90――ふみかが心配なすみれ


 雨で濡れた靴下のせいで転ばないように気をつけながら、音を立てないようにして廊下を歩く。


 そんな私の腕の中には少しだけ濡れてしまった猫が、なにやら気だるげな表情で抱かれていた。


「こら、やよい!」


 突然飛んできた叱責に、ビクリと体を震わせる。恐る恐る声の方向を見ると、やよいの兄が腕を組んでこちらを憮然とした表情で見ていた。


「その猫はどうしたんだ? いや、それよりもずぶ濡れじゃないか。とりあえず後で話は聞くから、先に風呂に入ってこい」


「うん……おにーちゃん、ごめんなさい。この子も濡れてるから、拭いてあげてほしい」


 やよいが差し出した猫は、子猫と呼ぶには少し成長した猫だった。それを受け取ると、じわりと湿った感触に兄は眉を潜めていた。


「風邪ひかないように、ドライヤーも掛けてあげてね。あ、あんまり近くですると怖がるかもしれないから、少し離さないとダメだよ」


 くるりと兄の方を振り返った私はそう言って、兄の返事を聞かずに廊下を早足で歩いていく。その後ろで竜矢さん演じる兄が、顔の前に猫を持ち上げて『うちの妹、人使いが荒いんだよ』と愚痴るように言ったところで声が掛かった。


「はいカット! チェック入ります!!」


「監督! すみれちゃん、着替えさせてもいいですか?」


「……まぁ多分オーケーを出せるからいいか。ここクーラー効いてるし、風邪でもひかれたらスケジュールがさらに遅れるからな」


 衣装さんが監督に聞いてくれて、オーケーが出たのでササッと衣装室に連れて行ってくれた。水気をバスタオルで拭って、ドライヤーで髪を乾かしてくれる。次のシーンではパジャマで登場するので、センターにクマのシルエットが付いている白いシャツと白とピンクのストライプが印象的なズボンを身につける。


 軽くメイクを直されてからスタジオの外に作られたたまりに行くと、先に身支度を整えてコーヒーを飲んでいた竜矢さんが座っていた。私が声を掛ける前に近づいてくる私に気がついたのか、手をヒラヒラと振っている。


「すみれ、おつかれ。そのパジャマ可愛いね、よく似合ってる」


「お疲れさまです、竜矢さん。ありがとうございます、ところで猫ちゃんはどこに?」


 私がキョロキョロと首を振って猫を探すと、竜矢さんが指をさして教えてくれた。猫を連れてきたペットタレントを扱っている事務所の人が、水と餌をバタバタと歩き回るスタッフの邪魔にならない隅っこの方であげていた。


 まだ小さいのに自分の食い扶持を自ら稼いでいるタレント猫の世知辛さに、なんとなく世の中の厳しさみたいなものを感じてしまう。よく躾けられていてとても大人しいし、指示されたタイミングで鳴いたりもできるんだからすごいよね。


「せっかく褒めたのに、ツレないね……そういうイメージは全然ないけど、すみれって服とかアクセサリーは『どんなものでも自分には似合って当然』って思ってたりする?」


「ええっ、わたしってそんな自信家に見えます? 全然そんな風に思ったことはないですよ。もしこの服がわたしに似合ってるんだとしたら、衣装さんたちのセンスがいいからですし」


 専門家が衣装を用意してくれているのだから、そりゃあ似合う物を選んでくれているだろう。普段着すらスタイリストさんが私に似合うと思った古着を送ってもらっている身としては、そこには全幅の信頼しかない。


 私が答えてもう一度猫に視線を向けると、餌と水を飲んで満足したのか熱心に毛づくろいをしていた。その姿が前世で飼っていた愛猫を強く思い出させる。


「……いいなぁ、猫飼いたい」


 おっと、思わず心の声がポロリとこぼれてしまった。慌てて口を手のひらで抑えるけど、一度出てしまった言葉がなかったことにできる訳もなく。会話のネタとして認識したのか、竜矢さんが話に乗ってきた。


「いいじゃん、猫飼ったら教えてよ。遊びに行くから」


「私が住んでるのは女子寮なので、男子は入れませんよ。そもそも寮で飼うのは難しいでしょ、日中は学校に行ってて帰りも仕事で夜遅くなることもあるし。猫が苦手な人もいるかもですし」


 うちの寮だと住んでるのなんて私とはるかと愛さんしかいないのだから、頼めば飼えそうな気はするんだけどね。ただトヨさんの体調が思わしくなくて、このところずっとお休みしているのが心配だ。私も仕事がない日の放課後とか休みの日なんかに気合を入れて家事をしているけれど、やっぱり手が届いていない部分が多くある。掃除をしてもしばらくしたら埃がすぐに積もってしまう様子はまるでイタチごっこで、こんな状態でさらに動物を飼ったら抜け毛とかで大変なことになりそう。


 本邸の掃除もお客さんが足を踏み入れるところ以外は放置でいいと、家主のあずささんには言われていてその通りにしている。あずささんは最近忙しいみたいで、ほとんど家にいないからできる芸当だ。あずささんとトヨさんは長い付き合いらしいので躊躇うのはわかるけどトヨさんが復帰するまでの代理を入れるとか、いっそ新しい人を入れるとかの打開案が欲しいところ。


 いや、私だってそりゃあトヨさんとは東京に出てきてから年単位のお付き合いだし、いなくなるのは寂しいけどね。でも体の方が大事だし、下手に無理して寝たきりになったりしたら目も当てられないもの。早くあずささんの仕事が落ち着いて、決断してほしいところ。


 そんな話をしていると、スタジオから洋子さんが出てきてこちらに近づいてきた。手には私の水筒と、リュックサックを持っている。チェックが長引いたり何らかの理由で待ち時間ができそうなら自分のところに持ってきてほしいと、私が洋子さんにお願いしていたのだ。


「休憩、長引きそうですか?」


「さっき撮った分はOKだったんだけど、機材トラブルが起こってね。ちょっと時間がかかりそうよ」


 私の問いかけに答えながら、洋子さんは手に持った荷物を私に渡してくれた。水筒の中身は今日の朝にやかんで煮出したほうじ茶だ。夏だし自動販売機の飲み物ってつめたいのばっかりになっちゃってるので、保温性能のある水筒にあったかいのを入れてきたのだ。


 両手で蓋代わりのコップを包むように持ちながらひと口飲むと、思わずホッとため息が出る。前世では冷たい飲み物を好んで飲んでいたけれど、女子として生活している現世では季節問わずに温かい飲み物を好んで選んでいるような気がする。


 リュックの中には勉強道具や読みかけの本なんかが入っているけれど、休憩時間がどれくらいあるかも読めない状況なので、両方ともあんまり気乗りがしない。始めてすぐに撮影に呼ばれたら、集中できないもんね。


 ガサゴソとリュックの中を物色していると、今朝郵便受けに届いていた手紙をそのまま入れて持ってきたことを思い出した。宛名がちゃんと自分宛だということは確認したんだけどね、他の人への手紙を持ってきたら大変だし。


 キャラものの封筒の裏を見ると、なおの名前が書かれていた。普段ならなおとふみかのふたり分の手紙を連名で送ってくれるのだが、今日はなおだけでふみかの名前がない。何かあったのかなと不安になりつつ、封筒の端をハサミで切って中の便箋を取り出す。


 封筒と同じキャラの便箋を広げると、隣に立っていた洋子さんが『なおちゃんとふみかちゃんから?』と聞いてきたので『なおからの手紙です』と答えた。横から竜矢さんが洋子さんに『なおちゃんって誰です?』と尋ねているのを聞きながら、便箋を広げて手紙を読み始める。


 確か前の手紙は入学して少し経った頃で、なおはバレー部でふみかは文芸部に入部したと書いてあった。前世であの学校を卒業した身としては、基本的にはみんな大人しくて平和な学生生活を過ごせる学校ではある。しかし前世のなおが関わって妊娠と引っ越しをする羽目になったように、ガラの悪い生徒も一部存在する。


 一度他校の生徒たちが何台もの原付バイクで学校に乗り込んできて、そのまま校内を走り回ったこともあったっけ。あの時は怖かったのもあったけど、なによりもびっくりしたのを覚えている。あとは体育館裏にタバコとライターが隠されていたり、その火が原因だったのか体育館が燃える火事があったり。その手のトラブルの思い出はいくつかある。


 そんなことを思い返しながら中身を読むと、なんとなおではなくふみかが不良の男子生徒と急接近していて心配だと書かれていた。


「……えっ、なおじゃなくてふみかが?」


 思わずそんな言葉が、私の口から無意識にこぼれ出ていた。現世でふたりと仲良くなってから、ずっと前世でのなおのことが引っかかっていた。だから悲しい結末が二度と訪れないように気を配っていたつもりだったのだけれど、まさかふみかの方に不良が絡んでいくとは思わなかった。


 なんだろう、やっぱりおとなしそうな外見に見えるからだろうか。長く友達付き合いをしていると、芯がしっかりしてるし意外と頑固なところもあっておとなしいだけじゃないとわかるんだけどね。


 ふみかのことが心配だと書かれているところを見ると、なおは前世とは違ってバレーに青春を懸けるスポーツ少女になっているみたいだから、そちらはひと安心かな? ふみかも軽はずみに不良と付き合うような子ではないと思っているけれど、人を好きになったら付随している色々が見えなくなってしまうと聞くからね。


 初対面は偶然だったとしても、その人に興味がなかったら何度も立ち話したりしないはず。でもなおからの手紙には、放課後や昼休みに中庭で話しているところをたまに見ると書いてある。ということは相手に呼び止められているとしても、立ち去らずに話に付き合っているということは顔見知りぐらいの立場なら構わないと受け入れている感じもするんだよね。


 『うーん』と眉根を寄せてどうするべきかと悩んでいると、不思議そうに洋子さんと竜矢さんがどうかしたのかと尋ねてきた。恋愛と決めつけるのは早すぎるけど、私にとっては不得意分野なのは確か。せっかく聞いてきてくれたんだし、相談してみようかと軽く事情を話してみることにした。


「へぇ、あのふみかちゃんがね。思春期だとちょっと悪い男の子の方に惹かれやすいものだけど、あの子は真面目そうだからそんなに心配しなくてもいいんじゃない?」


「でも真面目な優等生ほど、不良にコロッと転ぶっていうのはよく聞く話じゃないですか? うちの事務所でもジュニアが不良をテーマにしたグループを組んでますよ」


 洋子さんが私の頭を撫でながら言った言葉に、竜矢さんが反論とまでは言わないけれど持論を述べた。ダニーズ事務所にもそういう不良っぽいグループがあるんだね、初めて知った。


「……すみれは? すみれもそういうちょっと悪い感じの男に惹かれたりするのか?」


 竜矢さんから突然そんな質問をされて、私は思わずブンブンと首を横に振った。そんな予定は今のところまったくないけれど、もしも誰か恋愛関係になるのならそんなトラブルの元になりそうな人は選びたくない。そうだなぁ、もしも私が誰かとお付き合いをするなら……。


「わたしなら、外見よりも内面を重視したいです。見苦しくないくらいの身だしなみができて、歳を重ねても浮気とかせずにお互いを尊重しつつ長年一緒にいられる……そんな人がいいかもしれないですね」


「……外見よりも中身か、すみれらしいな」


「理想的だけど、そんな人は見つけるのがすごく大変よ。すみれの前にピッタリの人が現れるように、あちこちの神社やお寺でお願いしておくわね」


 聞かれたから思いつきで話しただけなのに、なんだか思ったよりもふたりに真剣に受け取られてしまったらしい。竜矢さんは何やら頷きながら同意してくれて、洋子さんは神社やお寺にお参りした際にお願いしてくれるみたいだ。というか私が言ったような男性って、神頼みしなきゃいけないほど希少なのだろうか。女性から見た男性の印象の悪さに、元男性としてはちょっと居心地が悪くて身じろぎしてしまう。


 それはさておき。最終的にはふみかの意思が大事だけど、一応私からも注意を促す手紙を送っておこうと思う。あとなおにも念の為に、無理のない範囲でふみかの行動に注意しておいてもらおうかな。近づき過ぎて結局最初の懸念どおりになおが不良とくっついてしまったら元の木阿弥になるので、さりげなくでいいからと念押ししておかないと。


 前世の出来事に引っ張られすぎていると自分でも思うけれど、なおとふみかにはできれば平穏で幸せな生活を送って欲しい。私が何もしないことで悪い方向に進んでしまったら、きっと一生後悔するだろう。


 できることから少しずつ、ほんの少しの影響しか与えられなくとも、自己満足であっても構わない。私はそんな風に決意を固めながら、リュックからルーズリーフを取り出して手紙の下書きを書き始めるのだった。

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