87――洋子さんからの相談事


 姉からの電話があった翌日の朝、部屋から出ようとドアを開けると廊下にパサリと手紙が落ちた。おそらくだけど、ドアの隙間に挟まっていたのだろう。


 拾い上げて手紙を見ると、『すみれへ』と達筆な筆文字で書かれていた。この寮でここまで上手に筆ペンで文字を書けるのは、あずささんとトヨさんしかいない。トヨさんは昨日は夕方には帰宅していたし、わざわざ手紙で伝えるような用事はないはず。夜中に手紙をこんな風に挟み込めるのはあずささんしかいないと思う。


 それにあずささんからなら、こうして手紙をもらう心当たりもあるしね。


 実ははるかとの勉強会で母宛の手紙を書いた後、部屋に戻ってからあずささんへの手紙を書いていたのだ。内容としては姉から電話があったことと、その会話の内容。私は姉の要求を全部断って、母への報告の手紙を書いたので登校中に投函する予定だということ。もしかしたらあずささんがこの件を知って、母へ電話連絡をするかもしれないと思い先んじて手紙を書いたこと。


 まずは姉が両親に正直な気持ちをぶつけるべきだと思うし、両親もいつまでも根本的に姉だけが家族で浮いてしまっている状態を放置してきたツケを払うべきだろう。だからもしもあずささん宛に母から自発的に連絡をしてきて、アドバイスを求められた時にだけ何か声を掛けてもらえるとありがたいという旨を書いた。


 正直なところ、私は現在のあずささんと母がどれくらい交流しているのか知らない。でもあずささんのところにお世話になると決まった際の話し合いを思い返すと、何かしらの交流があるんじゃないかな。だから失礼だとは思ったのだけど念のために手紙を書いて、深夜に本邸のあずささんの部屋のドアに挟んだのだった。


 こんな早朝に返事が戻ってくるなんて、あずささんはいったいいつ寝ているのだろう。そんな疑問が頭をよぎったけれど、まずは中身の確認だ。私は自分の部屋に引き返して静かにドアを閉めた後、ハサミで手紙の封を切って中から便箋を取り出した。


 『昨夜は大変だったわね、お疲れ様』というねぎらいの言葉から始まった手紙は、終始私への気遣いに溢れていた。今のところ特に自分から母への助言を行うつもりがないことや、もしも問題が起こった場合には私を預かっている保護者として最大限できる対策を取ることを約束してくれていた。


 いや私としては、そんなに大事にするつもりはないんだけどね。多分あずささんとしては姉が起こした何かしらで私が芸能活動ができなくなったりするようなことが起こった場合に、すぐに対処ができるように準備をしておくという意図なのだろう。今回の姉の行動だって私にとっては寝耳に水というか、全然予想だにしなかったものだったからね。何が起こるかわからないからこうしてあずささんに話を通して、万が一の備えをしておくというのは不測の事態に対して必要なのだと思う。あと、心の準備もね。


 それにしても……しばらくの間、保護者としての必要事項の連絡と季節の折に送られてくるお中元やお歳暮のお礼以外、あずささんはうちの母と連絡を取っていないという話には驚いた。


 でもよくよく考えると納得かな。あずささんが自分から連絡する必要があるのは、私になにかがあった場合だけだろうし。それ以外には自発的に連絡をする理由は全くないからね、ここに入ると決まったあの日もあずささんは『話したいことがあったら連絡してきなさい』と母が相談したいことがあれば話を聞くというスタンスで告げていた。


 まぁ母の性格を考えるとあずささんに何度か相談をしてみたけれど、その返答を受け入れるかどうか以前に理解できなかったんじゃないかな。あの人の判断基準は自分だけであって、他人に対する想像力や理解力が著しく欠如しているから。自分には理解できない考え方だと思ったら、理解しようとする努力もせずに『頭おかしいんじゃないの?』とか『そんな考え方してるのはお前だけだよ』とか前世でも普通に言われたし。さすがに自分の子供以外にはもっと当たり障りのない言葉を使っていると信じたい。


 理解のできない話を聞いても無駄だしと、母の方から連絡しなくなって疎遠になったのだろう。私の想像でしかないけれど、多分真相からそう離れていないんじゃないかな。


 封筒に手紙を戻して、机の引き出しの中にしまう。母への手紙をポストに投函したらこの件でそれ以上私にできることはない。本当にお願いだから両親には姉の手綱をちゃんと握るか、もしくはちゃんと言い聞かせてほしい。さっき母のことを散々心の中でこき下ろしちゃったけど、親としてやるべきことをしっかりやってほしいね。


 とりあえず気持ちを切り替えて部屋を出て、朝ごはんを手早く作る。はるかと愛さんと3人で食事をした後、今日も洋子さんの車にはるかとふたりで乗せてもらって登校する。途中でポストのあるところで停めてもらって、手紙を投函することも忘れない。


 とりあえず洋子さんにも昨日のことを話しておいたほうがいいと思うので、放課後に時間を取ってもらえるようにお願いした。都合よく今日は1日予定がなんにもないフリーの日だから、話が長くなっても大丈夫だものね。私がそう言うと、洋子さんの方も私に話があると意外な返事がもどってきた。


 何の話なのかなと思って聞いてみても、『放課後に話すわ』としか返ってこない。今までもこうして話があると言われたことはあるけれど、その時は洋子さんは何の話なのか教えてくれていたのに。よっぽど話しづらいことなのかと、ちょっと不安になる。


 そんな風にずっと洋子さんの話について考えていたら、放課後まであっという間だった。はるかと合流して洋子さんの車に乗り込み、事務所に向かう。


 途中ではるかを寮の前で下ろすのかと思ったら、次のオーディションの資料を渡さないといけないから一緒に行くんだって。私と洋子さんの話が終わるまで、資料を読み込んでもらおうということらしい。


 事務所に着くと洋子さんは自分の机からA4サイズが入る大きさの茶封筒を持ってきて、はるかに手渡した。はるかと一緒に中を覗き込んでみたら、ホッチキスで留められたコピー用紙の束がふたつほど入っていた。オーディションで演じる役の設定資料と台本の一部かな?


 はるかは早速打ち合わせスペースで資料の確認を始めたので、私と洋子さんは個室の小さな会議室へと場所を移した。長机を挟んで向かい合わせで座ると、洋子さんが『どちらから話す?』と視線で尋ねてくる。


「洋子さんの話って、良い話ですか? それとも悪い話?」


「……私としては、良い話だと思うけど」


 ふむふむ、と私はひとつ頷いた。私の方は昨日の姉からの電話の話だし、悪い話だよね。だったらこちらの話からして、洋子さんの良い話を最後に聞いた方が気分がいいんじゃないかな。


 私がそう言うと洋子さんは『じゃあすみれからどうぞ』と水を向けてくれたので、昨日の夜に姉から電話があったことを話した。内容を話していくと、机の上で握りしめられた洋子さんの拳がフルフルと震えて、お金を要求されたところでバァンと机を思いっきり手のひらで叩いた。突然のその行動と音に私がびっくりしていると、洋子さんも衝動的な行動だったのか赤くなった自分の手を痛そうに擦っている。


「いたた……改善されてないどころか余計に悪くなっているじゃないの、あいつ。ご両親は一体今まで何をしていたのかしら」


「それはわたしもそう思います」


 洋子さんは姉のことを『松田すみれの姉』とは認めたくないらしく、あいつとかあれとかそんな風に呼んでいる。間髪入れずに同意したことで私自身も姉の横暴に憤っていると受け取ったのか、洋子さんは逆に自分自身の怒りのトーンを落とした。


「そうね、本当に怒りたいのはすみれの方だもの。それなのに私の方が怒っちゃったら、すみれも自分の気持ちを出しにくいわよね」


「いえ、洋子さんがわたしのために怒ってくれているのは素直に嬉しいです。でも、母への報告の手紙はもう出しましたし。あずささんへもお手紙で事情を説明して、何かあれば全力で対処してくださると言ってもらえました」


「すみれったら、相変わらずソツがないわね。まぁいいわ、ちゃんと報告してくれてありがとう。あずささんと連携して、何かあれば対処します。その方法はこちらに任せてもらいますけどね」


 その洋子さんの言葉に何やら色々な想いがこめられているように聞こえて、ちょっとだけ背中にゾクリと悪寒が走った。お姉ちゃん、今回が本当に最後のチャンスかもしれないよ。次にこっちにちょっかい出してきたら、多分かなり痛い目に遭うかもしれないからちゃんと立ち直った方がいいかも。


「わたしの話はこれで終わりなんですけど、次は洋子さんのお話を聞かせてもらってもいいですか?」


 そう言って話をすると、さっきまでは怒りで頬を赤く染めていたのはそのままに、何やらもじもじとし始めた。なんだろう、中村さんと何かあったのかな?


「実はね、あの……すみれも知ってる、俳優の中村健児さんとお付き合いしてて」


「ええ、はい。知ってますよ、『CHANGE!』の撮影がきっかけだったんですよね」


 私がそうサラッと言うと、洋子さんは顔を真っ赤にして『なんで知ってるの!?』と大きな声で言って立ち上がった。なんで、と言われても……ねぇ。


「だって洋子さんも中村さんも付き合い始めの最初の頃のデートで週刊誌の記者さん達へのカモフラージュなのか、わざわざわたしのオフの日に合わせて動物園とか映画とかに一緒に連れて行かれたじゃないですか」


 遠くからだと役者業の後輩である私をマネージャーごと遊びに連れて行ってくれた先輩みたいに見えただろうけど、ふたりに挟まれていた私にはお互いに熱い視線を向ける中村さんと洋子さんにピンと来たんだよね。


 その後もケンカしたり仲直りしながらも、お付き合いは続いているのはなんとなく感じ取っていた。だって中村さんと一緒の現場になった時の洋子さんの雰囲気が、なんだか嬉しそうな感じだったしね。


 私がそれを説明すると、洋子さんは真っ赤にした顔を机の上に置いた両腕に隠すように伏せた。


「……なんで他人のことだとこんなに鋭いのに、自分については途端にポンコツになるのよこの子はっ」


 顔を伏せたままボソボソと呟いている洋子さん、何を言ってるのかは聞こえないけどきっと照れ隠しみたいなことを言ってるんじゃないかな。


「それで、中村さんがどうしたんですか?」


 話が進まないので私から質問して強引に話を進めてみると、洋子さんはちょっとだけジトッと恨みがましい視線をこちらに向けながらも答えてくれた。


「プロポーズされたの、結婚してほしいって」


「わぁ、そうなんですね。おめでとうございます!」


 パチパチと拍手しながらそうお祝いしたのだけれど、洋子さんは『ありがとう』と答えた割にはなんだか浮かない表情だった。


「……嬉しくないんですか?」


 元男である私には洋子さんの気持ちを全部は理解できないだろうけれど、こうして話し相手に選ばれたからにはなんとか真剣に話を聞いて力になってあげたい。普段からたくさんお世話になっている分、こういうところでお返しできたら嬉しい。


 私が尋ねると、洋子さんはポツリポツリと溜まっていたものを吐き出すように話し始めた。中村さんとの交際期間は2年以上経っていてお互いのことをよく知ったつもりだけど、いざ結婚となると本当にこの人でいいのか不安になったらしい。ただ洋子さんもこの機を逃すと30代で初婚という未来が見えてくる年頃だから、できれば結婚したいとは思っているそうだ。


 けれども中村さんは外見もいいし、若かった頃は女性関係も派手だったのが引っかかっているらしい。自分と結婚しても浮気したり自分に対して冷たく接するようになったりして、お互いに嫌い合う関係になってしまうのではないかと不安で仕方がないらしい。


 可能性で言えばどんなに仲が良い夫婦でも、その不安は付き纏うものだと思う。それを許せずに別れる夫婦もいれば、過ちを許して婚姻関係を継続する夫婦もいるのだ。実際にその時が来た時に対処を考えればいいことで、結婚前からそんなことを思い悩んでいても不毛だと私は思うけどね。中村さんが浮気しないかもしれないし、何かの間違いで洋子さんが他の男性とそういうことをしちゃうかもしれないし。未来の出来事は誰にもわからないもの。


 洋子さんもいつもみたいに冷静な精神状態ならここまで悲観したりしないと思うけれど、早すぎるマリッジブルーもあるのか妄想に惑わされているのではないだろうか。そもそもこれって中学生に聞かせる話でもないよね。もしかしたら洋子さんは私に話す前に他の人に相談したけど、真剣に受け取ってもらえなかったり馬鹿にされたりして実のあるアドバイスをもらえなかったのかもしれない。


 それで藁をも掴む思いで私に話をしたのかもね、真相はわからないけれど別にそこは知らなくてもいいことだから追求するつもりはない。


 とりあえず洋子さんの悩みを解決する助けになればと、『前に本で読んだ話』として前世の芸能人が自分の娘に言った言葉について話すことにした。


「恋人の見目がよくて不安になる、という洋子さんの気持ちも理解できます。でも年齢を重ねたらその外見も衰えてきますし、結婚相手を見極めるのに一番大事なのは洋子さんの気持ちを考えて理解しようとしてくれたり、夫として家庭と洋子さんをちゃんと守ってくれるのかどうかじゃないでしょうか」


「……すみれがどこでそんな本を読んだのか、すごく気になるわね。私も読んでみたいのだけど、なんてタイトルの本なの?」


「それは今はどうでもいいじゃないですか。中村さんがこの条件に合っているかどうかは、ただの共演者なわたしには判断できません。それができるのは、これまで恋人として彼の側にいた洋子さんだけです。まだ中村さんが起こしてもいない裏切りを悲観するよりも、今の中村さんを冷静に観察して最終的な答えを出したらどうですか?」


 洋子さんには絶対に幸せになってほしい、その気持ちを込めて頭の中をフル回転させて言葉を紡ぐ。普通の女子中学生だったら絶対言わないであろうアドバイスだけど、人生のパートナーとして相手を選ぶならこういう人を選ぶべきだと私は思う。恋愛感情が無くなっても家族愛や信頼を持ち続けられて、お互いを尊重する関係を築ける人。男女問わずに大事なことだよね。


 私の言葉を聞いてしばらく考え込むように目を閉じて黙り込んでいた洋子さんだったが、しばらくするとスッと目を開いてさっきよりも力のある視線で私を見た。


「すみれに言われて、私ってばプロポーズされてものすごく混乱してたんだって気付けたわ。そうよね、大事なのはこれからなのよね。一緒に良い未来を目指して歩いていける人かどうか、夫として信頼ができるかどうか、万が一間違ってしまった場合はそれを許してあげたいと思える人かどうか。そういうことを判断材料にすべきだったのよね」


 自分で混乱状態だったと言うだけあって、状態異常が解除された洋子さんは私が言ったことをすごいスピードで自分なりの言葉にして理解していった。見た目は子供である私の言葉で洋子さんの悩みが一気に解決したなんて自意識過剰にはなれないけれど、少しは力になれたのなら嬉しいなと。


「ありがとう、すみれ。今でも付き合いのある友達は既婚者が多いからそっちの立場の意見に偏りそうで、ニュートラルな意見が欲しくて報告のついでに相談してみたんだけど。すみれに話を聞いてもらえてよかったわ」


 そう私に告げた洋子さんからは、さっきまであった暗い雰囲気は無くなっていた。そこでは結婚するのかどうかの答えは聞けなかったけれど、きっと洋子さんのことだから中村さんと話し合ってちゃんと納得できる答えを出すのだろう。


 数ヵ月後に洋子さんは満面の笑みを浮かべて、彼女の隣に立った中村さんと改めて結婚することを報告してくれた。洋子さんが答えを出せたこと、そして幸せになるためにスタートを切ったふたりに、私もただまっすぐに『おめでとうございます』とお祝いの言葉を贈ったのだった。

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