92――ままならない


 目の前で一軒家が燃えて、消防車が放水して火を消そうと躍起になっている。野次馬が近づこうとするのを警察官が止め、現場のざわめきを必死に抑えようとしていた。


 そんな光景を物陰から見て、私は後ろにいる人物に向き直った。


「それじゃお兄ちゃん、そのバケツの水をわたしにぶっ掛けて?」


「……あー、ひとまず待て待て」


「待てない、早くしないと中にいるさやかちゃんが……」


 さやかちゃんとはこの家に住んでいる、小学校1年生の女の子だ。火元がどこかはわからないが、急に火が燃え広がって大きな火事になってしまった。外出していたさやかちゃんのお母さんが急いで家に戻ってきて、中にまださやかちゃんがいることを半狂乱になって告げる。消防隊が捜索のために中に入ろうとしたが、火の回りが早く手をこまねいて見ている状態だった。


「お前が行く必要はどこにもないだろう! 好き好んで大事な妹が火事の中に突入する手伝いをしたい兄貴が、どこの世界にいるってんだ!!」


 お兄ちゃんがすごく強い力で私の腕を引っ張って、そのままぎゅうっと両腕で胸の中に閉じ込めるように抱きしめてきた。伝わってくるお兄ちゃんのぬくもりに、私の中にある恐怖心がひょっこりと顔を出した。


「そりゃあ、私だって怖いよ。本当ならあんな風に燃えてる家の中になんて、できることなら入りたくない。でも今ならまだ間に合うかもしれない、さやかちゃんを死なせずに済むかもしれない。それができるのは、姿を消せる能力がある私だけなんだよ」


 私がそう言って『こうやって使うためにこの能力(ちから)に目覚めたのかもしれない』と呟くと、お兄ちゃんは『そんなの、まるで呪いじゃないか』と吐き捨てるように言った。それでも私の意思が固いのがわかって、そっと体を離すとバケツを手にとって私の頭のてっぺんから『バシャ―』と水を掛けた。


 まんべんなく自分の体が濡れたのを確認した私は、お兄ちゃんに『行ってくるね』と声を掛けてくるりと後ろに振り返って自分の姿を消し、燃え続けている家に向かって走り出した。





「はいカット! 消火お願いします、急ぎで!!」


 カチンコを鳴らした後で大声でそう言ったスタッフの言葉に、これまで手加減しながら放水をしていた消防隊員が消火モードに入ったのかキビキビと動き始める。


 失敗できない一発撮り。本物の家屋に火をつけて燃やすという強引過ぎる力技に、バブルが弾けたとはいえテレビ局の金銭感覚って庶民からはかけ離れているんだなぁと思う。とは言えさすがに新築を建てて燃やすことはできなくて、十数年前にドラマを撮った時に建てた家が放置されていたので今回使ったらしい。自社の広い屋外スタジオの中に建っているから火が燃え広がることはないし、一般の人たちに被害が出ることもない。


 管轄の消防署から一度はストップが掛かったらしいのだけど、うまいこと丸め込んだらしくていつの間にか消火作業をするということで、本物の消防隊員が撮影に参加する運びになったそうだ。何をどうしたらそうなるのかは全然わからないけれど、協力してもらえるならそれでいいやと私が考えを放棄したのは言うまでもない。


「すみれちゃん、大丈夫?」


 大きなバスタオルをバサッと掛けられて包まれながら衣装さんに聞かれて、私は『大丈夫です』とハキハキと返事をした。燃えている家からだいぶ離れた場所でカットが掛かったので、特に怪我もないし。感触的に下着までずぶ濡れな感じだけど、真夏だから風邪もひかないだろうから安心だ。


「竜矢くんは濡れてない?」


「ああ、俺は大丈夫です。すみれの頭の上からシャワーみたいに掛けたから、俺の方には水は飛んでこなかったですし」


 両手を広げて自分の服に異常がないことを表現する竜矢さんが年齢より幼く見えて、クスクスと笑ってしまった。私はさっさと着替えを済ますべく衣装のお姉さんに連れられるまま移動しようと思ったら、後ろから竜矢さんに声を掛けられる。


「あの、俺もついて行っていいですか?」


「……小学生の女の子がこれから着替えたりする部屋に一緒に行きたいって、竜矢くん正気?」


 ドン引きしているお姉さんにワタワタと慌てながら言い訳をする竜矢さんが、助けを求めるように私を見た。お姉さんは別に本当に竜矢さんがロリコンだと思っているわけじゃなくて、ただからかっているだけなんだけどね。いつも必死に言い訳するから、竜矢さんはおもちゃとしてお姉さん方からの人気が高いのだ。


 それはさておき、ひとつ絶対に訂正しておかないといけないことがある。私はクイクイとお姉さんの手を引いて、お姉さんの視線がこちらを向いたのを確認してことさらゆっくりと言った。


「わたし、中学生です」


「ご、ごめんなさい。知ってたんだけどね、無意識に口から出た単語だから間違ったのかな?」


 笑顔の裏にこめた抗議の意を汲み取ってくれたのか、お姉さんはちょっと慌てたように謝ってくれた。素直に言い間違いを認めてくれるなら、まぁ……あれ、無意識に出た言葉の方が本音だってよくいうよね。中学に入学してもう夏休みになったというのに、一緒に仕事をしているスタッフさんたちからは未だに小学生だと認識されているというなら由々しき事態かも。


「すみれちゃんの着替えと身支度が終わるまで部屋の外にいてもらうけど、ドアの前でぼんやり立っているつもり?」


「うわぁ、それじゃあまるで覗きか不審者じゃん」


 お姉さんたちからの連続攻撃にノックアウトされた竜矢さんは、『終わったら呼んでください』と言い残してトボトボと待機場所に歩いていった。他のスタッフさんたちにも伝わるように私が着替えに行くことを伝言してくれたお姉さんが、ワゴン車のスライドドアを開けてくれた。乗り込む前に局の人と何やら話している洋子さんと目が合った。


 ジェスチャーと口パクで『ひとりで大丈夫?』と聞かれたのだが、別に遠くにいくわけじゃないし大丈夫の意味をこめて右手の親指と人差し指で◯を作った。ちゃんと意図が伝わったのか洋子さんはひとつ頷いて、手をひらひらと振ってくれた。私も車に乗り込んでから手を振り返していると、お姉さんたちが全員乗り込んだのを確認して外のスタッフさんがスライドドアを力をこめて閉めた。


「でも無事に終わってよかったわね、火事の撮影。失敗できない一発勝負とか、局の人も無茶言うよね」


「ホントよねー、横で見てる私たちでもドキドキしちゃった。でも演者さんはもっとプレッシャーだったわよね、すみれちゃん」


 お姉さんたちがさっきの撮影について口々に感想を言った後、私の方に話を振った。当初はこの火事のシーンは模型を燃やして、それを実際の家屋みたいに撮影する予定だったらしい。でもキャスティング時のゴタゴタのことをなんとか煙に巻きたいテレビ局の上層部が、昔撮影のために建てて使った後は放置されていた家を今回の撮影のために燃やしていいと言ったそうだ。


 家って住まずに放置しているとあっという間に傷むらしい。それに加えてテレビの撮影だと重い機材が入ったり、たくさんのスタッフさんがあっちこっち移動するから内部は見た目以上にボロボロだったんだとか。


 だから今回は映像としては燃えている外の画だけ使用し、内部はセットを使い撮影用の煙幕とか赤やオレンジ色の光なんかで、燃えている様子をうまく演出するらしい。


「最初にこの話を聞いたときは燃えてる家の中で演技するのかと思っていたので、それに比べるとまだ気は楽でしたけど。でもプレッシャーはありましたね」


 いや本当に、外での会話シーンだけでよかったよ。煙と炎のそばで動き回って、もし事故でも起こったらと思うと怖いもん。私は特に運動神経が鈍いわけではないけれど、ヘンなところでハズレくじを引いているような気がする。そういうのって、どうやったら改善するんだろう。神社やお寺にお祓いしてもらいに行けばいいのかな? 今度時間がある時にでも、洋子さんに相談しようっと。


 更衣室で濡れた服を脱いで、ひとまず次のシーンの衣装に着替える。と言ってもさっきまで着ていたTシャツとスカートと色柄が違うだけで、ほとんど同じようなコーデなんだけどね。下着は私も着替えを持ってきていたけれど、衣装のお姉さんが新品のスポブラと揃いのショーツをプレゼントしてくれた。水色と青色の中間ぐらいの、この時代にしては珍しい色合い。空色って呼ぶのがピッタリな感じの、かわいい色だった。


「本当ならもっとかわいいブラと下着をプレゼントしたかったんだけど、このドラマだとすみれちゃん小学生役だから。撮影に入ってからずっとスポブラで胸を抑え気味にしてるもんね」


 平成の世で巨乳と呼ばれる胸に比べると小さいけど、この時代の小学生にしては大きく育ってしまったので調整のためにスポブラを着用するように言われている。学校でレースの本格的なブラを着けていたら、体育などで着替える時にすごく恥ずかしかった。最近は基本的にスポブラ派だから、特に苦はないんだけどね。


 服を着替えた後でしっとりと湿った髪を乾かしてもらい、また車に乗って撮影現場へと戻った。一応撮影現場にも仕切りを作って更衣室みたいなものを作ってくれてはいたのだけれど、そちらだと隙間もあるし女性は着替えにくいよね。だから男性の着替えと少し服を整える程度の調整に使われている。


 さっき脱いだ衣装はまた家の中に入って女の子を救出するシーンで使うので、洗濯してもらってそれっぽく汚してから着ることになっている。ただスタッフさんたちの話を聞く限り家を燃やした後片付けが長引いていて、今日はこれで撮影は終了になりそうとのこと。それが決定されるまでは待機なので、せっかく衣装に着替えてきたのにと思いつつも、さっき何やら話がありそうだった竜矢さんを呼んでもらうことにした。


 本当なら私から探して行くべきなのだけれど、スタッフさんが呼んでくると言ってくれたのでお言葉に甘えることにする。もう夕方の時間だからなのか、それとも結構な火が燃え上がっていたからなのかはわからないけれど、空はきれいな夕焼けでオレンジ色に染まっていた。スマホがあれば写真でも撮るんだけど、そんなものはこの時代にはないからね。竜矢さんが来るまで、のんびりと見上げて目に焼き付けておこう。


「お疲れ、すみれ」


 小走りに近寄ってきた竜矢さんに『お疲れさまです』と小さく頭を下げて、待機場所に設置されている椅子に腰掛ける。その対面に竜矢さんが座って、なんだか心配そうな視線をこちらに向けた。なんだろう? 台本通りの動きとはいえ私に水を掛けたから、風邪ひいてないかとか心配してくれているのだろうか。


「……すみれ、なんかこないだよりやつれてない?」


「ふぇっ!?」


 『なんでバレた?』と考えると同時に、言い当てられたことにびっくりしてヘンな声が出てしまった。この間決意してから食べる量を増やしたのだけれど、夏の暑さもあって増やした分以上に吐き戻してしまうようになってしまったのだ。あんまり頻繁だと食道とか喉とかを胃液で痛めてしまってもいけないし、特に喉は声がガラガラになることもあるらしいので現在は一旦食事量を元に戻している。


 どうやらさっきの演技で抱きしめられた時に、私の体がこの間よりもさらにほっそりとしていることに気づいたみたいだ。テレビに出演する人間として、あんまりガリガリ過ぎるのも視聴者に受け入れられにくいことは自覚しているので、なんとかしたいとは思っているのだけど如何ともしがたいのが現状だったりする。


 隠しても仕方がないので、私はありのままを竜矢さんに話した。撮影中はほとんど一緒にいるので、毎日食事も共にしている。私が頑張って意識して多めに量を食べているのも目の当たりにしている竜矢さんなのだから、太るならまだしも痩せるのは理解に苦しむのだろう。


 私の話を聞いて、表情に心配の色をさらに滲ませる竜矢さん。何か方法はないかとしばらく考え込んだあと、何かを思いついたように勢いよく顔を上げた。


「量を増やすと吐いちゃうんだから、量はそのままで高カロリーなものを食べたらいいんじゃないか?」


 竜矢さんの提案に、私はやっぱりそれしかないかとため息をついた。前世では痩せたいけど満腹感を得るために、お米の代わりにこんにゃくで作られた代替品を食べてる人も多かった。発想の転換で逆にカロリーが重いものを食べれば、体重は増えていくはず。ただ懸念として食べ過ぎて必要以上に太ったら本末転倒だから、慎重にちょっとずつ様子を見ながらにしなきゃだけど。


 この時代のダイエットってリンゴダイエットとか何か特定の物を食べ続けたりするものが多かったのに、こういう平成的な発想ができる竜矢さんをちょっと尊敬してしまう。私が思わずポロッと尊敬の念を示すと、竜矢さんは照れたように私から視線を外して頭をかいた。


 竜矢さん曰く、男性アイドルも女子よりは代謝がいいけど、食べるものには結構気を使っているらしい。満腹になりたい時は低カロリーなもので腹を膨らませるんだって。高校生ぐらいまでなら学校で体育の授業が必修だからいっぱい食べても運動で消費すればいいけど、竜矢さんみたいな大学生だと体育があるかどうかは学校によるからね。


 とにかく視野狭窄になっていた私にとっては踏ん切りをつけるアドバイスをもらえたと思う。『ありがとうございます、試してみます』と言う私に、竜矢さんは『じゃあ早速』とキャラメルの包装を半分だけ破いて私に差し出した。これはもしや、あーんというやつだろうか。男性の手から食べさせてもらうのはちょっと抵抗があったが、竜矢さんにはアドバイスしてもらったし我慢しよう。


 ちゃんと包装紙が残っている側を指でつまんでいるし、竜矢さんなりの気遣いに免じて口を開けるとコロンとキャラメルが転がり込んでくる。素朴な甘さに無意識に表情をほころばせると、何故か目の前の竜矢さんが口元を押さえて私から視線を外していた。『癖になりそう』とか小さく呟いていたけど、意味がわからずに思わず小首を傾げる。


 ちなみにこの日から何故かお姉さん方からチョコレートやらクッキーやらを食べさせてもらうことが増えて、撮影が終わるころには減っていた体重がほとんど元に戻っていたことは言うまでもない。

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