閑話――ふみか、不良に出会う


 なおとふみかが地元の公立中学に入学して、2ヵ月ほどが経った。すみれがいない中学生活は寂しさを感じるけれど、彼女が東京へ引っ越したのは小学校3年生の夏休み明けだった。


 さすがにすみれのいない学校生活にも慣れてしまったけれど、ここにすみれがいればもっと楽しいのにと思わない日はない。


 新入生のために開かれた部活紹介などの学校行事もひとまず落ち着き、初めての中間テストをなんとかこなした頃だった。ふみかのクラスは次の授業が音楽だったため、移動する必要があった。ちょうどその日に鍵閉め当番だったふみかは、全員が教室を出た後で前後にある引き戸に鍵を掛けてから音楽室に向かって歩き出した。


 親友のなおとは同じA組になれて、引っ込み思案なふみかはとても嬉しかった。ただなおはバレー部、ふみかは文芸部と活動時間が全然合わない部活に入部したので、小学校の頃よりは一緒にいる時間が減ってしまった。ふみかにはすみれから頼まれた密かな任務があるためできれば一緒の部活に入りたかったのだけれど、見学に行ってそのハードさを目の当たりにして自分には無理だと悟ってしまったのだ。


(すーちゃんも無理に動かなくてもいいって言っていたし)


 心の中でそんな風に言い訳みたいにつぶやいて、ふみかは小さく右手を握った。両手で音楽の教科書とアルトリコーダーを抱え直して、少し早足で渡り廊下へと向かう。


 音楽室は全学年の教室や職員室がある本校舎ではなく、理科室や視聴覚室などが集まっている別棟にあった。そこに行くためには2階にある渡り廊下を通る必要があるのだ。


 1階まで降りて別棟に渡る方法もあるのだが、今日は雨なので上履きを濡らしたくない。それに回り道をしていると、授業が始まってしまうぐらいには時間も差し迫っていた。


 何故ふみかがそんなことを考えたのかと言うと、何故か渡り廊下の中央で寝転んでいる上級生がいたからだ。ご丁寧に頭の下にクッションを置いて枕代わりにして、本格的にくつろぐスタイルになっている。金髪に染められた髪を見た時、ふみかの脳裏に不良という単語が浮かんだ。


(ああ、こういう人がすーちゃんがずっと言ってた不良なんだ)


 ふみかがすみれに頼まれたことというのが、実はこの不良という人種に関わるものだった。『なおに不良を近づけないように見張っていてほしい』と入学前に届いた手紙にも書かれていて、自分たちの周囲に不良なんていないのにとふみかは不思議に思っていたのだ。


 この学校には周囲の小学校からも生徒が集まってくるため、今まで見たことのない不良な人たちも入ってくるのだろう。普段から『あの中学校はガラが悪いから』と言っていたから、すみれは不良がいる可能性があると知っていて、何かと周囲から影響を受けやすいなおのことを心配していたのかもしれない。なおのおばさんも髪を染めているが、明るい茶色なのできっとあれは不良的な髪染めではなくおしゃれなのだろうとふみかは判断した。


 育ちの良いふみかとしては生で見る不良の男子生徒を見て、とても不快な気持ちになった。何故なら彼が寝ているせいで、ふみかは音楽室へ行けないからだ。踏みつけて通り過ぎたいと思う気持ちを抑えつつ、なんとかして彼と関わらずにやり過ごす方法を考える。そもそも引っ込み思案なふみかには、そんな方法は絶対に選べないのだけれど。


 不良は中学生にしては長身とはいえ、この広い渡り廊下すべてを塞いぐほどではない。足と壁の間には隙間はあるけれど、そのまま通り過ぎるにはちょっと狭いかもしれない。助走をつけて彼の体の上をジャンプして飛び越える方法を思いつくけれど、運動神経がほんの少しだけ悪いふみかには足を引っ掛けて転ぶ自分の姿しか想像できなかった。


「……あの、すみません。ここを通りたいのですが」


 時間がないことへの焦りが、普段よりもほんの少しふみかを大胆にさせた。小柄な中学1年生のふみかでなくとも、身長が高くて髪を金に染めている上級生の男子に話しかけるのは怖いだろうに。なんとふみかは彼に声を掛けたのだ。


「……あぁ? 勝手に通ればいいだろうが、いちいち声掛けんな」


 勇気を出して声を掛けたふみかに、男子生徒は鬱陶しそうにそう吐き捨てた。鋭い目をさらに細くしてふみかを睨む男子生徒にビクッとして一瞬後ずさったふみかだったが、理不尽なことを言われたと脳が理解すると怒りがふつふつと湧き上がってきた。


 でもふみかの冷静な部分が勝手に通っていいと相手から言われたのだから、どんな方法を選んでもいいはずだとささやく。そうかと言ってさすがに踏みつける勇気はなかったが、ジャンプして飛び越えるぐらいはしてもいいような気がしてきた。もしそこでふみかが転んで不良を踏みつけてしまっても、それは事故だし勝手に通れと言ったのは向こうなのだから問題はなさそうだ。


 くるりと後ろを向いて助走に必要な分だけ戻ると、ふみかはもう一度前を向いてタタッと走り出した。近づいてくる男子生徒の体を踏んだり躓いたりしないように、なんとか直前にピョンとジャンプして無事に飛び越えて着地する。


「おい、何を勝手に俺の体の上を飛んでんだよ」


 うまく飛び越えられたことに『むふー』と息を吐いて自慢気に微笑むふみかだったが、後ろから無粋に声を掛けられてムッとした表情で振り返った。勝手に通れと言ったくせに、相手は何やら怒っている。彼の気持ちが理解できなくて、ふみかは不思議そうな表情で小首を傾げた。


「だって、勝手に通れって言った……」


「言われたからって他人の体の上を飛ぶかよ、普通? お前、真面目そうな格好ナリしてんのに馬鹿なのか?」


「……学校の渡り廊下で寝てる方がバカだと思う」


 相手は不良だし先輩なのだろうが、もはやふみかは丁寧語すら使う気も起こらなかった。なんというか言ってることが無茶苦茶だし、関わるのすら時間の無駄なように思える。


 馬鹿にされたのだから思ったことを言い返して、それを聞いた相手が鼻白んでいたのだがそれを無視して、ふみかは踵を返して音楽室に向かおうとした。しかし言われっぱなしが気に食わないのか、不良は素早く起き上がってふみかの小さな肩を掴んだ。その力が強かったのか、痛みでふみかの表情が歪む。


「お前に何がわかる!? 入学したばかりでこないだまで小学生だったお前に!!」


 突然大声を出した不良に、ふみかは驚きでビクリと体を震わせた。それが伝わったのか、不良はふみかの肩から手を離して『何言ってんだ、俺は』と自嘲するように呟いた。どうやらふみかとしては思ったことをつぶやいただけだったのだが、それが相手の心の柔らかいところをガリッと引っかいてしまったらしい。


 怒鳴られたり肩を掴まれたりしている割に、ふみかは目の前の不良が特に怖いとは思わなかった。それは多分、怒鳴った彼の言葉への返事を持っていたからなのかもしれない。


「……自分の気持ちは、言葉にして口に出さないと一生わかってもらえないんだって。何も言わないのにわかってもらえないのは当たり前、だって他の人の気持ちなんて普通の人はわからないから」


 まっすぐ不良の目を見て、ふみかは言った。背の高さが結構違うから、ふみかとしては結構頑張って見上げて彼の顔を見ている。まるで言葉が染み入るのを待つぐらいの間が空いて、不良は小さく笑った。


「お前それ、誰かの受け売りだろ」


「……大事な友達の言葉」


「そっか。そうだよな、そりゃあ言わないとわかんないよな。エスパーじゃねーんだから」


 何やら納得したように言う不良を見て、ふみかは『やっぱりすーちゃんはすごい』と内心でふんふんと鼻息荒く興奮していた。言われた状況はおぼろげにしか覚えていないけれど、すみれに言われた言葉をしっかりとふみかは覚えている。


 きっとすみれなら宝物のようにふみかの中に大事にしまい込むよりも、その言葉を必要としている人に伝えた方がきっと喜んでくれるだろうとふみかは信じている。


 そんなふみかの大事な言葉をもらった不良は、さっきよりも険の取れた表情でふみかの頭に手を伸ばした。そしてポンポンと軽く2回ほど撫でてから、その節くれ立った大きな手が離れていく。


「次の時間、音楽なんだろ? 早く行けよ、遅れるぞ」


 ふみかとしては『妨害していたのはそっちなのに』と憤慨したい気分だったのだが、ついにチャイムが鳴り始めたのでその場に不良を残して小走りで音楽室へと向かった。ドアを開けるとまだ音楽の先生は来ておらず、どうやら遅刻は免れたようだとふみかは安堵のため息をついた。


 先に来ていたなおに『遅かったけど何かあった?』と心配されたのでたった今あったことを全部話してしまいたかったのだが、なおの性格から言って不良のところに文句を言いに行きそうだったので慌てて口をつぐむ。


 先生が来て音楽の授業が始まり、そして終わりのチャイムが鳴る頃には不良とのことはすっかりふみかの頭の隅っこに追いやられていた。その記憶が思い出されるのはいつの日か、その日が割と近いことをふみかはもちろん知らない。

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