婦を兼任して、さらに才能ある子供たちに演技を教える講師なんかをやりながら細々と暮らせればそれでいい。
さすがにこのまま姉をひとりで帰らせるなんてことはしないだろうから、両親ふたり揃ってなのか父と母のどちらかなのかはわからないけれど迎えが来るはず。その時にどうするつもりなのか誰かに聞いてもらって、それが満足のいく回答が得られないのであれば……私は家族と疎遠になる決意をした。
姉からの答えは『他の理由なんてない』『姉が求めるものを妹が差し出すのは当然のこと』『どうせ遊びみたいに楽な仕事でもらったあぶく銭なんだからさっさと寄越せ』を言葉を変えて繰り返すばかりだった。ああ、ダメだ。このままここで聞いていたら、私よりも先に洋子さんがブチ切れそうだ。それはそうだろう、自分が身を粉にして働いている世界での仕事が遊びだのあぶく銭だのと見下した物言いをされているのだから。
私は一応最後に蜘蛛の糸は垂らしたつもり、それを跳ね除けたのは姉本人だ。だったら仕方がない、後は本人と保護者である両親が頑張ればいい。私はもう知らない、関係ない。
「それじゃあ、私にできることは何もないから帰るね。もう会うことはないだろうけど、元気で」
そう言ってくるりと姉に背を向けると、姉は焦ったように『ちょっと待ちなさいよ、今日どこに泊まればいいのよ!?』と悲鳴のように叫んだ。何を言ってるのだろう、この人は。もしかしたら私の部屋に泊まるか、どこかホテルでも用意させるつもりだったのだろうか。これだけのことをやらかした人間があったかい布団で寝られると思っているのなら、世の中を舐めているとしか思えない。
もう何を言っても無駄だと思い、私はそれには答えずに洋子さんと一緒に倉庫の外に出た。パチンとスイッチが消されて倉庫内はまた真っ暗になったけど、倉庫の物を使ってまた暴れられたら大変だもんね。ドアの向こうからはくぐもった姉の怒鳴り声が聞こえるけれど、案外防音が効いているのかドアから少し離れるとまったく聞こえなくなる。
「お疲れ様、すみれ。疲れたでしょう、話が通じない相手との会話ってしんどいわよね」
『後ろで聞いているだけでくたびれたわ』とため息をつく洋子さんに、私は苦笑を返すしかできなかった。本当に身内が迷惑を掛けて申し訳ないと思う。私が姉と話しているうちにあずささんから連絡が来たみたいで、姉は外が暗くなったら猿ぐつわを噛まされた後で袋に詰められて、あずささんが懇意にしているお寺に連れて行かれるらしい。まぁホテルとかどこかの部屋に監禁したとしても、暴れたり騒いだり逃亡したりされたりしたら周囲の人間に迷惑が掛かるもんね。
「まぁバラエティ番組の撮影中ですとか手持ち看板出してたら、多分変に思う人もいないでしょう」
事務所の男性社員さんが困ったように笑いながら言ったのだけれど、身内のせいで犯罪行為まがいなことに手を染めさせてしまうのが本当に申し訳ない。彼と主任さん、そしてデスクで働く人たちにもう一度頭を下げて寮へと帰宅したのだった。その頃には精神的な疲労からか体がすごく重たくて、お風呂も入れずに部屋のベッドに倒れ込んでそのまま眠ってしまったのだった。
翌日は夜明け前に目が覚めてしまって、しかもお風呂にも入らず歯磨きもせず眠ってしまったからひどい有様だった。物音を立てないように1階へ降りて、お風呂をサッと洗ってお湯を張る。
20分ぐらいして湯が張れたという合図の電子音がしたので、服を脱いでお風呂場に入った。昨日はホコリっぽい倉庫にも入ったので、念入りに身体と髪を洗う。顔も泡立てた洗顔料でいつもよりも時間を掛けて洗って、浴槽のお湯にゆっくりと身体を沈めた。あったかいお湯がすごく気持ちがよくて、肺の中の空気を全部吐き出すぐらいの長いため息をつく。
ちょっと長湯をしてから入浴を終えて、部屋から持ってきた部屋着に着替える。ここでドライヤーを使うと愛さんとはるかを起こしてしまうかもしれないので、先に歯みがきを済ませてからドライヤーを持って稽古場へと向かう。ここなら他の部屋より防音がしっかりしているから、うるさい騒音でふたりに迷惑を掛けることもないだろう。鏡も壁一面に貼られているしね。
とりあえずの身支度を整えた後でドライヤーを洗面所に戻し、牛乳をレンジで温めてから香り付けに少しだけインスタントコーヒーを混ぜるなんちゃってカフェオレを作ってリビングのソファにゆっくり座る。
あんまりお腹はすいていないから、朝ごはんはこれだけでいいかな? でもさっき台所の流しを見たけれど、しばらく使われた形跡がない状態のままだった。トヨさんが腰痛が原因でこちらに来れなくなってから、うちの寮の食事事情は悪化の一途を辿っている。私がいる時は三食のうち朝と夜ごはんは作るようにしていたのだけれど、ドラマの撮影で忙しかったからね。
どうやら昨日もその前も、外食だったりコンビニやスーパーのお弁当とか菓子パンで済ませているようだから、今日は私がちゃんと朝から作ろう。何せ今日からお休み、ゆっくりできるけど手持ち無沙汰になるのは目に見えているしね。
常識的に考えるなら、姉関係で両親が今日あたりこっちにやってきて関係各所に頭を下げるだろう。でもそれに私が付き合うつもりはないし、今両親に会うと前世の分もプラスされたぐらいめちゃくちゃに罵っちゃいそうだから顔を合わせるつもりもない。あれだけ私が言ったにも関わらず、姉と良好な親子関係を構築できなかった両親に今さら期待はしていない。でもこの状況でも姉と向き合えないなら昨日ちょっと考えたあずささんとの養子っていうのを、真剣に考えないといけないのかもしれないね。
ボーっとそんなことを考えながらチビチビとカフェオレを飲んでいると、いつの間にか結構な時間が経っていたのか外が明るくなっていてはるかが起きてきた。昨日は挨拶もできなかったので『ただいま』『おかえり』と家族みたいなやり取りをして、スクランブルエッグとトーストを一緒に食べた。野菜が足りないけれど、冷蔵庫には食材が入っていないのだから仕方がない。心のスケジュール帳に買い物に行くことを書き加えながら、はるかの話を聞く。
私の予想通り夜ごはんは外食三昧、朝は食パンや菓子パンで済ませる生活だったみたい。お昼もお仕事がある日は仕出しのお弁当とかを食べていたそうだが、それ以外の日はインスタント食品か外食生活をしていたんだって。そんな生活をしていたら、ちょっとふっくらしちゃうのもわかるよ。お肌もちょっと荒れ気味で、このままだともっと強い影響がはるかの身体に出てきそうだ。
私と一緒に過ごしていたら、はるかもそのうち元の状態に戻るでしょ。面倒でもせめて自分の食事ぐらいは用意できるように、また一緒に料理したりして健康的な生活を習慣づけていかないとね。
昨日の夜は愛さんとラーメンを食べに行ったらしい。その愛さんはまだ寝ているのかなと思っていたら、どうやらはるかを寮まで送り届けた後でお酒を飲みに行ってしまったそうだ。靴がないところを見ると、どうやらそのままどこかで外泊したみたいだね。大人なんだから自由にしていいとも思うけれど、女性なんだからあんまり夜中にお酒を飲んでフラフラするのは危ないなって思う。
食事の後は食器を洗って、しばらく掃除されていなかった寮の中をキレイにしていく。はるかにも手伝ってもらったので、2時間ぐらいでお客さんを招いても大丈夫なぐらいにはなった。ついでにあずささんの家もパパッと掃除しておく。広いので全部は無理だけどお客さんと話をする応接間とかそこに続く廊下や玄関、あとはあずささんの寝室も軽く清掃しておいた。疲れて帰ってきたのに寝室が汚れているとか、疲れが取れないもんね。シーツや枕カバーがしまってある場所も知っているので、手早く交換しておいた。
休憩を挟んで次は買い物に行こうと思っていたら、寮の電話が鳴った。立ち上がって電話に出ようとしたはるかを止めて、私が早足で電話に出た。虫の知らせというか昨日の件もあるから、私宛ての電話である可能性が高いかなと思ったのだ。
電話の相手は洋子さんだったので、どうやら私の予感は的中したらしい。昨日たくさん迷惑を掛けたことを謝ってから用件を聞くと、まずは昨日からの姉の様子を教えてくれた。お寺に放り込まれた姉は夜通し坐禅を組まされて、散々警策で肩を叩かれたそうだ。私も前世で坐禅体験したことがあるけれど、あれって結構痛いんだよね。姉が癇癪を起こして暴れようとしたそうなのだけれど、体格の良いお坊さんに囲まれた状態ではそれもできなかったらしい。
結局朝までその坐禅と読経をして、クタクタに疲れ果てた状態で現在は熟睡しているそうだ。姉を静かにさせておくには疲れさせて、眠らせておくのが一番穏便なやり方だもんね。
午後から両親がこっちに来るみたいで、洋子さんに両親と会うかどうかを聞かれたのだけれどきっぱりと断った。その代わりに伝言をお願いすることにした。
「姉とちゃんと向き合うまでは、両親にも祖父母にも会う気はありません。これからのあなた方の行動次第で今後のことを考えます、って伝えてもらえますか?」
洋子さんが『必ず伝えるわ』と請け負ってくれたから、これでちゃんとふたりに伝わるだろう。あずささんも東北の方で昨日から泊まりの仕事があるのに、時間をどうにかやりくりして東京に戻って両親や姉と話をしてくれるらしい。忙しいあずささんに負担を掛けてしまって、本当に申し訳なく思う。
カチャリ、と受話器を電話機の定位置に戻して小さくため息をついた。ふみかのことが心配だからもし行けそうなら地元に戻ろうかと思っていたのだけれど、この状況だとやめておいた方がいいかな。実家に泊まれないならホテルを探すのも一苦労だし、また余裕がある時に里帰りを考えよう。地元じゃなくても大阪で会ってもいいんだしね、ふたりには移動の手間を掛けちゃうのが心苦しいけども。
よし、気持ちを切り替えよう。まずは冷蔵庫の食材を補充するために、買い物に行かなくては。はるかに声を掛けると荷物持ちを手伝ってくれるとのことなので、一緒に近所のスーパーまで出掛けることになった。
「ねえねえ、すみれ。お菓子買ってもいい? この間買ったのがすごくおいしかったんだよ、オヤツの時間に一緒に食べよ?」
「いいけど、あんまりたくさんはダメだからね。夜ごはんが食べられなくなるんだから」
『はーい』と明るく返事をするはるかに苦笑して、ドアの外に出ると今日も日差しが強くて暑い1日になりそう。日焼け止めを塗っていてもジリジリと肌が焼けそうなので、日傘を差してはるかとふたりで相合い傘状態のまま歩き出すのだった。
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