閑話――松田月子の進路



「……なに、急に? 2年になってからは帰ってこいとか全然言わなかったくせに」


 月子は母親から送られてきた手紙を読んでから、不満げに呟いた。残念ながら両親がいなくて恋しいだなんていう気持ちは、とうの昔に感じなくなっている。今更自分に関わってくるとか心底面倒くさい、それが月子の感じている不満だった。手紙には今後の事について話したいと書いてあるけど、月子としては4月から中学3年生として最後の中学生活を同級生達と楽しみながら、来年の4月からは高等部に進学するという未来図を描いている。


 両親や祖父母に文句を言わせないためにも、勉強も頑張っている。ひとえに地元に戻りたくない、大学か短大を卒業したら家族に会わずに就職したいという思いからだ。でも金蔓を手放さないためにも、学生の間は最低限の交流は持っておいた方がいいだろう。両親や祖父母達から金が引っ張れなくなった時の方が面倒くさいだろうから、我慢して月に一度ぐらいは自発的に両親に電話をしている。


「あいつ自分で稼いでるんでしょ? だったらあっちには金を回さずに、全部私に寄越せっての」


 ムカつく顔が脳裏に浮かんで、思わず月子はそう毒づいた。ただ相手が東京に引っ越した後も、地元で暮らしていた時は全然消えなかった妹への憎しみが、ここで暮らしていて少しずつ薄れていっているのが月子にはわかった。一緒に暮らさなくなったのは月子が小学5年生の夏休みからだが、妹本人がいなくとも実家にはその痕跡があちらこちらに感じられて無性に月子を苛立たせた。ただこの学校に来てからは、誰も月子に妹がいる事を知らない。誰も月子がものすごく評判が悪い問題児だった事も知らない、むしろ今の月子はクラスメイト達からはそれなりに優等生だと思われている。他人に認められているのが意識しなくても伝わってくるのだ、それを感じる度に妹への悪感情がどんどん薄れていき『殺してやりたい』から『嫌い』ぐらいにはランクダウンされていた。


 今年の正月などルームメイトで親友のスギさんに誘われたとは言え、月子が買い物のついでに妹の主演映画を観るという、これまでだと絶対に考えられないような行動を起こしていた。小学生の妹が社会人の役をするという非常に滑稽な設定だったが、東京で妹が頑張っているという感想を抱いてしまった月子は、絶対に口には出さないが胸中では『少しは認めてやってもいいか』と思える。それぐらいには、月子には精神的なゆとりが生まれていた。ただ映画を観終わった後にスギさんが妹を褒めていたのと、妹が格好いい芸能人の恋人役をしていた事への嫉妬で月子の妹への好感は再び急下降したのだが。


 それはさておき、問題はこの手紙だ。ご丁寧に今週末の日付まで指示してあるという事は、両親揃って待ち構えているのだろう。またいらない事をぐちゃぐちゃ言い出すのだろうか、ああ本当に面倒くさい。


 月子は手紙を受け取ってから鬱々とした一週間を過ごし、事前に学校へと外出許可を申請して許可を得てから電車を乗り継いで実家へと向かった。


 楽しいながらも体力的には鍛えられる学校生活のおかげで、月子の身体は小学生時代の面影もないぐらいに引き締まっている。スギさんと出掛けている時はおしゃべりに夢中で周囲の事などまるで眼中にないのだが、こうしてひとりで歩いてみると太っていた頃に感じていた馬鹿にしたような視線をまったく感じられないのがわかる。これまでの人生でうまく物事が進んだ事なんて全然なかった月子が、必死に頑張って掴んだ初めての成功がコレだったのかもしれない。そう考えると嫌な事もたくさんあったが、あの学校に入学してよかったのかもしれない……スギさんという親友も出来た事だし。


 地元の駅に降り立つと、前に帰った時と何も変わらない風景がそこにあった。きっとこの町は時間が経って周囲がどれだけ発展しても、世間に取り残されたように田舎のままで存在しているんだろうなと月子は思った。何の思い入れもない都会の人達がたまに訪れるならただの田舎の風景だけど、月子にとっては嫌な思い出がありすぎて嫌悪感すら抱くほど色あせて見える。


 『社会人になったらきっとこの故郷には寄り付きもしないのだろうな』と考えながら、実家までの10分程度の道のりを早足で歩いた。


「……ふん、前はブクブクと太っていたが少しは見れるようになったか」


 実家に着いて最初に言われた台詞が、祖父の口から出たこれである。前の月子であれば激昂していた自信があるが、怒りを自分の内側に閉じ込める事でこらえる事ができた。


 両親からの呼び出しだったはずなのに、部屋の中には両親以外にも先程失礼な事を抜かしやがった祖父と付き従っている祖母、そして島からわざわざ出てきたのか母方の祖母がいた。何したいのかは知らないが、雁首揃えてわざわざご苦労な事である。わざわざ東京から来るはずがないとは予想していたが、妹がいないだけまだマシかと小さくため息をつく。


 多少は感情的なしこりが小さくなったとは言え、嫌いな妹とわざわざ顔を合わせたくないという気持ちは当然のものだろう。それで悪感情がぶり返したらようやく家族の事を忘れて楽しく生活できるようになっているのに、また家族へ憎しみを抱いて過ごすというのは月子にとっても精神的な負担がきついので絶対に避けたい。中学に入学するまでの自分の幼さ故の愚かさに、今更向き合うのもごめんだ。


 両親や祖父母からの話は、月子にとってはやはり面倒事でしかなかった。今の学校を卒業したら、地元の公立高校に進学しろと言うのだ。昔の月子なら、怒りに燃えてここで真っ向から両親や祖父母の自分への仕打ちを怒鳴りながら喚いた事だろう。でもそれでは勝算が低い、下手をすれば祖父あたりが中学を卒業したら働けなどと世迷い言を言い出すかもしれない。先程の言葉から考えても、孫への真っ当な配慮など期待できない愚かな人間だ。だがそれでも月子への生活資金を提供する金蔓だと思えば、それなりに優秀だ。どう言えばこれまで通りにあの学校に通い、高校卒業まで金を出させられるか、それがそのまま月子にとっての勝利条件になる。


「お父さんお母さん、そしておじいちゃんもおばあちゃん達も聞いて欲しい。今通っている学校は厳しいけど、そのおかげで私も多少はマシな人間になれたと思う。こうして痩せる事もできたし、何より友達もできたから」


「だったら、こっちに戻ってきてもいいんじゃない? お友達とは手紙でも電話でも、連絡は取り合えるでしょう」


 月子が話し出すと、母親がそう言った。月子は思う、母は多分妹が遠くに離れて行ってしまって寂しいのだ。その代わりに月子を傍に置きたいのだろうが、あいつの代用品なんて絶対に嫌だ。


 それに妹がいた時は妹の味方ばかりしていたくせに、いなくなったらこっちにすり寄ってくるとか自分勝手すぎる。月子は表情には出さずに、内心で『フンッ』と鼻を鳴らした。


「それだけじゃなくて、身体の事も心配でさ。今の学校はすごく運動量が多いから、家に帰ってきて普通の生活をしてたら再度太ると思う。せめて高校まではあの学校に通って、自分がどれだけ動けば維持できるのかとか食事の量とか内容とか、そういうのをちゃんと把握したいの」


 そう言うと月子は頭を深々と下げて、引き続き高校も今の学校に通わせて欲しい旨をお願いした。正直な話をすれば、こいつらに頭を下げるなんて業腹でしかない。しかし、自分が望む生活を手に入れるためになら頭を下げる事など何てことはない、と月子は内心で自分自身を騙すように嘯く。そんな思いは副産物として声音に真剣さをプラスさせ、月子の更生を両親達に信じさせる結果へとつながった。


「そこまで言うなら、高校卒業まではこのままでいいでしょう。ねぇ、お義父さんもお義母さんも、先の事はその時に考えたらいいじゃないですか」


 これまでは厳しさしか見せてこなかった島の祖母がそう言って、街の祖父母の説得に回ってくれた。珍しい事もあるものだと思いながらも、月子にとってラッキーだったのは確かなのでその尻馬に乗って再度『お願いします』と頭を下げる。それが決め手になったのか、ようやく月子の高等部進学が本決まりになった。こんな奴らに頭を下げなければいけなかった苛立ちと、無理やりに心の奥底に閉じ込めた怒りがないまぜになった複雑な感情が、ため息として月子の口から漏れた。


 駅まで一緒に行こうかと誘われて、島の祖母と一緒に家を出る。街の祖父母は両親……というよりも母に島の祖母について文句を言いたいのだろう、まだ帰る気はなさそうだった。言いたい事があるなら本人に言えばいいのに、弱い立場の人間に不満をぶつけるなど本当に小さくて醜い奴らだと思う。


 会話もなく駅までの道を二人で歩いていると、祖母が真剣な視線を月子に向けていた。もう取り繕ったり媚びる必要もなかったのでこれまで通りに『……何?』と素っ気なく聞くと、祖母はフンと鼻を鳴らした。


「ずいぶんと猫を被るのが上手になったじゃないか、でもせめて私と別れるまでは従順な孫を演じてもよかったんじゃないかい?」


「おばあちゃんはそんなものを私に求めてないでしょ、外側だけ媚びて従順に見えたとしても私の中身はこんなだから」


「人間誰しもそうやって本音と建前を使い分けるもんさ、それでアンタが他人と波風立てずに生きていけるのなら、ばあちゃんはそれでいいよ。嫌われるのは慣れてるからね」


「……そうやって皮肉っぽく物を言うから煙たがられるんじゃない、あっちの伯母とかそっちの伯母とか向こうの伯母とか」


「月子、覚えておきな。姑なんてものはね、息子の嫁には嫌われるようになってるんだよ。下手に歩み寄って無理するより、言いたい事を言って喧嘩した方がお互いに楽なのさ」


 そういうものなのだろうか。実家を離れる前の月子は感情のまま他人だろうが家族だろうが自分の気持ちをぶつけていたが、楽どころか嫌われてばかりでそれが気持ちをささくれ立たせる事が多かった。スギさんはその辺の距離の取り方がうまくて、彼女と友達付き合いをするうちに他のクラスメイトとも問題なく話ができるようになってきている。


 他人とはそれなりの付き合いが出来るようになり始めているのに、家族とこんな風に嫌悪感しか残らない関わり合いしかできないのは、何故なのだろうか。それを理解できないのは、月子の人生経験が少なすぎるのか。それとも家族に対する悪感情が強すぎるのか、中学2年生の月子には判断がつかなかった。


 行き先が違うので、電車に乗るまで見送ってくれた祖母と別れて寮への帰途につく。祖母と話をして少しは解消されたのか、先程まで胸の中にパンパンに詰まっていた怒りや苛立ちはなく、学校の最寄り駅に着いた月子はすっきりとした気持ちで寮への道を歩き始めるのだった。

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