【1巻発売記念】番外編――胡蝶の夢
「すみれ、そんなに急ぐと転ぶわよ! あと、ちょっとは私を労ってくれない? あんまり言いたくはないけど、もう30代なのよ私」
「だって今日はもう大晦日なんですよ、本当ならもっと早く日本に帰って来られるはずだったのに」
「仕方ないじゃない、悪天候で飛行機が飛ばなかったんだから!」
洋子さんはそう言って、自分のせいではないことを頻りにアピールしていた。それはわかっているんだけどね、海外ロケに元々乗り気じゃなかった私を無理に連れて行ったのは洋子さんだ。いや、最終的に仕事を受けると決めたのは私だし、初めての海外というわけではなかった。そういうことを考えると、やっぱり八つ当たりしている私が悪いのかもしれない。
「でも、ルームメイト達におせちを振る舞う約束だったんですよ。早く帰って準備しなきゃ。それに洋子さんだって、早く旦那さんとチビちゃんに会いたいでしょ?」
「うーん、どうせあっちは今頃ハワイだしね。子供も一緒に連れて行ってもらっているから、私は寂しくひとりで年越しよ」
「あ、じゃあ洋子さんさえよかったらですけど、うちに来ます? ルームメイト達がいますからちょっと人口密度が高いですけど、年越し蕎麦も出しますよ」
私が誘うと、洋子さんは悩ましげな表情を浮かべた。しばらく視線を上に向けて悩んでいたが、どうやら考えがまとまったのか私の顔に視線を向けて首を横に振った。
「せっかくのお誘いだけど、やめておくわ。すみれのおせちと年越しそばには惹かれるけど、若い子たちとキャピキャピしながら年を越す体力は残ってないし。むしろ家に帰って3日ぐらい寝続けたい気分なの」
「そうなんですか……残念です」
私はそう言って洋子さんの顔色を見ると、確かに疲れの色が濃い。現地で色々と頑張ってくれてたもんね、本当にお疲れ様でした。そんな感じで洋子さんを労りながら、タクシーに乗り込んだ。前世の自分を思い出すと、やっぱり30代超えると急に体力が落ちて疲れやすくなるよね。私はまだギリギリ10代だから、ハードスケジュールで疲れてはいるけどまだまだ元気。
タクシーが走り出して少しすると、隣から洋子さんの寝息が聞こえてきた。スースーと規則正しい呼吸音に耳を傾けながら、これまでのことを思い返す。
中学1年生の秋ぐらいに、家政婦業を辞めたい引退したいと常々言っていたトヨさんがついに腰を痛めて退職。家政婦協会からあずささんのツテで新しい家政婦さんが来たのだけど、予定していた年配の方ではなく若い人がやってきた。嫌な予感がビンビンしていたのだけれど、この人がやっぱりとんでもないことをやらかしたのだ。
私やはるかの下着姿の写真なんかを隠し撮りして、際どい記事を書く週刊誌に売っていたのだ。発覚したのが発売した後だったので大問題になり、家政婦さんはクビどころか警察のお世話になって、更に関東ではまともな職にはつけないだろうというぐらい悪評が広がった。盗撮だけではなく、窃盗であずささんの所持品で金目の物を盗んで換金していたことが明らかになったからね。そりゃああずささんの怒りは怒髪天を衝くと言っても過言ではないぐらいで、色々な人が青褪めたらしい。
結局一番評判のいい、最初に寮に来てくれることになっていた年配の家政婦さんが派遣してくることになった。何がどうなったのか私達にまで話は降りてこなかったんだけど、家政婦さんだって信用商売でしょ? それがあんなことをやらかしたせいで、その協会は色々なところで契約を切られて大変な事態になっていたんだとか。
あずささんが和解をアピールする代わりに、どうやら家政婦さんの給料は協会が払う話に最終的には落ち着いたみたい。それによって時間は掛かったけれどマイナスの悪評がプラマイゼロぐらいには回復したらしいから、協会としては安い買い物だったんじゃないかな? 慰謝料とか賠償金まで支払う羽目になったのかは、全然知らないんだけどね。
新しく来てくれた家政婦さんは本当に良い人だったから、私達もその後はリラックスして日常を過ごすことができた。後輩が入ってきたり、辞めていったりと寮生の入れ替わりはあったけど、人数も増えて静かだった寮も賑やかになったものだと思う。
私とはるかは仕事も学業も順調で、高校まで大きなトラブルもなく無事に卒業することができた。私は卒業まで学年1位を守り続け、学費免除してもらえたおかげでかなり貯金を増やせたんだよね。あずささんに相談してIT関連株にも投資したりして、それなりに増やせたのも大きかった。大学は日本でトップクラスの学力を誇る学校に合格できたので、そろそろ私も寮を出ないとなぁと考えていた。
そんな折、なんとなおとふみかが東京の大学に進学が決まって、こちらに越してくるという話が入ってきた。というか、相談された。なおとふみかのご両親も東京の地理に詳しくないし、できるだけ安いけど安全なところで無茶振りされたものだから思わず言ってしまった。
「わたしも寮を出てひとり暮らしを考えているので、なんだったらファミリータイプの部屋を借りてルームシェアにします? 多摩川を超えた遠いところに住まわせるよりは通学も楽だし、複数人で住んだらひとり暮らしよりは安心じゃないですか?」
この私の提案は両家の両親達に受け入れられて、卒業式が終わったらすぐになおとふみかが引っ越してくる事になった。この時期の賃貸物件は奪い合いだけどファミリータイプはそれほどではなかったので、ふたりの希望とか予算とか大学名とかを聞いて住める部屋を探した。はるかも一緒に住みたいと言ったので、なおとふみかに許可を取った。いくら遠距離で友情を育んでいても、よく知らない人と一緒に暮らすのはストレスが溜まるからね。そこはこれまで一緒に住んできた私がフォローするので、多分大丈夫じゃないかな?
それぞれに個室を持てるようにして、お風呂も広めでみんなで集まるリビングも広めでと希望に沿った物件を見つけたが、やっぱりお値段が高い。でも4人で割ればまぁ、ひとり暮らし用の部屋を借りるよりも安いと思う。光熱費も割り勘だから安くなるんじゃないかな、お風呂は4人が入るから水道代とガス代は多く掛かるかもしれないけれど。
なおとふみかの両親からすれば、女の子だけで暮らすと彼氏が連れ込みにくいっていうところにメリットを感じているんじゃないかな。やっぱり自分達の部屋に友達の彼氏であっても、男の人が入ってくるのはできるなら遠慮したいしね。
4人の大学に均等に近くて希望に適う物件を探すなんて不可能なので、遠くなっちゃった子は運が悪かったってことで遠距離通学頑張ってほしい。入学したら本校とは違う別のキャンパスに通うなんてこともよくあるしね。というか、なおとふみかは一緒の芸大に通うの? あ、学科は違うんだ……いいな、久しぶりに一緒の学校に私も通いたかったな。
「すーちゃんは頭がいいんだから、賢い大学に通った方がいいよ」
「そうだよ、もったいないよ!」
ふみかとなおにそう言われて、しぶしぶ諦める。まぁもう合格しちゃってるから、どうしようもないんだけどね。お互いの学校のイベントには呼び合ったりすることで、一緒に学生生活を過ごしてる気分になれればいいな。
ちなみにはるかは真ん中ぐらいのランクの短大の、日本文学を学ぶ学科に入るんだって。彼女も女優としてあちこちで仕事をしてるんだけど、自分自身の台本の読解力に納得ができていないらしい。自分のセリフ、他の役者さんのセリフ、脚本さんの意図をもっとしっかり読み込みたいんだとか。
そのために日本語と日本文学をもっと深く学ぼうって考えるあたり、はるかもストイックになったなぁと思う。『目標が近くにいるからね!』って嬉しそうに言ってたけど、あずささんのことなんだろうなと思う。
私が通う学部は法学部なんだけど、別に弁護士だったり裁判官になりたいという希望がある訳ではない。芸能界は水物だからね、ありがたいことに途切れずに仕事をもらえているけれど、いつ役者を廃業しなくちゃいけない事態に陥るかもしれない。そう考えた時に、法学部から公務員になる人も多いと聞いて安定を求めて保険をかけておくことにした。
そんなこんなで始まった4人での暮らしなのだけど、最初こそこれまでの生活とマッチしない部分があって色々と衝突もあったけれど、夏を過ぎると何の問題もなくうまく回っていた。まぁ私が仕事と学校以外の時間で、うまく回るように陰でフォローしたりしていたのだけど。仕方ないよ、寮生活をしていたはるかはともかく、なおとふみかは初めて親元を離れるんだから。何もかも不慣れなのはわかっていたことだし、できないと開き直ったりせずにやり方を教えてほしいと聞いてくれる謙虚な性格をしているから、こちらとしても教え甲斐がある。
そして夏を超えて秋を過ぎて師走に入り、初めての年末が迫っていた。それぞれ学校の友達との付き合いはあるけれど、せっかくだからクリスマスも大晦日も4人で一緒に過ごそうよと提案されて、私は一も二もなく頷いた。じゃあせっかくだから年越しそばもおせちも作るよ、と下調べしていたのに。クリスマス前に洋子さんに拉致られるように、急いでスーツケースに荷物をまとめてアメリカに旅立った。
みんな携帯電話を持っているから、それぞれにメールを送る。まだそんなに長い文字数は送れない仕様だから、何通かに分けて不在時にしておいて欲しいことなどお願いを書いておく。
3人共もう大学生なんだから、私が口出ししなくてもちゃんとお留守番できると思うんだけどね。おせっかいおばさんの小言だと諦めてもらおう、3人が鬱陶しく思ってなかったらいいのだけれど。
「洋子さん、なんならチビちゃんも連れて行きます? 置いていくの心配でしょ、旦那さんズボラだし」
「大丈夫大丈夫、お義母さんに連絡したら来てくれるって。たまに嫌味も言われるけど、こういう時は便利なのよ」
空港に向かう電車の途中に、そんな会話を洋子さんと交わす。洋子さんが産休の時は代わりの人がマネージャーについてくれたのだけど、やっぱり長年一緒にコンビを組んでいるからこちらの意図をスムーズに汲んでくれてやりやすいのだ。話す内容が子育てや嫁姑問題などの主婦みたいな話題が増えたので、役者としても女子大生としてもなかなか得られない視点で勉強になる。
クリスマスイヴには日本に帰ってこられると確約してもらっていたのだけれど、撮影が終わって帰りの飛行機に乗る前日からソフトボール大の雹が振り、軒並み飛行機がやられてしまって代わりの飛行機の手配に時間が掛かってしまった。そして現在日本の地面を踏んでいるのは、悲しいかなクリスマスも過ぎ去ってしまった大晦日なのである。
ぼんやりとしていたからか、あっという間に事務所の前にタクシーが停まったので洋子さんを起こす。ほんの少しでも眠れてすっきりしたのか、先程よりは元気そうな洋子さんをここで降ろして、私はひとりで親友達と暮らすマンションへ向かってもらうようにタクシーの運転手さんにお願いした。
料金は降りる時に洋子さんが多めに払ってくれたので、到着した際にお釣りと領収書をもらう。次の仕事の時に洋子さんに渡せば、経費として事務所が処理してくれるからね。
大きなスーツケースをゴロゴロと引きずって、エレベーターに乗り込んだところで携帯電話の一通のメールが届いた。『すーちゃん、早く帰ってきてね』とふみかのメールアドレスから送られてきていて、私は嬉しさに心がウキウキしながらも『もうすぐ着くよ』と返事を返した。
エレベーターを降りて、一番奥の端っこの扉を目指して少し早足になりながらも歩く。ドアノブに手を伸ばして、ガチャリと回した。
「ただいま!」
◆◇◆◇◆
目の前にいたはずの大人になった3人の姿が消えて、見慣れた寮の天井が目の前に広がっていた。
「……夢かぁ」
思わず呟いた自分の言葉に、安堵のため息をつく。だって洋子さんはまだ独身だから、旦那さんどころか恋人のことも知らないし。いや、ふたりともわかりやすいから、見当はついているんだけどね。洋子さんの彼氏が誰なのか。
夢の中の私は知っていたみたいだけど、きっとふたりの間に生まれた子供なら可愛いんだろうなぁ。夢に出てこなかったのが、すごく残念。
それにしてもなおもふみかもはるかも美人さんに育っていて、なんとなく感慨深いものがあった。あくまで3人が大人になったらどんな風になるのかという、私が想像した姿なのだろうけれど。どうせなら透歌もどんな風な女子大生になるのか見たかったかな、あの子も美人さんになるのは約束されてるだろうし。
家政婦さんの話は現実にならなくてもいいけれど、あの夢みたいにトラブルなく高校を卒業して大学に入学できる未来がくればいいな。
突拍子もない夢に元気をもらって今日も頑張ろうと身体を起こして、グーッと伸びをした。ベッドから下りて着替えを済ませると、はるかにもこの夢のことを話してあげようとリビングへと向かう。
その結果、『夜に見た夢をそんな風にしっかり覚えていたことがないんだけど』と別のところに驚かれてしまったのはまた別の話。
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