86――姉からの電話


 夜ごはんを食べてお風呂に入った後、風邪をひかないように念入りに髪を乾かす。


 最近はお風呂に入ってから寝るまでのこの時間を、はるかと勉強することが習慣になりつつある。ただ私もはるかも仕事が入ってこの時間にはまだ寮に帰り着いていない場合が多々あるので、ふたりが揃っていれば一緒に勉強しようぐらいの気軽な感じの勉強会だ。


 ゴールデンウィークも終わってそろそろ中間テスト期間が近づいてきているけれど、テストの時だけ焦って勉強しても身につかないしね。私はもう中学生の学習範囲は勉強し終わっているので、専ら大学受験対策や高校での勉強に重きを置いていてテスト範囲はサラッと見返すぐらいだ。



 はるかも最初は私が自分とは全然違うことを勉強しているのを見てなんだか申し訳なさそうな表情で質問するのを遠慮していたみたいなのだけれど、質問に答えることで私も自分の理解度を把握できるしうっかりミスも無くせるから逆に助かっていることを伝えると、はるかもそれならと遠慮せずに質問してきてくれるようになった。


 今日もお互いにドライヤーで髪を乾かし合ってから勉強をしていると、プルルルルと電話の着信音が鳴り響いた。ちょうど問題を解いたところでキリがよかったので、立ち上がろうとしたはるかを制して電話台がある廊下へと向かった。キッチンやはるかと勉強会をしているリビング付近に設置してくれればいいのにと思わなくもないけれど、廊下に設置しているのはここが寮だからなんだろうね。。


 リビングとかの他人の目につく場所じゃないから、廊下の片隅なら故郷の家族と素の自分で話せるもんね。東京で楽しくやってるよっていう報告だったり、たまにはホームシックになって寂しくて泣きながら話したり。そういう家族との触れ合いの場所を作ってあげたかったんじゃないかな、あずささん優しいからね。


「はい、もしもし」


 受話器を上げて、そう声を掛ける。本邸にある大島家の電話に出る時は『はいもしもし、大島です』と名乗るのだけど、この寮は若い女性しか住んでいないから安全面を考えて寮であることも自分の名前も言わないルールになっている。


「……私だけど」


 長い沈黙の後、電話の向こうからもう何年も聞いていない姉の声が聞こえてきた。思わず『えっ!?』と驚きの声が出そうになったけれど、なんとかこらえる。


 だって東京に来て以降ずっと会っていない、そして私のことが嫌いどころか憎く思っているであろう姉が自発的に私のところに電話をしてくるなんて、普通なら考えられないことだ。もしかしたら両親ふたりともに何かあったのだろうか。両親のどちらか一方だけが病気だったり事故に遭ったのなら、姉じゃなくて両親の無事だった方が連絡してくると思うし。


 それにここの電話番号はどうやって知ったのかな。姉には教えないように両親には伝えていたし、実家の電話機の横に置いてある電話帳にも記載されていないのは帰省時に確認済みだ。

 まぁ狭い家だし母がメモに書いて隠していたとしても、それほど時間を掛けずに探し出せると思う。うちには鍵が掛かる金庫とか抽斗とかそういうものはなかったから、新しく買ったりしていなければ家探しし放題の状況だろう。隠すとしたらここじゃないかなという目星もいくつかついているしね。


「ッチ……ちょっと聞いてる?」


「あ、うん。聞いてる。めずらしいね、お姉ちゃんがわたしに連絡してくるなんて」


 苛立った様子の姉に若干引きながら、私はなんとか普段通りに言葉を返した。しかし舌打ちって、なんというかガラが悪いなぁ。でも自分から私に連絡してきただけ、厳しい学校で生活した成果なのかもしれない。姉からしたら関わるのもイヤな私に一体何の用なのか、なんだか興味が出てきた。


「お前、映画とかにも出て羽振りいいんだよね? じゃあちょっとそのお金、こっちにも回してくれない?」


 お前呼ばわりにも引っかかったが、金銭絡みの話という時点で電話をガチャンと切りたくなった私は悪くないと思う。だって絶対に面倒事だもの、ましてや貸し借りの話じゃなくてこの言い方だと姉に渡せってことでしょ? 答えは言うまでもなく絶対にお断り、それしか答えはなかった。


「いきなりそんなこと言われても、はいそうですかと言えないのはお姉ちゃんもわかってるでしょ。なんでお金が必要なの?」


「なんでお前なんかに、いちいち説明してやらなきゃいけないのよ」


 受話器の向こうで姉がイヤな表情を浮かべながら言ってるのかと思うと、本当に腹が立つ。この人、自分の立場がわかってるのかな? お金を寄越せと電話してきたのはそっちなのに、その事情を説明する気もなくこっちに噛み付いてくるなんて直情的過ぎるでしょ。


「じゃあもうこのまま切るけど、それでいい? もちろん事情も聞いてない状態でわたしが一生懸命に働いてもらったお金は渡さないし、お母さんたちにもこの電話の話は伝えるから」


 一言言い返してやろうと強気でそう言ったら、電話の向こうから焦った声で『待ちな!』と怒鳴るように姉が叫んだ。さっきから命令形なのは私に弱いところを見せたくないのか、それとも妹である私へのマウント行為なのかは知らないけど気分がいいものではないよね。


 それでも電話を切らずに待ったのは、事情をくわしく聞いて両親に伝えたほうがいいと判断したからだ。中学三年生になったとはいえ姉だってまだまだ子供だし、お金を妹に要求するなんてどう考えたっておかしい。本来なら私は知らぬ存ぜぬでいても責められないだろうけれど、絶対に後で厄介事になるだろうからね。こちらが巻き込まれる前に、両親にはなんとかして対処してもらいたい。


 無言で返事をジッと待っていると私の声が聞こえていたのか、はるかがひょっこりと顔だけ出してこちらを心配そうに見ていた。『大丈夫だよ』という意味を込めてヒラヒラと手を振ると、はるかはコクリと頷いて顔を引っ込めた。そんなことをしていると、ようやく姉が観念したのかポツリポツリと話し始める。


 両親や祖父母への悪口や悪態がたくさん混ざっていて聞いているのがものすごく苦痛ではあったけれど、大体の事情は把握できた。要約するとこういうことらしい。


 春休みに両親たちに帰省するように言われた姉は、中学を卒業したら実家に戻って通える範囲の高校に通うように言われたんだとか。姉の性格が少しはマシになったと祖父が判断したみたいだけど、多分苛立ちに任せた攻撃性とか自分以外の人間に対する接し方とかそういうことに対して言ってるのだろう。さっきも思ったけどお金目的とは言え自分から私に電話を掛けてきたあたり、コレでも随分と丸くなったんだなぁと思うもの。


 姉としてはイヤな思い出しかない実家に戻るなんてまっぴらごめんだと、今の学校の高等部に通わせて欲しいと頭を下げたらしい。私の生活費や学費が丸々浮いているんだから通わせてあげたらいいのにと思ったけど、多分祖父が世間体を気にしていたり母が子供がふたりとも家から離れてしまって寂しいと父に零したりした結果なんだろうね。


 姉の願いが却下されようとした時に、救いの手を差し伸べたのが島の祖母だったみたい。祖父を説得してなんとか今の学校に引き続き通う許可をもぎ取ったらしくて、姉の希望が通ってめでたしめでたしのはずだった。


 ただ姉は自分の希望が叶ったのだから後は知ったことではないとばかりに、両親への電話連絡とかそういうのを一気におろそかにしたらしい。先月連絡がなかったことを心配した母が寮に無事を確認するために電話を入れたみたいなんだけど、鬱陶しく思った姉はそれを無視。当然何度も連絡をした母にウザいから連絡してくるなと怒鳴り散らしたらしい。


 祖父から言質を取っているからもう何をしても大丈夫だと、タカをくくっていたのだろう。姉からしたら色々と言い分もあるのかもしれないけれど、お願いを聞いてもらった立場なのだからもうちょっと謙虚な言動を心掛けるべきだったと言わざるを得ない。だって頼む時だけ殊勝な態度で希望が通ったら手のひらを返してないがしろにするなんて、他の人からの信用をガクンと落とす行為だからね。


 当然ながら姉の信用もご多分に漏れずガタ落ちになって、このゴールデンウィークにまた保護者達で集まって話し合い、姉は中学卒業後に地元に連れ戻すという結論に至ったらしい。一度は救いの手を差し伸べた島の祖母は商売人だから、他人からの信用とか信頼がどんなに大事なのかというのを身をもって知っている。だからこそそれをないがしろにした姉に対して、二度目の助け舟は出さなかったのだろう。


 前世の姉はもうちょっと計算高かったと思うんだけど、今の姉を見ていると実はそれは違ったのかも。今回のこともせめて高校入学までは気を抜かずに、両親や祖父母に従順なフリをしておいたらよかったのにね。姉の性格からして自分の希望が通ったことに対する嬉しさと、これからの自由を考えると我慢ができなかったんだろうけど。


 ここまで話を聞いて、やっと姉の言いたいことが見えてきた。今回は私に対する感情は関係なくて、地元に戻れという最終通告を突きつけられた姉が色々と考えを巡らせた結果、進学に必要なお金をどうにかすれば現在通っている学校に居続けられると思ったんじゃないかな。


 そこで姉が目をつけたのは、両親が私に東京での生活費としてお金を送っているお金だ。もちろん私はもう自分のお金で自活してるし、上京した際の引っ越し代や仕事がなかった時に使った生活費はすでに両親に返してるんだけどね。ただ光熱費と家賃はタダの寮に住まわせてもらってる身なので、とてもじゃないけど胸を張って自活しているとは言えなかったりもする。


 それをやんわりと説明したら、受話器の向こうから姉の金切り声が聞こえてきた。


「お前そんなに稼いでるの!? じゃあ、お前の貯金を全額こっちの通帳に振り込めよ!!」


「なんでわたしが一生懸命に働いて、もらってるお金をお姉ちゃんに渡さないといけないの?」


 イラッとはしたけれど、私は至極冷静に感情の揺れがないように気をつけながらそう言い返した。平坦なその声に気圧されたのか、姉が電話の向こうで押し黙る。


「そもそも進学できるだけのお金を集めたとして、寮費や学費はどうするの? その前に内部進学とはいえ、書類に保護者のサインと印鑑が必要でしょ。お父さんとお母さんが書かないって言ったら、お姉ちゃんは強制的に家に帰らなきゃいけなくなるよ」


「…………」


「お姉ちゃんがまずやらなきゃいけないのはお父さんとお母さんに謝って、ちゃんと話をすることだと思うよ」


 学校における保護者の意向って強いからね。街の祖父母の意向はひとまず置いておいて、実際に願書にサインしてハンコを押して、さらに学費を払ってくれるのは両親なんだから。ここまで姉との対話を避けてきた両親にも非はあるし、私を巻き込まないところで話し合って答えを出してほしい。


 しばらく待っていたけれど全然返事がないから、『それじゃあね』と短く告げて受話器を置いた。やっぱり緊張というか気が張り詰めていたのか、知らぬ間に肺いっぱいに溜まっていた空気を『はぁーっ』と吐き出す。


 好きの反対は無関心だという話を聞いたことがあるけれど、私も前世まえの記憶のないまっさらな状態だったら、姉には無関心でいたんだろうね。それとも憎んだり嫌ってたのかもしれない。


 でも今の私には前の人生で横暴な姉に嫌がらせみたいなことをされたりもしたけれど、それだけじゃなくて色々とお世話になった思い出も残っているんだよね。だからこそ真剣に今の姉を放っておこうという気持ちにはなれず、こうして姉の神経を逆撫でするとわかっていながらもアドバイスめいたことも言ったのだ。


 そもそも私が家を出て何年も経っているのに、未だに姉との溝を埋められていない両親が悪いと思うんだよね。確かに街の祖父母は口うるさいし鬱陶しいだろうけれど、親権者は両親なんだから横槍は無視して姉とちゃんと向き合うべきだろうし。私だって上から目線で偉そうな姉と話すのはストレスを感じるので、私を巻き込まない方向で解決してほしい。


 そんなことを考えながら一度部屋に戻ってレターセットを手に取ると、ひとりでもちゃんと勉強を続けていたはるかの隣に座った。


「電話、大丈夫だったの?」


「うん。お姉ちゃんからの電話だったから、ちょっとびっくりしたけどね」


 心配そうな表情をしているはるかの問いかけに、苦笑を浮かべながら返す。はるかには詳細にはうちの家庭事情は話してないけれど姉と仲が悪いことぐらいは教えてるし、お金がどうのこうのという話が聞こえてくればそりゃあ心配になるよね。


 一旦勉強道具はテーブルの端に寄せて、下敷きに便箋を乗せる。母への報告つげぐちは電話の方が手軽でいいのだけど、姉の話と齟齬が出たら困るからね。そんなこと言ってないとか、私が姉の評判を下げようとして嘘をついているとか。そんな言いがかりをつけられたらたまらないもん。まぁ姉と私の信用度の差は結構あるだろうから、私が悪いと一方的に決めつけられることはないだろうけれど。


 できるだけ詳しく会話内容を書いて余計なお世話かもしれないけれど、最後に『もう一度お姉ちゃんとよく話し合った方がいいと思います』と付け足してボールペンを置く。後は3人で話し合うべきことだし、私ができるのはここまでだ。


「あ、すみれ。ここなんだけど……」


 封筒に便箋をしまって封をしていると、はるかが問題集をこちらに向けて質問してきた。多分手紙を書き終わるのを待っていてくれたのだろう。


 途中まで解かれた式を確認しながら、間違えているところへのヒントを出して自分で解けるように話を誘導する。解き方を理解したはるかに同じ系統の問題を出して、それを自力で解けたことに喜ぶはるかを微笑ましく見守る。


 ちょっとだけイヤなイレギュラーがあった夜だけれど、はるかのおかげでいつも通りに落ち着いた気持ちでぐっすりと眠れるような気がした。

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