69――役に対する不安と乗り越える覚悟
撮影が開始されて3日程経ったけど、若干スケジュールに遅れが出ている。単純に各所への調整が必要だった2日分の遅れなら、役者陣ができるだけNGを出さずに撮影をこなしたり、余裕を持って設定している合間の準備時間を少しずつ詰めていけば撮影終了時には予定通りか若干巻いた状態で終わるなんて事も珍しくない。
では何故たった3日で遅れの兆候が出ているのか、それは件の石動さんが関係していた。事務所の社長であるダニーさんに演技はできるかと聞かれて、それ程深く考えずに『できらぁ!』と答えてしまった彼なのだけど、素人が監督の要求を満たす演技をいきなりこなすなんて不可能に近い。撮影開始まで時間がなかったのに台本にある自分の台詞をしっかり覚えてきた事にはスタッフと演者も好感を覚えたが、自分のせいではない他者からのNGで撮影がいちいち止まるというのはなかなかストレスが溜まるものだ。
まだ序盤だから私も彼とセットで撮影するシーンは少ないのだけど、その度にリテイク回数が二桁を超えられるとため息ぐらいは漏らしたくなる。もちろんちょっとだけイラッとしたりもするけど、そんなのを表面に出しても現場の空気を悪くするだけだからちゃんと隠している。
それに石動さんも自分が至らないのをちゃんと自覚してるのか、スタッフさんや他の演者さん達へ頭を下げて努力と誠意を見せる事を欠かさない。具体的には監督達と自分が演じる役柄について理解を深めようと休憩時間に質問に行ったり、年上の俳優さん達にどうすればうまく演技が出来るのかを指導してもらいに行ったり。前世の平成末期なら努力よりも結果を出せというタイプの人が多い世の中だったけれど、昭和の空気をまだ引き摺りつつ進んでいる現世の今はまだ努力して現状を改善している人を正しく評価する人が多い。
特に中村さんは石動さんを気に入ったのか、自分の休憩中に台本片手に熱血指導している姿をよく見かける。決して冷たい視線を向ける洋子さんの存在から逃避するためではないと思いたい、というか一緒に食事する機会が多い私が一番割を食うのでさっさと仲直りしてほしいんだけどなぁ。
そんな事を考えていると、石動さんが手を振りながらこちらに近づいてきた。半歩後ろぐらいにスーツ姿の男性の姿がある、話に聞いたあのどうしようもないマネージャーさんだろうか。
「すみれ、ちょっといいかな? いい機会だから新しいうちの担当マネージャーを紹介しようと思って」
「……ああ、前のマネージャーさんは解任されたんですね」
「解任どころか解雇だってさ、結局ダニーさんのところにも連絡がうまくできてなかったもんだから、とんでもない雷が落ちたんだよ。デスクから各所に連絡事項が行き届く様に改革するんだと」
トップの意向で即日解雇が許されていた時代って怖い、思わず苦笑しながら相槌を打つと、石動さんの後ろからスーツの人が私に両手で名刺を差し出してきた。
「この度は弊社の至らなさによって大変なご迷惑をお掛けしました、松田さんにはそれ以外にも石動を諭して頂いたりしたそうで感謝の念に堪えません……申し遅れました、私は新しく彼らのマネージャーになりました坂本と申します。どうぞよろしくお願い致します」
七三分けに黒縁メガネ、それにお辞儀のきっちりした角度からも新マネージャーの坂本さんがきちんとした人だというのは伝わってくる。でも第一印象はなんだかロボットみたいと思ってしまった私を誰が責められようか、背後に立っている洋子さんの顔をチラリと見ると多分同じ感想を抱いたのか、私と同じ様な表情を浮かべていた。
「松田すみれです。ごめんなさい、今名刺の手持ちを切らしていまして」
「何言ってるのよすみれ、あなた名刺なんて持ってないでしょうに」
坂本さんの礼儀正しさに引っ張られて、前世で少しかじったビジネスマナー通りに言葉を返すと、洋子さんがくすくす笑いながらそうツッコミを入れてきた。
「御社では幼い子役の方にまでしっかりとタレントにビジネスマナーを教えていらっしゃるんですね、素晴らしいです」
「いえいえ、社内ではマナー講習もたまにありますけど、タレントには最低限の礼儀ぐらいしか教えていないのですが……すみれ、あなたどこでそういう知識を仕入れてくるの?」
なんだか疑わし気にこちらを見る洋子さんに、地元にいた頃に図書館でビジネスマナーのハウトゥー本を読んだのだと告げた。前世の知識もあるけど、実際にそういう本は図書館でたくさん読んだから嘘はついていない。インターネットで欲しい知識を狙い撃ちするのは便利だったけれど、図書館で雑多な本の中から興味や知識欲を感じる物を探すのは結構楽しかったんだよね。
「すみれちゃーん、そろそろ本番なのでスタンバイお願いしまーす!」
4人で他愛もない話をしていると、少し離れたところでスタッフさんが手を振りながらこちらに呼びかけた。最初は違和感があった底上げのローファーにも随分慣れた、いつもよりちょっと視線が高いのが気持ちがいい。
身にまとっているのは白のブラウスにオーソドックスなグレーの事務服らしいベストと細身の紺色スカートなんだけど、どう考えてもコスプレにしか見えない。髪型は地味な感じを出す為に後ろに引っ詰めて無造作にお団子にまとめている。ただスタイリストさんがちゃんとプロの腕でセットしてくれたので、適当に見えてしっかり整えられているんだけどね。
最後に薄ピンク色のカーディガンを羽織って、準備完了だ。スタジオの中心へ向けて歩いていくと、オフィス内を模したセットが目に入る。平成末期とは違ってパソコンなどがデスクの上には全く載っていなくて、書類やマニュアルをまとめたファイルフォルダが本棚の様にいくつも並べられている。ノートパソコンやデスクトップパソコン本体とモニター・キーボードに机の上が占領されていても書き物なんて殆どないから仕事は全然できていたけど、手書き仕事が多い今の時代の方が窮屈で作業に支障をきたしそうな気がする。
ドライやカメリハとは違う、本番ならではの緊張感。先に定位置に着いている役者さんに会釈で挨拶して、書類の束を手に取る。これから撮影するシーンは、私が色々な同僚の人達から質問を受けて、それに移動しながらキビキビと答えていくというシーンだ。余裕を持ってこの書類棚の前から自分の席までスマートに歩く必要があり、私は胸中で『自分は仕事の出来るOLなんだ』と暗示を掛けながら合図を待つ。
監督がシーン数を告げ、スタッフがカチンコを鳴らした。まるでそこが本当のオフィスの様に電話が鳴って、対応する声や他にも同僚同士で相談している声などが現場を満たす。
「柏木さん、ここなんだけど……」
「先方から先日連絡を頂き協議した結果、価格は据え置きになっています。その数字のままで結構ですので、文書課へ正式な契約書の作成を依頼してください」
「柏木、3番に電話が入ってるぞ。大塚商事の吉村さん、出られるか?」
「申し訳ないですが先に連絡しなければいけない案件がありますので、それが終わってからこちらから折り返す旨を伝えてください。遅くとも30分以内には掛け直します」
「柏木さん、明日までに送らなきゃいけない請求書なんですけど、どうしても数字が合わなくて」
「後で手伝うから、とりあえずもう一度最初から落ち着いて計算し直して。そういう時って大体の場合が計算間違いが原因だから、慌てず落ち着いてね」
矢継ぎ早に用件を告げてくる同僚をちぎっては投げしながら、私は自分の席に設定されているデスクの前までようやっと辿り着き、ガシャガシャと音が鳴る事務用の椅子に腰を下ろして小さくため息をついた。そして休む間もなく受話器を取って、外線ボタンを押すふりをして内線ボタンを押して、適当な番号をプッシュする。
受話器からは何の音も聞こえてこないけれど相手の反応があった事にして、電話の向こうにいる人の台詞を想像しながら間を置いて、不自然にならない様に台本通りの台詞を元に電話対応をしている演技をする。
「お忙しいところ恐れ入ります、村山産業の柏木と申します。お世話になっております、営業部の立花さんにお繋ぎ頂けますでしょうか?」
それから間を少し開けて、電話対応ごっこを再開する。殆どアドリブで言葉をつなげていると、ようやくカチンコが鳴って監督達が今撮影した映像をチェックする。そのまま待つ事少し、監督からOKが告げられてホッと小さく安堵の息を吐いた。
「すごいな、すみれちゃん。見た目はアレだけど、よくあんな台詞を自然に言えるもんだ」
「オレは普通に就職した事ないんだけどさ、仕事の出来るOLってこんな感じなんだろうなって納得しちゃったよ」
「そうよね、見た目はアレなんだけど演技力のおかげでどこからどうみても丸の内とかにいそうなOLさんに見えるわ」
見た目がアレっていう言葉が枕詞になっているのはすごく納得いかないけれど、演技力を褒められるのはすごく嬉しい。ありがとうございます、と返事をしてから洋子さんのところに戻る。
「よかったわよすみれ、事務所でデスクの人達の対応を見学したのが活きたわね」
ポンポンと頭を撫でながらそう言う洋子さんに、私は笑みを浮かべながら頷いた。前世の経験だけでもちゃんと社会人っぽく演技をする自信はあったのだけれど、それだけだと不自然に思われる可能性もあるのではと不安になった為、放課後に数日間に渡って仕事の仕方とか電話対応とかを見学させてもらったのだ。新たな発見や学びもあって楽しかったし、これまで以上に内勤の人達と仲良くなれたのもよかったと思う。
「一発OKとか本当にすみれはすごいな、オレも皆に迷惑掛けない様に練習して頑張らないとな」
着慣れないスーツ姿でそう意気込む石動さんに、頑張れとエールを送る。ただCHANGEの時は主人公に共感したり境遇が似ていたりしていたので、スムーズに撮影をこなせた感はある。でも今回の主人公は生粋の女性だし男性相手に恋愛感情を覚えて悩むなど自分自身とはかけ離れているところがあるので、そこに主観を織り込んでうまくキャラクターを自分の物にできるのか手こずる様な気がするのだ。
そもそも私が演じる柏木早紀さんは、仕事はできるけれど発育不全でこれまで男性と付き合う事もなく真面目に生きてきた23歳の女性で、石動さん演じる同い年の新入社員の面倒を見る内に恋愛感情を抱くという単純そうで中々に難しい役どころだ。上辺だけなら今の状態でもうまくやれる自信はあるけれど、それではすぐにハリボテだとバレてしまう。あずささんがいつも言っている様に、感情の籠もった演技をみんなに見せたい。
台本をもらってから撮影が始まるまでにも演技を煮詰める為に役作りをしていたけれど、撮影が始まってからの方がセットや他の役者さんの演技を見てより明確に自分の役や彼女が置かれている状況や心情などが伝わってくる様になった。
そこから更に想像力を膨らませて、できる限りこの役を自分の物にしなければいけない。私は右手をぎゅっと握って、決意を新たにするのだった。
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