閑話――記者との対面


「これはまた……」


 目の前にそびえ立つ巨大な建物に、俺は思わず呟いた。今更自分の身なりやそれが他人に与える印象などを気にする程真っ当な人間ではないが、さすがにこのホテルを前にすると若干の不安を覚える。そもそも相手からの電話でホテル名を聞いたはずだったのに、聞き流してしまった俺が悪い。かろうじて住所は書き留めていた為に着く事はできたが、下手したら何もかもご破産になってた可能性すらある。


 舐めて掛かると痛い目を見るぞ、という相手からのメッセージだと受け止めて襟を正した。ああ、確かに舐めてたさ。そしてこのまま帰った方が痛い目を見なくて済むと、本能が警報を発していた。俺も普段ならそれに従って踵を返すところだが、残念ながら立っている場所が崖っぷちだ。このまま借金を返せなければコンクリートに詰められるか海に沈められるかするだろうし、その借金を返せるだけの金が目の前に餌として吊るされているのだ。食いつかないという選択肢は、俺には残されていない。


 それもこれも俺を罠に嵌めて前科をつけたあいつのせいだ、と奥歯をグッと噛みしめる。芸能記者として様々なスクープを連発し名をあげていた俺は、とある筋から超大物芸能人が暴力団と繋がって黒い交際を続けているという日本全体を揺るがすスクープ情報を手に入れた。芸能界を裏で牛耳っているボスの様な人間だ、記事にして公表すれば様々なところに影響が出るだろう。


 今であればあちらに情報を渡す前に警察に垂れ込んで裏で捜査を進めてもらう方法もあったのだが、若かったあの頃の俺は真正面から相手のところに乗り込んだ。そして何をトチ狂ったのか、今後暴力団との付き合いを断ち切って真っ当に生きればこの記事を公表しない旨を伝えた。芸能記者など他人のゴシップで飯を食ってるハイエナみたいな輩だ、その一員である俺が何を偉そうに正義ぶった事をのたまったのかと今では思う。しかしこの時の俺は芸能界の腐敗や闇の濁った部分を変えられると本気で信じていた、これはその第一歩なのだと。


 少し考えさせて欲しい、と記事を突きつけられた男は言った。さすがにその場で答えを求めるのは憚られ、数日以内に答えが欲しいと言い残してその場を後にした。しかしそれが甘かったのだ、彼はあっという間に俺を陥れる為に動き、いつの間にか俺がスキャンダルを盾に彼を脅迫したという作り話が事実としてでっち上げられていた。


 味方だと思っていた人達にも裏切られ、ご丁寧に脅し取ったとされる1000万円の現金が俺の銀行口座に振り込まれていた。何故彼が俺の銀行口座の詳細を知っていたのか、つまり仕事関係で繋がっていた奴らにも裏切り者がいたのだ。警察も買収されたのか、それとも彼が長年積み重ねてきたイメージの勝利か、一方的にあちらの言い分が通って俺は1年と半年刑務所に入れられた。初犯なら罰金刑で済まされる可能性は高かったのだが、金額が高額だった為に悪質性を認められて実刑という判決が下ってしまった。


 控訴もしてみたが棄却され、俺は刑務所でお務めを済ませた後にシャバへと戻ってきた。しかし前科を持つ者への世間の風は冷たく、仕事に困り借金を重ねギャンブルにのめり込む様になった。そんな俺を見かねて今のコーナーを任せてくれたのが昔なじみの先輩なのだが、誰でもできる様な仕事に安い報酬。真面目にやるのも馬鹿馬鹿しく思え、俺はもう真っ当な人間ではないんだろうなと自分でも自覚した。


 駆け出しの取材対象やその家族から1万や2万の少額を脅し取っていたが、段々と借金の額が膨らんでいった。正規の貸金はもう金を貸してくれなくなり、バカみたいに高利な貸金に手を出す様になった。返済が滞る様になったら取り立てが酷くなり、こうなったら強盗でもやるかと思っていたら、とあるネタが飛び込んできた。


 内容としては最近人気急上昇の子役が、実は超わがままで実家では姉をイジメたりやりたい放題の悪童だったという取るに足らない微妙な小ネタだった。彼女の出ていた番組をいくつか見てみたが、見目も良く礼儀も正しくとてもそんな悪童には見えない。このまま知名度を上げて成長すれば人気女優になる事も夢ではないだろう、自分でも褒めすぎだと思ったが彼女にはそれ程の将来性があると感じた。そこでひとつの策を思いつく、素人の俺ですら気付くのだ。事務所としてはこの少女を売り出して長く芸能界で人気を博して欲しいだろう、微妙なネタとは言えゴシップは歓迎しないと思われる。


(……もしかしたら大金を搾り取れるんじゃないか?)


 とにかくこちらに都合のいい、できる限りの大金を脅し取れる情報を求めて彼女の地元を彷徨った。しかし聞けば聞くほど話が違う、どこかで話が入れ替わったのか。それとも悪意あるライバル事務所がわざと彼女と姉の立場を入れ替えて噂を広めようとしているのか、そんな事を考えてしまう程耳に届く声は最初に聞いていた話と齟齬があった。


 彼女が姉に酷くイジメられて、小学校3年生の時にオーディションで才能を見出されて地元から東京へと上京したらしい。しかもそのオーディションすら妹の見目の良さを憎々しげに思っていた姉が勝手に応募したというのだから、姉の性根の悪さはこのエピソードだけでも想像できる。


 育ってきた環境に同情するが、俺にも引けない事情があるんでね。嘘であっても、この記事をできるだけ悪辣に見える様に脚色してでも完成させる必要がある。そこで彼女の姉と仲が良かった子供がいる家を探し出し、何人かの子供の証言を膨らませて記事を作るための材料を集めた。さて、記事を書いて相手に接触してみるかと思った矢先、相手の方から連絡してきたのにはびっくりした。


 担当マネージャーを名乗るその女は、電話ではまだ若い感じの声だった。こちらが強めの口調で嘲る様に金銭を要求すると、『上司に確認しないと……』と弱々しい感じで答えていたので、おそらくまだ新人の域を出ていないのだろう。こちらもこの電話ですんなり500万円もの大金が出てくるとは思っていない、折返しの連絡を待つ事にした。


 その後、直接会って話がしたいと言われて本日この場を指定された訳だが、まさかこんな高級ホテルを指定されるとは。緊張しつつも伏し目がちにロビーを通過し、指定された部屋へとエレベーターに乗って向かう。


 部屋の前に立ってノックするとドアが開き、中から20代と思しき女が姿を現した。こいつが電話で話したマネージャーだろうか、電話の時とは違って堂々と落ち着いた様子からすると、社長の秘書かもしれない。


 案内されるまま中に入ると、スイートルームとまではいかないが中々高級感のある部屋だ。単純に考えるとこちらを持て成して記事を出さない様にして欲しいというメッセージという事も考えられるが、俺はどこか釈然とせずに頭の中で鳴り響く警報音が更に大きくなっている事に危機感を覚える。


 秘書らしき女は俺に席を勧めると『社長を呼んでまいりますので、少々お待ち下さい』と言い残し、隣の部屋へと続いているであろう引き戸を開けて中に入っていく。少し落ち着くためにテーブルの上に用意された紅茶へと手を伸ばした。俺には紅茶の良さは判断つかないが、おそらくティーバッグではないのだろう。なんとなくだが香りが違うのが、庶民の俺でもわかる。


 こうして高級な部屋でいい茶を出して俺をもてなすあちら側の意図を考えると、こちらの金銭要求に前向きなのかとも思える。子役の彼女の所属事務所はあの大女優である大島あずさの個人事務所で、確か社長は雇われの一般人だったはずだ。さすがに大島あずさが目の前に出てきたら怯むが、一般人ならそこまで怖くはないだろう。


 俺がそうやって自分を落ち着かせていると、先程の秘書が入っていった引き戸が開き、彼女が再び姿を現した。それはいいのだが、問題はその後ろに現れた人物だ。出てくるはずがないとタカをくくっていた大女優が穏やかな微笑みを浮かべてこちらへと近づいてくる。思わず高そうなティーカップを落としそうになり、慌ててなんとか落下を阻止する。そして腰を浮かそうとする俺を、大島あずさは穏やかな視線で制した。


「あら貴方、どこかでお会いした事があるかしら……まぁいいわ、どうぞそのままお座りになってて頂戴」


 彼女は俺にそう言うと、優雅な所作で対面のソファへと腰を下ろした。秘書らしき女は大島あずさの背後に立っている、チラリと背後のドアへと視線を向けると先程までいなかったスーツ姿の男が扉を守る様に存在していた。これではまるで俺を部屋の外に出さないための門番じゃないかと、背筋が寒くなった。


「さて、井上孝之さん。栄光社の週刊現実の記者さんらしいわね、私の事はご存知かしら?」


「……存じ上げてます、大島あずささん。もう10年ほど前になりますが、出演されてた映画作品の試写会などで取材させて頂きました」


「そう、あの頃の私はまだ若輩者だったからかしら、貴方の様な人でも取材に参加できたのね。今はある程度、こちらで記者の方を選別させてもらってるのだけど」


 なるほど、言外にこちらを貶してくるあたり、大島あずさもかなりお怒りらしい。俺が底辺記者だというのは同意だが、言われっぱなしよりも強気で話す方が交渉もうまくいくのではないかと、意を決して口を開いた。


「大島さんが事務所の社長に就任されたんですね、以前は別の方が社長をされていたと記憶していますが」


「彼なら副社長として今も私の補佐をしてくれていますよ、私も以前よりも仕事を選べる立場になりましたからね。時間がある程度自由になるなら、私の事務所なのだから私自身が責任者になるのは当然でしょう?」


 チクリと『ご自身で社長業に精を出さないと回らないのか、以前の社長には逃げられたのか?』と聞き方に毒を含ませて尋ねてみたが、サラリとそつなく返されてしまった。


「それではそろそろ本題に入りたいのですが、よろしいでしょうか?」


 コクリと紅茶で喉を潤してから大島さんがそう言うので、俺も静かに頷いた。長くいたい場所ではないし、この様子では現金の授受など了承してもらえないだろう。なるべく言葉には気をつけたつもりだが、脅迫として警察に届けられるのはマズい。いや、どちらにしろここで金が手に入らないなら人生が終わってしまうのだから警察の方がまだ安穏とできるかもしれないが、前科が2犯になるのはキツイ。世間の目も、そして俺のプライドとしても。


「貴方が主張している我がプロダクションの子役に対する誹謗記事は捏造である、と言わざるを得ません。井上さん、それはあの子の故郷で住まわれている方々の生の声を聞いた貴方が、一番わかっている事ではないですか?」


「既に貴方に立場を入れ替えた作り話をした住人の方々とは、お話し合いが済んでおります。今回の話次第では名誉毀損で法的な措置をする事、貴方から話の方向性を誘導された事を証言して頂く予定になっています」


 大島さんと秘書の女の言葉に、平然とした顔を作りながらも突破口を探すためにがむしゃらに頭を働かせる。とりあえずこちらからそういう話を要求した覚えはない、ときっぱりと答える。


「まだるっこしいのは面倒なので結論から言えば、こちらは貴方の金銭要求について断固として拒否します。そちらが記事を世に出すというのなら、こちらは正当な権利として名誉を毀損されたと法的に訴える事はもちろんの事、脅迫についても警察に被害届を提出します。記事の内容については徹底的に否定しますし、必要であれば本人が釈明のための記者会見をしたいと言っていますから、その希望を叶えたいと思っています」


 ひとつひとつ丁寧に話しながらニコリと笑みを浮かべる大島さんだが、こちらに向けられる目は笑っていない。そして視線を秘書に向けると、秘書の女はテープレコーダーを取り出した。再生ボタンを押し込むと、そこから自分の声とあのマネージャーの声が聞こえてくる。


 だがこういうやり方で金を得ようとしている以上、俺だって少しは法律や裁判について調べている。それに相手の了承がない録音については、刑事罰の証拠には採用できないと教えてもらった。刑務所の中で知り合った男だが、それなりに裁判や法律に詳しいと言っていたから根拠のない話しではないのだろう。


 だが俺がその事を告げて反論すると、大島さんは深いため息を吐き出した後、見下す様な視線をこちらに向けた。


「私も根拠なくこんな事を言わないわ、ちゃんと複数の専門家に尋ねました。高裁の判断では秘密録音された音声でも、証拠能力は否定されないそうよ。例えばその証拠が改ざんされていたり、暴力や拷問などで無理やりその内容を言わされていない限りはだけどね」


「……そのテープが改ざんされていないという証明は?」


「捜査当局が調べればわかるでしょう、手を加えればどうしても不自然な音が入ったり背後の雑音が途絶えたりするらしいわよ。プロからすれば一目瞭然みたいだから」


 まるで頑丈な壁を相手に交渉している様な、そんな大島さんとの交渉に俺は降参する様に両手を挙げた。


「わかりました、俺の負けです。記事を出さないとお約束すれば、全てを無かった事にしてもらえるのでしょうか?」


「全てを、というのはちょっとムシが良すぎないかしら? もちろん、こちらの提示する書類に署名捺印してもらいます」


 テーブルの上に広げられたのは、今後俺が大島さんの事務所に所属するタレントや従業員に対して中傷記事を書いて公表しない事や、今回の事を逆恨みして子役の彼女に直接的間接的を問わず危害を加えないという内容が誓約書として書かれていた。もちろん、今日こうして大島あずさと会って会話した事を他言しないとも記されている。


 もちろん俺としてもこれ以上欲をかいて墓穴を掘っても状況は良くならないと分かっているので、素直に記名して拇印を押した。他には今回の事実を公正証書として残す事に承諾する書類と、公証役場に提出する見本にも事実に相違ないと署名捺印を求められたのでそれに倣う。


「素直に署名した事に免じて、今回は見逃しましょう。ただ、次になにかあれば徹底的に潰します。以前に貴方を嵌めた彼と同じぐらいの事は私にもできますからね、胸に刻んでおいてください」


 昔の事を言われて、カチンと来た。他人の人生を簡単に潰せる程の権力を持つ人間特有の驕りが、俺の神経を逆撫でする。それに比べたら醜聞で他人を脅して小遣いを得るぐらい、なんて事もないじゃないか。


 ただここでそれを口に出せば、俺の立場が更に窮地に追いやられる事は火を見ることより明らかだ。グッと奥歯を噛んで、腹の底にマグマの様な怒りを追いやる。しかしそんな俺の感情は彼女にはお見通しだったのか、不敵に笑って言葉を続けた。


「貴方のその怒りはもっともだけど、それは貴方を陥れた人間にだけ向けられるものであって、こちらに向けられても困るわ。後、貴方の生活が出所後ドンドン苦しくなっていったのは、貴方が現在の状況に絶望して自分から怠惰な生活に堕ちていったからでしょう? 貴方の借金、ギャンブルや飲酒が無ければそこまで膨らまなかったはずよ」


 大島さんは耳に痛い正論を言うと、控えていた秘書に『呼んで頂戴』と声を掛けた。秘書の女はその指示に従って隣の部屋へ入っていき、すぐに戻ってくる。その後ろに俺が見知った人間を連れて。


「……杉先輩」


「俺は今、お前をぶん殴りたいと思ってるよ。クズになっちまったお前と、そんなお前を今日まで信用してきた俺自身をな」


 俺を睨みつけてそう言った先輩は俺から視線を外して、大島さんの方を向いた。そして深々と頭を下げて、俺の事を詫びる。


「この度は後輩がとんでもない事をして多大なご迷惑をお掛けしました、それなのに温情を頂き、本当にありがとうございます」


「お詫びは先程も頂きましたから、もうよろしいですよ。それよりも、今後は真剣に彼の事を監視しつつ見守って頂ければと思います」


 杉先輩は前科がついた俺の周囲から人がいなくなった時に、最後まで目を掛けてくれた先輩だ。今の仕事だって、先輩が副編集長だった時に都合をつけてくれて自分の担当雑誌の編集部に入れてくれて、なんとか俺は金を稼ぐ手段を手にしたんだった。感謝していたはずだった、それなのに自分の不遇ばかりに嘆いていつの間にかそんな気持ちを見失ってしまっていた。


 俺のために頭を下げてくれる先輩に、これまでの自分の行いに後悔の念が溢れ出す。それが涙となって溢れ出し、ボロボロと止まらなくなってしまった。


 そんな俺の様子を先程よりも和らいだ瞳で見ていた大島さんは、秘書になにか声を掛けると小さな紙切れを受け取った。そしてそれを俺に差し出すと、柔らかく笑った。


「詳細は知らないけど、貴方が借金で首が回らなくなっている事は調べればすぐにわかりました。もしも心を入れ替えて真面目に前を向いて生きようと思うなら、ここへ行って相談なさい。これを見せれば、無下に断られる事はないでしょう」


 大島さんから渡された名刺は、弁護士のものだった。裏には大島さんのサインと『どうか力を貸してあげてください』とメッセージが書かれていて、大島さんが紹介してくれている事がわかる。正直なところメチャクチャありがたい、先輩に迷惑を掛けない様に立ち直るためにも是非力を貸してもらいたかった。


 先輩に付き添ってもらって、部屋を出てホテルを後にする。しばらく無言で歩いていると、先輩は小さく『あの人は怖いぞ』と呟いた。


「怖い、ですか? 俺はこれからの道を示してもらえましたが……」


「お前がちゃんと立ち直れば何事も起こらないが、そうならなかった時のために俺を監視役に置いたんだ。弱みも握られてて絶対に逃げられないから、お前の事は全力で見張らせてもらうぞ」


 顔を青ざめた先輩の様子から、余程の弱みをあちらに握られてるのだろうなと察した。大島さんなら俺の事を栄光社の上層部にバラして、世間にも同情を訴えて徹底的に潰す事も可能だろう。そうなったら先輩も身の破滅だ、そうならない様に俺も挫折せずに全力で前を向かなければ。


 俺が気合を入れ直していると、先輩が苦笑して俺の背中を軽く叩く。このホテルに来るまでは陰鬱な気持ちで自暴自棄になっていたのに、今はまるで目の前のモヤが晴れたかの様に世界がキレイに見える。まだ何も俺を取り巻く状況は変わっていないが、こうして俺を見守ってくれる人もいる。その為に頑張ろう、本当に生まれ変わった様な決意で。


 見えないだろうが、俺はホテルの方に向かって頭を深々と下げた。いつか俺が更生した時に、大島さんにお礼を言えたらいいなと思う。その日を目標に、家に帰った俺は早速もらった名刺に書かれた電話番号に電話を掛けたのだった。

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