75――サイン帳と中学校からの呼び出し
無事に透歌も志望していた中学に合格したと聞いた頃には、もうすぐそこに3月が迫ってきていた。教室の空気は浮足立っていて、クラスメイトの皆が卒業と春休み、そしてその後に続く中学校生活を楽しみにしているのがよくわかる。
「すみれちゃん、サイン帳書いて!」
昨年も同じクラスだった女の子に、かわいらしいキャラクターが描かれたデザインの用紙を手渡された。そこには名前や住所・電話番号をはじめとして、趣味や好きな人みたいな高学年女子らしい項目が並んでいる。クラスどころか学年の女子が全員交換しているので、私も参加しないとは言えずに付き合いでサイン帳を買ってクラスメイトに配っているのだ。
前世でも卒業前に幼なじみの女の子達に書いて欲しいと渡されて書いた記憶があるのだけど、まさか私が配る側になるなんて想像もしていなかった。ちなみに私が買ったサイン帳はデフォルメされた猫の絵が描かれたものだったのだけど、その1冊も多分余るぐらいしか配らないんじゃないかなという私の楽観的な予想は裏切られて、後から追加で2冊も買い足す羽目になってしまった。だって女子の皆は『自分の用紙と交換して欲しい』って他のクラスの子までやってくるし、男子も『書いてあげてもいいけど』みたいな感じで強請ってくるから断りにくくて。
好きな人欄は最初の方は空欄にしていたのだけど、書き上げて返した際にブーイングされる事が続出したので、とりあえずはるかと透歌の名前を書く事にした。最初は『ちゃんと書いて!』と怒られる事がしばしばあったがきょとんとした表情で小首を傾げると、一転して何やら微笑ましそうな視線を向けられて仕方がないなぁと引き下がってくれる事が増えた。おそらく初恋もまだのお子ちゃま扱いされたんじゃないかと予想しているのだけど、実際に恋愛的な意味で好きになった人が前世現世を通じていないのだから、そういう風に思われても仕方がないなと諦めて受け入れている。
しかし今考えるとサイン帳も卒業アルバムの最後の数ページに記載される名前とか住所も個人情報が垂れ流し過ぎて、平成末期の倫理観を持っている私としてはとんでもなく恐怖を覚える。一応サイン帳を書いた子達にはあずささんや他の寮生に迷惑が掛かるから、他の小学校から進学してきた人達には教えないでねと口頭でお願いして、念の為にサイン帳の空きスペースにも同じ文言を記載しておいた。
私やはるかが今よりも芸能人として有名になった時に、住所を知った全く関わりのない人が面白半分で寮まで覗きに来たりしたら大変だもんね。寮には今のところ女性しかいないし、男性が敷地内に勝手に入って来たら怖いもん。一応はるかにもこの懸念を伝えて、私と同じ様にしてもらっている。神妙な表情で頷いていたところを見ると、私が話したもしもの事態に対する恐怖がちゃんと伝わったのだと思う。この時代はまだ女性が襲われたとしても女性の方が誘ったんじゃないかとか短いスカートを履いている方が悪いと、責任転嫁される程度には男尊女卑の傾向が強かった。つまりは自分達でしっかりと事が起こらない様に自衛するしかないのだ、自意識過剰だと思われてもすべき事をせずに自分や寮の誰かが襲われたりなんかしたら、後悔どころの騒ぎじゃないし。
ちなみにこの事は先に透歌にも相談して、透歌からも学年の女子全員に注意喚起してもらう様にダメ押しでお願いした。私みたいに限られた少数の人とばかり付き合っているとこういう学年全体へのお願いっていうのは難しいけど、他のクラスにも顔がきく透歌なら簡単らしい。私がはるかにした様な例え話をしてくれたみたいで、大抵の女子なら知らない人に自分の情報を預かり知らないところで勝手にやりとりされる気持ち悪さとその後に起こる事件への恐怖は解るのだろう。ほとんどの子達が約束してくれたと透歌が教えてくれて、とりあえずはひと安心できた。
そんなある日、私に学校に来る様にと進学先の私立中学から電話が掛かってきた。なんだろう、もしかしたら一度は合格を出したものの不合格になってしまったのだろうか。
漠然とした不安を抱えながら、これまた何故か一緒に呼び出されたあずささんと一緒にあずささん専用車に乗って中学校へと向かう。保護者代わりのあずささんまで呼び出すとなると、これはいよいよ合格取り消しかもしれない。どんどん悪い方向へと向かう考えを止められずにいると、隣に座るあずささんがクスクスと笑った。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。合格通知はちゃんともらったのだし、制服の採寸もしたじゃない。今更すみれを不合格にするなんて、そんなリスクの高い事はしないわよ」
なるほど、言われてみればその通りだ。合格だよって正式な入学手続きの書類まで送付した後に、やっぱり駄目って不合格にするなんて学校としての信用に関わる。だとすると、何で私が呼ばれたんだろう。あずささんに聞いてもわからないらしいし、学校までの道のりは本当に悶々とし続けていた。
到着するとすぐに学園長室に通されて、部屋で待っていた年配の男性とあずささんより少し年上の女性と挨拶を交わす。男性は学園長で、女性は理事のひとりらしい。多分あずささんが前に話していた知人というのが、この理事さんなんじゃないかな?
勧められて高そうな応接用ソファーに腰を下ろすと、何がそんなに楽しいのかニコニコと笑顔の学園長さんが私に声を掛けてきた。
「松田さんの様な将来有望な方が我が校に入学する事になって、我々教師陣もとても嬉しく思っています。是非とも松田さんにはこのまま研鑽を積んで頂いて、役者みたいな水物の仕事ではなく地に足がついた分野で名のある人に成長して欲しいですね」
告げられた言葉に突然だったからか、それとも脳が理解する事を拒否したのかはわからないけれど、何を言われたのかがまったくわからなかった。とりあえず私が演技の仕事を生業にしている事について否定された事だけはわかったので、この人は味方ではなさそうだなとなんとなく察する。
ふつふつと湧いてくる怒りに思わず衝動的に声を発しようとしたその時に、隣にいたあずささんが小さく居住まいを正して口を開いた。
「あら学園長先生、その水物の仕事で生活をしている私を前にしてよくその様な事をおっしゃりますね」
「いやいや、芸能界で大成功を収めていらっしゃる大島さんについてはまた論じる点が違うでしょう。私もまた教育者として芸能界を夢見て、その夢が破れて傷つく多くの若者達を見て参りました。その中には非常に明晰な頭脳を持った者もいて、もったいないと心から思ったものです。ナレッジワーカーとなりこの国を導いてくれていたら、そう考えるとその損失は非常に惜しいと。ですがご気分を害されたというなら、謝罪は致しましょう」
そう言って彼は頭を下げたが、慇懃な感じがあずささんを見下している様な雰囲気で非常に気分が悪い。私の表情にも不快が浮かんだのを察したのか、理事だと自己紹介した女性が冷ややかな表情で学園長を見据えた。
「城田学園長、この場は私が対応するので退席を。入学前の生徒を前にその態度は褒められたものではないでしょう、大島さんにも失礼です」
「それは失礼を致しました。松田さん、これからどうぞよろしくお願いしますね」
学園長はそう言うとソファーから立ち上がり、大島さんには挨拶もなく部屋を退室していった。『なんだあいつ』と内心では憤りつつも、とりあえず軽く会釈してその背中を見送る。私はあのおじさんと違って中身はちゃんとした大人だからね、ああいう凝り固まった人にいちいち怒っても仕方ない事は解っているから。できれば入学後もよろしくしたくないし、接触は最低限にしたいものだと思う。
彼が出ていった後少し間を開けて、それからペコリと理事さんが頭を下げた。
「当校のものが大変失礼をしました……ごめんなさいね、彼も昔は熱心な教育者だったのだけど。いつからか学歴至上主義の様な事を言うようになって、最近はそれが顕著でね」
理事さんの表情に苦いものが浮かぶけれど、深入りはできる事ならしたくないから素直に謝罪を受け取った。あずささんも同じ気持ちなのか、先を促す。
「改めまして、理事の深山と申します。理事の中では若い方だからこの学校関係の雑用ばっかりやらされてるので、松田さんになにか困った事があって教員が対応してくれなかった場合は、私に相談してもらえたら力になれると思います」
「よ、よろしくお願いします」
差し出された名刺を受け取ってから、私は深山と名乗った理事さんに頭を下げた。どうやら学園長と違って、深山さんはフレンドリーな感じに接してくれるみたい。部屋の中のピリついた空気が軽くなって、ホッと一息つく。
「個人の考えは色々とあると思うけれど、ああやって自分の考えを押し付ける様に話す方が学園長というのも問題ではないかしら。出資者としては、生徒達への影響が心配だと懸念を伝えさせてもらうわ」
「もちろん大島さんの意見は出資者としても、関わりのある子供を預ける大人としても正しいものだと思います。ご意見については理事で共有して、理事会での議題に上げる事を約束させて頂きます」
真っ直ぐにあずささんを見つめながらそう約束した深山さんに、あずささんは頷いてからこの話はこれでおしまいとばかりに『パン』と両手を一度打ち鳴らした。それは深山さんにも伝わったのか、雰囲気が柔らかくなった様な気がする。
「まずは松田さん、入試の結果あなたが首席と決まったので入学式で新入生代表挨拶をしてください。参考に昨年と一昨年の新入生代表挨拶の原稿を渡すので、内容を考えてみてね」
そう言えば入試で一番を取ると総代とか首席とか呼ばれて、みんなの前で挨拶させられたりするって前世でも聞いた事があった。もちろんまったく縁のない事だったので、そんな経験はまったくないのだけど。マンガとか小説だと高嶺の花の女の子がその役割を任されてるよね、私でガッカリされないかちょっとだけ不安。
でもテンプレートはもらえるみたいだし、カメラの前で演技する事に比べれば壇上で原稿を読み上げるだけならそんなに緊張しないかもしれない。気楽にやろうっと、予行練習もあるだろうしね。
「次はこれね、我が校には入試成績の首席から3位までの生徒に特別奨学金の権利を渡してるの。制服や教科書代みたいな雑多なお金は出してもらうけど、入学金と授業料などの諸経費は全額免除されるの。もちろん維持には厳しい条件をクリアしてもらわないといけない。でも、松田さんなら多分大丈夫だと思うわ」
特別奨学金、そんなに良い制度があるんだ。中学の授業料や入学料を節約できるなら、高校や大学に回せるお金が増えるもんね。定期テストの平均点や平常点・出席率などを高い基準でクリアするっていう条件は、仕事で欠席する可能性がある私にはすごく不利な気がするんだけど、どうなんだろう?
気になって質問すると、私が入学してテレビに出る事によって学校の宣伝にもなるので、仕事で欠席する場合に限り公休にしてもらえるんだって。それならテストを頑張って、授業態度や提出物なんかの当たり前にやる事をしっかりやればいいだけだから、多分条件はクリアできそう。
是非申し込みたい旨を告げると、深山さんはそんな私を微笑ましそうに見て申請用紙を渡してくれた。あずささんの同意や通帳・印鑑も念の為に持ってきていたので、その場で用紙に記入して受理してもらう事ができた。さすが私立の中高一貫校は太っ腹だなと思うのと、この学校を紹介してくれたあずささんへの感謝の気持ちでいっぱいになった。
高等部にも内部進学の際に上位3位には同じ特典が与えられるらしいので、そこに入れる様に目指そうかな。新しい目標ができるとやる気もこれまで以上に溢れてくる、これまで以上に役者業もしっかりとやって勉強も成績を落とさない様に頑張らないとね!
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