閑話――なおのなつやすみ


「あつ……」


 家を出てすぐにギラギラと照りつけてくる太陽の光に、なおはたまらずそう呟いた。天気予報によると、今日の最高気温は33度ぐらいになるらしい。


 バレー部に所属しているなおにとっては、できればもうちょっと気温が下がってくれたらいいのにと思わずにはいられない。


 体育館は時間ごとに他の部活と交代だったり共同だったりで使うのだが、バドミントン部と一緒の時が一番最悪だ。何故なら風でシャトルが動くらしくて、窓を開けさせてくれないのだ。


 なおとしては事情は理解できるけれど、それなら他の部活と共同で体育館を使わずに他のところでやってほしいと思わずにはいられない。バテるからあんまり水を飲むなと顧問の先生に言われるから、冗談でもなんでもなく命の危険すら感じるのだ。


 通学路をなんとか歩き切って学校にたどり着いたなおは、職員室で鍵を借りてから体育館へ向かう。自分の他にも1年生部員はいるけれど、なおとしてはちゃんと準備運動して練習ができる状態にボールやネットなどを用意してから部活を始めたい。そんな想いから入部してしばらくして、朝練では1番に来れるようにと心がけてそれを実行している。


 同じ1年生からは『自分たちが怠けているように見えるから、あんまり早く来ないで』とやんわりと遠回しに言われたりもするけれど、別に彼女たちが怠けているとはなおは全然思っていない。先輩たちに媚びているとかいい子ちゃんぶりたいのかとか陰で言われているのも知っているが、上手になるためには少しでも長く練習するしかない。別に先輩にいい顔をしたいわけでも、少しでも自分を他人に良く見せたいわけでもないのだと声を大にして言いたいなおだった。


 なにしろ努力することにかけては、東京で家族と離れてひとりで頑張っているすみれという存在がいるのだ。洗濯もご飯も全部の家事は母親に任せて、自分のやりたいことだけに集中できている自分は全然ぬるい環境にいるとなお本人は思っている。部活が休みの日には家事を手伝っていたりはするけど、それは子どもの手伝いレベルだ。すみれみたいに何もかもを自分の責任で生活を賄っているわけではない。中学1年生とは思えないほど、そんなストイックな考え方を持つのがなおという少女だった。


 ただ今はそんな手伝いレベルの家事すら、母親には禁止令を出されている。なおは中間テストは上から数えた方が早いぐらい好成績を残していたのだが、部活にのめり込み過ぎて期末では成績が下がりに下がって両親に大きな雷を落とされた。手伝いよりも勉強をスローガンにされて、部活の後には強制的に塾の夏期講習に通わされている。


 体を酷使した後で呪文のような塾講師の授業を受けるので効果のほどは疑わしいが、ふみかと一緒に塾通いできているのでなんとか続いている。親友であるふみかとは同じクラスなので一緒にいる時間は多いのだが、小学校の時と比べると違う部活に入ったのですれ違う時間が増えているような気がしている。特になおが厳しいと有名なバレー部に入ってしまったので、運動が苦手なふみかと同じ部活に入るという願望が叶うことはなかった。


 でもふみかも昔から本を読むのが好きだし、文芸部という本好きの巣窟みたいな部活に入れて楽しそうだ。自分はガサツで小学校の頃と違うのは背の高さぐらいだけど、ふみかはどんどん美人さんになっているとなおは思っている。だからあんな変な不良がふみかの周りをうろつくようになってしまったのだと、なおは歯噛みした。


 『すーちゃんにもふみかのことは頼まれているのに』と、大きなため息が知らずになおの口から漏れてしまう。体育館の床にモップを掛けながら、ここしばらく1年生の教室に度々訪ねてくる3年生の顔を思い浮かべた。あんまり興味はないけれど、別にブサイクではないと思う。でもふみかがクラスメイトと話していても平気で割り込んできたりするので、不良の性格はとてもじゃないけれど良くはないだろう。


 先輩たちがやってきて、全員が揃ったところで部活開始だ。基礎トレーニングとしてランニングや筋トレをやって、やっとボールを触る練習に移る。最初の頃はボールをレシーブするたびになおの腕には青あざができていたのだが、腕の皮が厚くなったのか今では特に色が変わったりしない。日に焼けたから目立たなくなったのかもしれないけれど、思春期女子であるなおにとってはどちらであっても結果オーライだ。


 一通りの練習をこなして汗だくになったなおたちは、体育館を出て日陰になった場所に座り込んだ。外は暑いはずなのにサウナのように高温になっている体育館の中と比べると、めちゃくちゃ涼しく感じるから不思議だ。そよそよと吹いてくる風にほぅっと思わず出たため息に、3年生の先輩が話し掛けてきた。


「疲れた? なおはちょっと頑張りすぎてるところがあるから、無理しないように気をつけないとダメよ」


 エーススパイカーとして実力も人望もある人で、なおも尊敬している。そんな先輩に心配してもらえるのは、素直に嬉しい。『ありがとうございます』とお礼を言うと、先輩はニッコリと笑みを返してくれた。


 そう言えば3年生の先輩なら、ふみかにまとわりついているあの不良のことを知っているだろうか。前に他の先輩にも聞いてみたのだが、あまり話したがらない雰囲気で詳しい情報は手に入らなかった。不良だし他校のならず者たちとケンカしたりもしているみたいで、同学年の人たちにも遠巻きにされているらしい。受験生なのだから、揉め事などに巻き込まれて内申点が下がるのを危惧しているのだろうか。


「あの、先輩。ちょっと聞いてもいいですか?」


 試しに聞いてみようとおずおずとそう言ったなおに、先輩は特に面倒そうな様子もなく頷いてくれた。不良先輩の外見を伝えると、先輩はちょっと嫌そうに顔をしかめて『ああ、山本のことね』と呟いた。


 大事な親友にちょっと前からつきまとっていることを伝えると、先輩は今度は遠慮なく盛大に表情を歪ませた。それはそうだろう、なおの親友ということは中学1年生の少女だ。去年まで小学生だった女子に中学3年生の男子がちょっかいを出しているというのは、なんとなく気持ち悪い。


「なおの親友っていうことは、あの三つ編みちゃん?」


 ふみかの文芸部が活動する日はほぼ確実に一緒に帰るので、ふみかの顔は先輩たちも見たことがあった。1年生だから小柄なのは仕方がないことだが、遠目にも可愛らしい子だったことを先輩は覚えていた。なるほど、不良のくせにああいう子が好みだったのかと先輩の中でもう最底辺だと思っていた山本某への評価が更に下がった。


「うちの学校の不良ってケンカはするけど、あんまり女の子に無体を働くイメージはないわね。でもいざっていう時には、男子バレー部の部長のところに逃げ込みなさい。私から話しておくし、あいつなら他の部活の連中とも仲がいいから」


 真剣な表情で言う先輩に、なおはコクコクと頷いた。でもいくら先輩から話を聞いていたとしても、不良と関わるとなると躊躇したりするのではないだろうか。そんな小さな不安が伝わったのか、先輩はちょっと困ったように笑ってからなおの耳に自分の口元を寄せた。


「あいつと私、幼稚園からの幼なじみなの。長い付き合いだしお互いに貸し借りがいっぱいあるから、心配しなくても私からのお願いなら断らないわよ。ちゃんと話しておくから、安心して頼って大丈夫」


 先輩の言葉に、なおは部活中のふたりの様子を思い浮かべる。たった今本人から話を聞くまで、そんな風に親しい間柄だなどとまったく思わないぐらいの態度だったと思う。たまにボールを拾って渡したり、頼まれて物を渡してあげていたぐらいしか覚えていない。周りに幼なじみであることを隠しているのだろうか。もしそうなら何故なのか、なおには全然わからなかった。


 でも先輩たちがあえてそうしているのであれば、きっと何か理由があるのだろうとなおは無理矢理に自分を納得させた。ちょうどその時に部活再開の声が掛かって、なおと先輩はふたりで連れ立って体育館の中に戻った。


 その後も厳しい練習の中、必死になおは先輩たちに置いていかれないように頑張った。体力を使い果たしてクタクタになった体を引きずって自宅に戻り、体の芯に残った熱を冷ますように冷たいシャワーを浴びる。本当ならこのままベッドに倒れ込みたいのだが、この後はふみかの家に彼女を迎えに行って一緒に夏期講習を受けるのだ。


 少しだけ休憩して水分補給などをしてから、塾の教材が入ったままのカバンを引っ掴む。時間に余裕があるのでゆっくりとふみかの家に向かってチャイムを鳴らすと、涼し気な水色のワンピースに身を包んだふみかがなおを出迎えた。


 ふみかのお母さんに見送られて、夕焼け空が空を真っ赤に染めている中を駅前に向かって歩く。お互いに今日はどうしていたのかという話になったので、なおは忘れないうちに先輩から言われたことをふみかに伝えた。するとふみかは一瞬きょとんとした表情を浮かべてから、クスクスと小さく笑い出した。


「なお、心配し過ぎ。あの人、そんな風に問答無用で暴力に訴えかける人じゃないと思うよ」


「そんなのわっかんないじゃん! 不良っていう人間は頭に血が昇ると、何をするかわからないってママが言ってたよ」


 頬をぷくりと膨らませながら不満を言うなおに、ふみかはちょっとだけ表情を引き締めた。なおの母親は今は立派に主婦として真面目に過ごしているが、若い頃は不良の世界にいた人間である。そういう世界とはまったくもって縁が無いなおと比べると、その言葉には説得力があった。


「確かに、あの人以外の不良が関わってくるかも。なお、ありがとう。もしもの時は頼らせてもらうね」


「……最初からそう言ってくれればいいのに」


 ふみかの言葉に、なおはまるで頬袋に食料を詰め込んだリスのような顔をしてそう不満をこぼした。別にふみかがなおを信頼していない訳ではないと、なおだって頭ではわかっているのだ。自分に心配をかけないように、殊更明るい振る舞いをしているのも知っている。でもなんだか自分の心配を軽く思われているみたいで、不満に思う心にストップを掛けられないのである。


 パンパンに膨らんだなおの頬をふみかが人差し指で軽く突くと、なおの口からちょっと間が抜けた感じの『ぷひゅ』という音が漏れる。なんだかそれが面白くて、なおとふみかは顔を見合わせると小さく吹き出した。さっきまでの雰囲気はどこへやら、もうすっかりいつものふたりの間に流れている空気に戻っている。


「そう言えば、すーちゃんのドラマ見た? 今日のはねぇ……」


「あーっ、言っちゃダメ! 私部活だったから、まだ観れてないのに!!」


 ふたりの共通の話題の一番目にあるのは、やっぱり幼なじみでもうひとりの大事な親友であるすみれのことだ。夏休みから始まった月曜から金曜日のお昼に30分枠で流れる、すみれが主演で出ている連続ドラマ。東京に行ってからやたらとトラブルに見舞われた彼女だが、どうやらこのドラマも撮影に入るまでに色々とあったらしい。


 すみれはその詳細は語らないし内容は知らないが、現在進行形で大変だという愚痴だけ聞いている。大人の世界でトラブルに巻き込まれるすみれに比べるとまだいいのかもしれないが、なおとふみかも中学生として等身大の悩みを抱えている。そんなところでおそろいにならなくていいのにね、となおとふみかは顔を見合わせて苦笑を浮かべた。


「いつか私が書いた物語を、すーちゃんが演じてくれたらいいな」


 言葉通り、文芸部に入部したふみかは小説を書き始めた。元々読書が趣味なふみかなのだがやはり読むと書くでは勝手が違うようで、先輩たちに読んでもらってダメ出しされてそれを直すという日々を過ごしているらしい。なおも読ませてもらったことがあるのだが、ちゃんとお話になっていてどこに直すところがあるのかが全然わからなかった。


 東京に行ったあの日、なおとふみかは親友がひとりで戦っている場所に自分たちも行きたいと願った。そのためにふみかは文章を書き始め、なおは運動部に入部したと言っても過言ではない。ふみかはともかくなおは自分に何ができるのかまったく思いつかなかったので自分の母親に相談したら、何をするにもとにかく体力が必要だと言われて運動部に入ることにした。バレー部に入ったのは、部活紹介の時に先輩がスパイクを打つ時にジャンプした姿がかっこよく見えたからだ。


 小説家か脚本家か。ふみかがどんな道を選ぶのかはわからないけれど、なおも『置いていかれないように頑張らないと』と気合を入れ直す。


「完成したら、また私にも読ませてね」


「うん、もちろん。なおが読んでくれたらうれしい」


 そんな話をしていると、いつの間にか塾が入っているビルの前まで到着していた。『さぁ、また眠気と戦う時間が始まるぞ』となおは自分の頬をパシンと叩いて気合を入れてから、ビルの中に入っていくのだった。

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