91――1学期の終業式
シンと耳が痛くなるくらい静かな教室の中で、私は先生と対峙した。彼が持つ茶封筒は、間違いなく先生が犯人であることを示していた。
「一体いつ教室に入ってきたんだ! いや、確かに俺が来た時には誰もいなかったはずだ。扉を開く音も足音さえも立てずに、どうやって!?」
先生は混乱をあらわにしながら、そうやって私を問い詰めてきた。でもそれに答える必要はどこにもない、私はことさら冷たい表情で先生に吐き捨てる。
「まさか先生が泥棒だったなんて、信じたくなかった。でもそうやって、給食費や習い事の月謝を盗んだ罪を教え子に擦り付けるなんて……最低!」
「はい、カット!」
監督から入ったカットの声に、演技モードだった私の感情が一瞬でフラットに戻る。前は感情を芝居に乗せた後はそれをしばらく引きずったりもしていたのだけど、最近できるようになった新技だ。これで撮り直しとかになった時に、前の感情のせいでNGが出たり表情に気持ちが出たりせずに最初からやり直せるようになった。
それにしても、今回止められた理由はなんだろう? セリフは間違ってないはずだし、棒読み演技にもなってないだろう。不思議に思っているのが表情に出てしまったのか、監督がメガホン片手にこちらに向かって話しかけてきた。
「すみれちゃん、いい演技だった。良かったんだけど、最後の最低ってセリフの前でもうちょっとタメが欲しい。細かいけど、1秒ぐらい足してほしいんだ」
「わかりました、もしイメージと違ったら遠慮なく止めてくださいね」
監督からの指示を踏まえた演技イメージを脳内で描きながら、最初の立ち位置に戻る。先生役の鈴木さんが、苦笑しながらこっちに話しかけてきた。
「すみれちゃん、ドンマイ。しかしこんな風にすみれちゃんみたいな子にキツく責められると、思わず本当に泣きそうになるよ」
「ご、ごめんなさい……あの、演技なので。本気じゃないですからね?」
「わかってるって。お互い本意じゃないシーンはストレスが溜まるから早いところOKをもらって、次のシーンに移ろう」
「鈴木さん……残念ながらこれでOKをもらってもカメラの位置を変更して、あと最低2回はこのシーンの撮影ですよ」
『そうだった』と項垂れる鈴木さんに苦笑して、姿勢を正した。そして『準備ができましたよ』と監督に視線を向ける。鈴木さんももう一度児童のカバンを漁る姿勢に戻って、監督からの合図を待っている。
「よーし、それじゃあテイク2行くぞ! よーい!」
カン、と甲高い音を空間内に響かせながら鳴ったカチンコを合図に、私は再び演技へと没頭していった。
仕事のゴタゴタとかトヨさんの体調とかふみかの不良との仲良し疑惑なんかに思いを悩ませていたら、あっという間に終業式になってしまった。ちゃんと学校にも行ける限り通っていたんだけど、どちらかというと記憶に残っているのは仕事のことばっかりだ。
期末試験に関しては学年1位をキープしている。少しなら順位を落としても多分大丈夫だとは思うのだけれど、この学費免除の説明を受けた時に聞いた『高い基準での成績や出席率』がどのくらいを想定しているのかがわからない。もしもその基準に満たないと判断されて免除がされなくなったら目も当てられないので、とりあえず基本的には常に1位を目指すことに決めたのだった。同じ学年には1位を目指して頑張っている子もいるかもしれないけれど、申し訳ないが私の学費のために真剣勝負させてもらう。
一応仕事の日は公休扱いにしてもらっているけど、以前会った学園長の態度を見ていると急に公休は出席と認めないとか騙し討ちされるかもしれないし。念には念を入れておかないとね。
「文化祭実行委員なんてやめておけばよかった、だって夏休みも何度か学校に来ないといけないんだよ!?」
この学校の文化祭は結構大きな規模で行われるらしくて、クラスの子がそんな愚痴を言っていた。それを聞いて、選挙管理委員会を選んだ私の選択は正しかったんだなぁと思った。現在の仕事の状況で通常の登校日以外で夏休みに学校に来るには、スケジュールが詰まり過ぎている。監督も私が夏休みに入ってからなるべくスピードを上げて撮影を進めたいみたいで、私も他の共演者たちも結構なスケジュール変更を余儀なくされている。減るわけじゃなくて、増える方で変更されるからみんな疲れた表情を浮かべていた。
生徒会選挙が行われる頃には、仕事が落ち着いていたらいいなぁと思わずにはいられない。そんなことを考えながら終業式後に美宇ちゃんをはじめ、クラスで仲良しの数人に声をかけて教室を出た。
「1学期がやっと終わったわね。お疲れ様、すみれ」
「ありがとうございます、洋子さん」
駐車場に車を停めて待っていてくれた洋子さんにねぎらわれたのが嬉しくて、思わずにっこり笑ってお礼を言った。中学生として学校に通うのは当然のことだけど、6月を過ぎてからの毎日は本当にスケジュールが過密過ぎてアップアップしていたのだ。自分が好きでやっている仕事だから本当ならこなして当然のことなのだと重々わかっている、でもその苦労をわかってくれて褒めてもらえると強い心の支えになるんだなぁと改めて思った。
洋子さんも私のスケジュール調整とか他の仕事との兼ね合いとか折衝とか、色々と忙しなく動いてもらっているもんね。いつも本当にお世話になってます。
ちなみに普段は一緒に登下校するはるかが隣にいないのも、新しい仕事に関連してのことだ。私のスケジュールに隙間がなくて新規のお仕事が受けられないから、クライアントに打診してはるかを『代わりにどうですか?』と事務所が売り込んで了承を得られた場合にのみ出演してもらっている。自分の意思で仕事から遠ざかっていたというはるかからのカミングアウト以降、前向きにレッスンも学校生活も頑張っていたはるかへの大きなチャンスになればいいなと思っている。
私としては仕事を譲るなんてつもりは全然なくて何をどうやっても引き受けられない仕事なのだから、誰かがこなしてくれた方がありがたいもんね。それがはるかだったら彼女的にも事務所的にもプラスになって両方とも得なのだから、一番いい形に収まっていると思う。
事務所の人も洋子さんからはるか自身が仕事を自分の意思で断っていたことを聞いて、ちょっと遠巻きというか『どうせまたやる気失くすんでしょ』みたいな感じで冷めた目で見られていた。でも最近は実力も目に見えて上がっているし仕事にも意欲的に取り組んでいることから、最近は特に冷たく当たられずに普通に接してもらっているらしい。
そんなうちの事務所の内情はさておき、現場につくと先に現場に入っていた竜矢さんが撮影を終えて休憩中だった。『おはようございます』と挨拶をしたんだけど、何やら彼はジロジロと私の体をあちこち凝視している。いやらしい感じではないんだけど、さすがにそんな風にジロジロと見られると恥ずかしいしちょっとだけ危機感を覚える。
「な、なんですか? 制服に汚れとかついてます?」
「いや、こないだから思っていたんだけどさ……すみれ、痩せてきてない?」
突然の指摘がグサッと私の胸に刺さる。くそ、目ざといな竜矢さん。この忙しさのせいなのか、確かに2キロぐらい減ってるんだよね。前世の太ってた頃の体重で2キロ減ったところで誤差だったんだけど、今の私だとウエストのサイズが目に見えて変わってしまう。自分のサイズはあらかじめ衣装さんに知らせてあるから、撮影の途中でサイズが変わると直してもらったり新しいのに交換してもらったりとお手間を掛けることになる。この忙しい時に手間を掛けさせてしまうのは、正直避けたいのでこっそり元に戻したかったりする。
これでも一生懸命食べてるんだけどなぁ、これからさらに暑くなるから普段以上に食が細くなるとちょっと大変かもしれない。こうなったら量よりカロリーを重視するしかないのかも、でも脂っこいのはちょっと勘弁してほしいかな。
竜矢さんには『そんなことはないですよ』と強引に誤魔化して、衣装に着替えてメイクをしてもらったりして身支度を整える。するとさすがプロ、竜矢さんがわかった違和感を見逃すはずがなくシャツやスカートを不自然にならないように手を入れてサイズを合わせてくれた。
「特に体調が悪いとかじゃないのなら食べてれば戻るでしょうし、しばらくはこんな感じでその都度対処するわね。すみれちゃんに太ってもらえるようなおやつ、差し入れしなきゃ」
「というか、すみれちゃんは痩せすぎなのよ。でもこういう子を太らせるのが楽しいのよね、太るって言っても健康的な範囲だから心配しなくてもいいわよ」
衣装さんとメイクさんが、そんなことを楽しそうに私に向かって言った。まぁふたりともスタイルいいし、効果的な筋トレや運動も教えてくれるみたいなので試しに言う通りにやってみてもいいかもしれない。私としてももうちょっと成長したいというか、背を伸ばしたりしたいもんね。
今までは私の意見を尊重して小言のように『もっと食べないとダメだよ』と言ってくれる人はいたけれど、強引に手を引っぱってやらせようとするタイプの人はいなかった。そろそろ前世のトラウマを払拭して少しずつでも育っていかないと、役者としてはすごく使いづらいニッチな存在になってしまうかもしれない。
なんで突然こんなことを言い始めたかというと、この間外部のスタッフが数人入った時に私の陰口みたいなことを言っていたのを聞いたんだよね。まるで前にはるかから聞いた状況の再現みたいな感じだったんだけど、残念ながら私ははるかみたいに純粋じゃないのでそんな陰口では全然傷つかない。でも言ってることには『確かにそうだよね』と納得できた。
もちろん全部じゃないよ、他人の身体的特徴を馬鹿にしたり笑ったりするのは人として最低だとは思う。でも私がこのまま背もあんまり伸びずに胸とかお尻とかだけが大人のものへと近づいていったら、確かに使いづらい役者になってしまうんじゃないかな。そのことに私はやっとのことで危機感を覚えた、これまでもちゃんと食べないとと周囲の人たちは言ってくれていたのにね。
嫌な言葉を聞いたけどはるかに偉そうにアドバイスした以上、私も彼らの言葉の意味を視点を変えて考えることにした。そして重たい腰をようやっと上げて、私の食事状況の改善を遅まきながらすることにしたのだ。
前世から引き継いでいる太る恐怖というかトラウマについても、もう10年以上この体と一緒に生活しているのだから、節制やカロリーを消費する方法もわかってるはずだ。特にストレスの元である家族から離れてからもうずっと、食に対しての欲はそれほど大きく膨らんでいないし。そろそろ私も自分自身の感性とか考え方をアップデートする時が来ているんだと思う。
自分でやると決めたのにそれでもなかなか及び腰になって一歩を踏み出せずいるので、利用するようで申し訳ないのだけれど最初の一歩目を彼女たちに手伝ってもらおう。なんとかこの夏休み中の撮影の間に、もうちょっと食べて体中に栄養が行き渡るように習慣づけたい。
そんな決意を胸に、私はメイクさんが差し出してくれたクッキーに早速かじりついた。あ、しまった。これから撮影なのに、クッキーの粉が口元についてたらマズイよね。
メイクさんと衣装さんに準備が終わったということを確認して許可をもらってから、備え付けの給湯室へと足早に移動して歯磨きとうがいをしたのは言うまでもない。
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