82――ホットミルクと打ち明け話
コトコトと弱火で牛乳を温めながら、時々焦げ付かないようにヘラでゆるくお鍋の中を全体的に混ぜる。
レンジでチンでもいいけれど、私としてはホットミルクは鍋で温める派だ。なんとなく雑味が抜けて柔らかい味に出来上がる気がする、気のせいだと言われるのは重々承知なんだけどね。
洋子さんは私達を送り届けると、そのまま車に乗って走り去っていった。『あと10分ぐらいで着くかな』というぐらいの場所で、洋子さんが静かな声で言った言葉が印象的だった。
「中学3年間なんてあっという間よ、進路を決定するのを可能な限り後ろにずらしても2年半。はるかがどういう選択をするのか、じっくりと考えられる時間はもっと短いわ。自分がどうしたいのか、どうなりたいのか、ちゃんとしっかり考えなさい」
言葉だけ聞けばすごく厳しいことを言っていると思うけれど、こうして苦言を呈してくれる人がいるということ自体がありがたいことなんだよね。実際に前世の私にはそんな人はいなかったけど、でもその時にこういうアドバイスをもらったとして素直に聞き入れたかどうかというのはまた別の話なんだけどね。
大人の洋子さんや人生をやり直している私にとっては時間の流れって本当に早くて、あっという間に過ぎていく。でも前世の中学生の頃って時間の流れはゆっくりだったから、きっとはるかの感覚ではまだまだ時間があると思ってるんじゃないかな。でも学校生活を送りながら自分の将来を考えたり、近い未来の選択を決めるのってきっとすごく大変だと思う。
マグカップに温まったホットミルクを注いで、はるかの分にはスプーン一杯分のお砂糖を入れる。冬の間も一緒に飲んでいたのだけれど、はるかは温まった牛乳特有の臭みが苦手みたい。最初に一緒に飲んだ時に何も入れていないものを口にした途端に顔をしかめていたので、お砂糖を入れてあげたら美味しく飲めるようになったのだ。
両手にマグカップを持って、リビングへと向かう。するとはるかがふたり掛けのソファーの上で膝を抱えていたので、そっと近づいて持ってきたマグカップを差し出した。はるかはそれを両手で受け取って口をつけると、こわばっていた表情を少しだけ綻ばせた。
そんなはるかの隣に私も腰を掛けて、マグカップを両手で包み込む。はるかは普通にすぐに口を付けたけれど、私は猫舌なので冷ますためにフーフーと息を吹きかける。
「……あちゅっ」
そろそろ冷めたかなと思って口を付けてみたけれど、まだ私にとっては熱くて思わず声が出た。ヒリヒリする舌を少しでも冷やすために、小さく舌の先をペロッと出す。
そんな私のうっかりな行動を横目で見ていたはるかが、小さく吹き出した。恥ずかしかったけれど、ちょっとだけでもはるかの沈んだ気持ちがこれで浮上したのなら、これくらいの恥ずかしさは我慢しよう。私も照れ笑いを浮かべて小さく笑い声がお互いに漏れると、重たかったリビングの空気が少し軽くなる。
「話、聞いてくれる? すみれが聞けば、呆れちゃうかもしれない話だけど」
「うん、聞かせてほしい」
軽くなったリビングの雰囲気に口もつられて軽くなったのか、それともホットミルクを飲んで少し落ち着いたのか。はるかの言葉に頷きながらそう言うと、ポツリポツリと話し始めた。
3回ぐらい仕事をこなして少し慣れ始めた頃、その日も特に問題はなくスムーズに撮影は終わったらしい。その後で洋子さんと少し離れてお手洗いに行っていたはるかは、戻ってきた時にとあるスタッフが話している声を聞いたのだそうだ。
「今日の子役の子、イマイチだったな。監督もこれ以上は時間が押すのも嫌だったのか、撮り直しはしなかったみたいだけど」
「俺達がそんなことを話しても仕方ないだろ、キャスティング権もなけりゃ演出に口も出せないんだから」
その時の撮影に参加していた子役がはるかしかいなかったので、イマイチだと言われているのは自分のことだとはるかはすぐに理解したようだ。何がイマイチだったのかをはっきりとは聞いていないからこそ、何をどう直していいのかわからずにはるかは自分が全否定されてしまったようなショックを受けたらしい。
『そんなことぐらいで?』などと言ってはいけない、どんな言葉でどれだけ傷つくかなんて人それぞれで違うのだから。ちょっと仕事が楽しくなってきた慣れ始めの頃だからこそ、きっとショックが強かったんだと思う。
私だって人生2周目の今ならそんな悪口なんてなんとも思わないけれど、前世の小学生時代に自分が頑張ってやっていることに対してそういうトゲトゲした悪意ある言葉をぶつけられたら、べっこりと凹んでしまいそうだもん。
それからというもの、はるかはスタッフさん達の視線が怖くなってしまったらしい。でも変なところでプライドが高いはるかは、洋子さんや私への相談というか弱音を吐くのをためらってしまって、ひとりで抱え込んでしまったのだそうだ。そうなったらもう悪循環で、言われた言葉のショックだけがはるかの中でどんどん大きくなってしまって、仕事があると事務所から言われても断らざるを得ない状況に自分自身を追い込んでしまったんだって。
きっと他にも理由はあるんだろうけどね、もし洋子さんに相談しても自分の味方になってもらえなかったらどうしようと臆病になってしまったとか、寮を追い出されてしまったら生活する場所がなくなるだとか。悪い想像ばかりしてしまっていたのだろう、その気持ちは精神を病んだ前世の自分にとっては日常的に抱えていたものだったのでよく理解できる。
「そっか、ひとりで悩まないで相談してくれればよかったのに」
私がそう言うと、はるかの瞳に涙が溢れてくる。ひっくひっくとしゃくり上げながら、はるかは血を吐くような苦しげな表情で口を開いた。
「ひっく……言えなかったのは、すみれに大したことないじゃんって思われたくなかったからっ」
そこまで言って、はるかは勢いよく私の胸に自分の額をぶつけてくる。大きな声で泣き出すはるかを見ると、自分ひとりの中に気持ちを溜め込むのも限界だったのだろう。嗚咽を漏らすはるかの頭を優しく撫でながら、中学に入るまでこんなしんどい想いを抱え込んでいた友達の傷が少しでも癒えるようにと祈る。
しばらくそうやって泣いているはるかの頭を撫でつつも、今日はスポーツブラじゃなくて普通のブラジャーを着けているから硬いワイヤーとかが当たってないかなと心配したり、洋子さんにどう説明しようかなと頭を悩ませたりしていた。洋子さん、今日はずいぶん言い方がキツかったけれど本当のところは、はるかのことを心配してついつい言葉が強くなっただけだと思うし。
私達のことを大事に思ってくれているからこそ、多分このことが知られれば過保護に守ろうとすると思うんだよね。あと自分が付いていながらはるかを傷つけられたことについて、自分自身を責めてしばらく凹みそうだ。
はるかみたいに前向きだけどプライドが少し高くて、失敗した自分を他の人に見られて笑われたくないっていう子は、増長しないようにうまく加減しながら褒めて伸ばすのがいいと思うんだよね。洋子さんだと良くも悪くも直情的な人だから、さじ加減ができなさそうな気がする。ということは、はるかの意識改革をした方がうまくいくんじゃないかな。ひとまずの方針としてそんなことを考えていると、私の胸に顔を埋めたまま上目遣いではるかが私の顔をじっと見ていた。というか顔が埋まるほどにはないんだけどね、私の胸。
「落ち着いた?」
私がそう短く聞くと、はるかはそのままの状態でこくりと頷く。というか、いい加減体起こした方がいいよ。私の方が背も座高も低いんだから、しんどいでしょその体勢。肩に軽く手を置いて優しく押すと、はるかはゆっくりとした動きで身体を起こした。そしてこくりと頷いてからすん、と鼻をすする。
さて、なんて言葉をかければいいんだろう。当たり障りのない言葉なんて、今のはるかには伝わらないだろうし、何よりそんな薄っぺらいことを言ってトラウマがなくなるならもうとっくに解消されていると思うんだよね。だとすれば、私が思っていることをそのまま伝えた方がはるかの心にはしっかり届くんじゃないかな。そうであることを願って、私は小さく口を開いた。
「せっかくはるかがお話を聞かせてくれたんだし、わたしなりに感じたことを言いたいんだけどいいかな?」
「お、お手柔らかにお願いします……」
何故だろう、にっこり笑って言ったのに何故だかはるかは叱られる直前の子供のようにしょんぼりしている。別に怒ったり叱ったりしないのに、と苦笑が浮かんだ。
「まずスタッフさんに陰口を言われて辛かったことは、傷ついて当然だと思うよ。一生懸命自分のできることをやったのに、それを否定されたらわたしだって辛いもん」
彼らも自分達の仕事をしっかりやればいいのに、全く畑違いの演技について現場で評価を口にするなんてひどい越権行為だと思う。現場では監督さんや演出家さん達だけが、役者の演技に口出しができるのにね。
「でもきっとこれからも、そういう無神経なことを言う人は出てくるよ。それをいちいち聞いて傷ついていたら、はるかの心自体が持たなくなる。だったら聞き流せるように、こっちが考え方を変えて傷つかないように自分を守るしかないと思う」
「……考え方を変えるって、どうやって?」
「監督さんや演出家さんにここが演出プランと違うから直してって言われたら、はるかだったらどうする?」
質問に質問で返しちゃって申し訳ないけれど私がそう問いかけると、はるかは間を置かずに答えを出した。
「そりゃあ、すぐに修正するよ。あからさまにおかしな指示なら意見するけど、納得できる指示ならすぐに直さないとダメでしょ」
「そうだよね、作品全体の演出を担っている人達からダメを出されても、傷ついたりせずに自分の演技を見つめ直せるよね? じゃあ、どうしてスタッフさん達に陰口を言われた時には、そんな風には思えなかったのかな?」
しつこいぐらいに質問をして、はるかの思考を誘導する。一度傷ついて精神の奥底に引きこもってしまったはるかの心を再浮上させるには、こうして自分で考えさせて傷つく必要なんてなかったんだよって教えてあげるのが一番いい方法なんじゃないかと思う。私がそんなことを考えているうちに探していた言葉が見つかったのか、はるかが問いの答えを口にした。
「うーん……そう言われると何か道具とか片付けてたみたいだし、演技に全然詳しそうじゃない人だったからなのかも」
「うん、そんな人達に陰口で貶されたら『なんでこの人達にそんなことを言われなきゃいけないんだろう』って気持ちになるよね。だってその人達には私達演者の演技に対して、何の権限も責任も持ってないんだから。そう考えると、陰口を言われる筋合いなんて全然ないと思わない?」
『確かにそうだ』と言った雰囲気で、はるかはこくりと頷いた。あくまで私の個人的な意見だけれど、現場で演者の演技に口出ししていいのは監督さんや演出家さん、それからお金を出してくれているスポンサー関係の人達ぐらいだと思っている。他の人にも褒められればお礼を言うし悪いところを具体的に挙げてくれて、それが納得のできるダメ出しなら一考する価値もあると思うけれど、ただ漠然と『ダメだ』とか『下手だ』なんて言われてもそんなの相手にしていられない。
こんなことを思っているなんて公言したら、傲慢だと思われるだろうから言わないけどね。ただ私達役者は演技の勉強を全くしていない人達に向けても伝わるように演じるのが仕事なのだから、観客の人達のことをいつも頭の片隅に意識しておかなければいけない。それを忘れて『私の演技すごいでしょ』と一方的に押し付けるような演技をしてしまったら、それはただの自己満足でしかないのだから。
そのことをはるかに言うと、はるかもそう思ったのかコクコクと頷いて気をつけると言っていた。説教臭くならないように、『助言でもないただ人を傷つけたいだけの言葉に傷つく必要はないよ』ということを言いたかったのだけれど、うまくはるかに伝わっただろうか。ひとまず明日の朝に迎えに来てくれた洋子さんには謝ると言っていたし、私の方からも今日中にこういうことをはるかと話したよと連絡を入れておいた方がいいだろう。もちろん、前もってはるかに洋子さんに話してもいいという許可を取ってからね。
長らく引きずってきたトラウマを少しだけ話しただけで一気に解決できたなんて、そんな都合のいいことは考えてはいない。でもほんの少しだけでも、はるかが前向きな気持ちになったなら嬉しいかな。ただ前世の経験から話をするからか、どうしても上から目線みたいな話し方になっているような気がして、いつかそれが大きな問題を招きそうな気がする。そうなる前に相手を対等に見据えて話す練習をした方がいいかもしれない、なんとなくそう思った。
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