閑話――正孝の認識


「ラッパ、シンコペーション丁寧に。リズム隊はこっちをよく見て、君達がズレると全部のリズムがダメになるから」


 指揮棒で指揮台を乱暴に叩く顧問の指示に、俺達は『はい!』と揃って返事をする。そして再び顧問が指揮棒を構えるのを見て、俺はトランペットを構えてマウスピースに唇を当てた。


 譜面を立て掛けている譜面台には、すみれからもらった白いリボンが結びつけてある。これを見るだけでどんなに緊張していても、どんなに苛立っていても平常心に戻れるのだから不思議だ。ただ色が白なので、少しだけ薄汚れてしまっている。そろそろ手洗いするべきか、ただ恋人からもらった大事なものだから変に形が崩れてしまうのも困る。


 内心ではそんな事を考えているとはおくびにも出さず、俺は指揮に合わせてピストンバルブを押し込んでから唇を震わせた。


 すみれとの初対面がどんな風だったのか、俺は覚えていない。何故なら彼女は物心ついた時から一緒にいて、俺にとっては家族以外で大事だと思える唯一の存在だったからだ。


 家族である姉に疎まれて冷たく当たられているのに、すみれはその事に対して恨み言も言わずに健気に耐えていた。でも耐えるだけじゃなくて、間違っている事には『それは違う』と理性的に言い返せる芯の強さも彼女は持っていた。そんなすみれを兄の立場で見守っていた俺は、いつの間にか可愛い妹分ではなく愛おしい女の子としてすみれの事を見ている事に気付いた。


 ただ、急いでこの想いをすみれに伝えるつもりはなかった。幼い彼女にはまだ恋とか愛とかそういう気持ちはよくわからないだろうし、伝える事によってすみれを戸惑わせるのは俺の自己満足でしかないと考えたからだ。


 これからも俺が離れなければずっと近くにいられるだろうし、ゆっくりとすみれとの絆を深めていこう。そう思っていた矢先、すみれが東京へ引っ越すという話が飛び込んできた。まさにそれは青天の霹靂で、すぐにでもすみれに本当の話なのかどうかを確認したかった。けれども、すみれの口からそうだと肯定されてしまったら……そう思うと足が竦んでなかなか踏み出す事ができなかった。


 すみれに直接話を聞けたのは、情けない事に彼女が東京に発つ数日前だった。うちの家族はすみれの事を可愛がっているから、我が家に東京へ旅立つすみれを招待して送別会を開いた夜。俺はなんとか平静を装ってすみれを外に誘い出し、すみれの本心を尋ねた。俺の問いにすみれは真っ直ぐな目で『東京へ行く』と答え、どうしようもなく寂しくなった俺はすみれを抱き寄せてみっともなく行かないでくれと縋った。


 そんな俺にすみれは誤魔化しもせず、真っ直ぐに自分がやりたい事を見つけたから絶対に行くのだと告げた。その意思の強い眼差しにドキンと心臓が跳ねる、多分この時俺は同じ相手に二度目の恋をしたんだと思う。すみれの魅力で頭が真っ白になりながらも『俺がやりたい事を見つけた時に話を聞いてもらう』という約束を取り付けた事については、よくやったと自分を褒めてやりたい。


 この時、感極まって思いっきりすみれを抱きしめてしまったのは俺達二人だけの秘密だ。いい匂いがして細っこいのに柔らかくて、ずっとこの腕の中にいてくれたらいいのにと願わずにはいられなかった。


 すみれが東京に行ってからは時々手紙をやり取りしていたが、お風呂で遊ぶおもちゃのCMにすみれが出ていた時は思わず通話料金の事も考えずにすみれが住む寮に電話を掛けてしまった。胸や下半身などの大事なところは隠されていたが、白くてキレイな肌やほっそりとした鎖骨を見ると良からぬ事を考える野郎どもも出てくるかもしれない。


 少し説教臭くなってしまったかもしれないが、俺が切々と危険性を説明するとすみれは素直に『ごめんなさい』と謝ってくれた。どんな仕事をするのか、おそらくすみれに選ぶ権限はないだろう。大人に言われてその通りに仕事をしているに過ぎない。そんなすみれを責めたところで仕方ないと思った俺は、『嫌な事は嫌だって言わないとダメだぞ』と締めくくるとすみれは明るい声で『ありがとう』とお礼を言ってくれた。今回は喜んでもらえたみたいだけど、しつこく言い過ぎて鬱陶しく思われない様に気をつけないと。


 その後すみれは教育ドラマで主役級の仕事をしたり、雑誌のモデルをしたりと段々とその露出を増やしていった。芸能活動を始める前から地元でも可愛いと評判だったすみれは更にその魅力を増していて、地元に残されている俺としては誰かに横から掻っ攫われないかという不安を常に抱えていた。


 そんな不安に追い立てられるかの様に、俺はやりたい事を見つけようと中学に入学すると同時に以前から興味があった吹奏楽部に入部した。金管楽器の花形とも言えるトランペットパートに配属された俺は、すみれに釣り合う男になる為にがむしゃらに練習した。するとその努力が認められたのか、入部して数ヵ月後のコンクールでセカンドパートを任せてもらえる事になった。ファーストパートはトランペットらしい高く抜ける音を出して演奏に色をつける花形だが、セカンドパートはファーストの音に厚みを与えて支えるのが仕事だ。もちろんサードもパート全体の縁の下の力持ちとしての重要な役割はあるが、セカンドがしっかりしていないとファーストもサードも活かせなくなるという責任の重いポジションなのだ。


 結果としてなんとか関西大会で金賞を獲る事はできたが、残念ながら全国大会に進むことはできなかった。別に主役になって目立ちたい訳ではなく、パートを支える職人の様な役割であるセカンドが気に入った俺は、コンクールが終わった後も自分の実力を上達させるために練習に精を出した。少なくとも来年はファーストを担える先輩がいるし、俺は基礎力を上げながらセカンドとして次期主力になれる様に経験を積む事を考えた。


 そうしていると、ひたむきに練習している姿がストイックでカッコいいと先輩や同級生に告白される様になったのだが、もちろんきっぱりと断った。俺にとっては恋愛的な意味で視界に入っているのはすみれだけであって、申し訳ないが他の同年代の女子などまったく眼中にないのだから。


 ゴールデンウィークやお盆も帰ってこなかったので年末年始ぐらいは戻ってくるかなと期待していたが、残念ながらすみれは帰省しなかった。それというのもすみれの姉である月子を刺激しない為におばさん達が地元に近寄るなとすみれに言ったらしいのだが、何故あのわがまま女のために何も悪いことをしていないすみれが割を食わないといけないのか。最近はまったく会話をした事もないが、地元を離れるべきだったのは月子の方だったのではないかという思いは日に日に増していく。


 毎年行われている部の定期演奏会や地元の消防団の出初式など、演奏経験を積むにつれて自分の実力が上がっているのがわかる。先輩の卒業式では自分の力を出し切って、満足のいく演奏をする事ができた。ただ吹奏楽というものはチームで行うものだ、トランペットパートの実力だけが突出してもバランスが悪い。チーム一丸になっての実力向上が必要だと考えた俺は、まずは身近な金管パートの先輩達と相談して金管全体のレベルアップを目指す事にした。


 2年生に進級して少し経った頃、ゴールデンウィークにすみれが帰省するという話を母さんから聞いた。からかってくる母さんを面倒くさそうに押しのけて、俺は自分の部屋へと戻る。すみれが東京へ発つ日に見送ってから2年弱、ようやく本物のすみれに会えると思うと居ても立っても居られない気持ちになった。CMも教育ドラマもいつでも見られる様にビデオに録画してあるし、モデルをしている雑誌はすみれの写っている部分だけ丁寧に切り取ってスクラップしている。だけどリアルのすみれに比べると、それらが霞んで見えるのはある意味仕方がないだろう。


 離れていた2年の間、ずっと俺の胸に燻っていた想い。こんな田舎の幼なじみよりも、もっと格好よくて性格もいい男がすみれの前に現れて、あいつを俺の前から連れて行ってしまうんじゃないかという不安が常に胸の中にあった。だからせめて俺を身近に感じてもらえる様に、何か身につけられるアクセサリーをプレゼントしようと思い立ち、部活が休みの日に電車に乗って大人っぽい商品が並ぶショップへと出かける事にした。


 こういう場合によくプレゼントされるのは指輪だろうけど、指のサイズがわからないし告白前に指輪を渡すのはかなりハードルが高い。どんなものがいいのだろうかとたくさんの商品の前で悩んでいたら、店員のお姉さんが微笑ましそうな表情を浮かべながら色々とアドバイスしてくれた。勧めてもらった商品の中で俺が気に入ったのは、細い革のブレスレットだった。これなら袖の下に隠せるから日常的に身につけてもらえるし、細いすみれの手首でも巻く回数を増やせば問題なく付けられるそうだ。留め金具も頑丈そうだし長く使ってもらえると店員さんから太鼓判をもらったので、奮発してこれを購入する事にした。


 大人からすれば1万5000円など大した金額ではないのかもしれないが、中学生が小学生に贈るアクセサリーの値段としては高額だと思う。貯金はまだあるのだが、休日もトランペットの練習をするために自分の楽器を買うつもりなので、これが出せる精一杯の金額だった。


 さてプレゼントも買ってすみれが帰ってくる当日、すみれが東京に発つ前に送別会を開いたのと同じ様に、我が家で夕食がてらすみれのおかえりなさい会をささやかながら開く事になった。久々に直接その姿を見る事ができたすみれは、写真や映像よりも可愛くて輝いて見えた。でもうちの母親に抱きしめられてちょっとだけ苦しそうにしている顔なんかを見ていると、いつもと同じ俺が知っているすみれのままなんだなという事がよくわかる。


 たまたま目が合った時にすみれが手を振ってくれたのだが、俺は照れくさくて素っ気なく手を上げるだけしかできなかった。会ったら俺も母親みたいには無理かもしれないけど、あの日みたいに抱き寄せるぐらいはしたいと思っていたのに、まるで自分の体が自分の物じゃないのかと勘違いするぐらいにカチコチに緊張していてうまく動いてくれない。


 食事が一段落してみんなですみれが出演していた教育ドラマを観ようという話になると、すみれは気が乗らないのかあたふたとなんとかその流れを回避しようとしていた。しかしうちの母親とすみれのおばさんも乗り気だから、おそらくドラマ鑑賞会は強行されるだろう。だとしたらここで俺がすみれを外に誘えば、自分が出演しているドラマをみんなと一緒には見たくないと恥ずかしがっているすみれは、すんなり着いてきてくれるかもしれない。


 相変わらず俺の口はまるで痺れ薬でも飲まされたかの様に言葉が出てこないので、そっとすみれに近づいて優しく引き起こすと頭から俺の上着をすみれに被せた。そして母親に『ちょっと散歩してくる』とだけ言い残して、すみれの腕を掴んだまま玄関へと進んだ。


 プレゼントを渡すには良いシチュエーションだったと思う、夜だし誰も邪魔が入らない二人っきりの状態だし。ポケットの中に忍ばせてある、あのブレスレットが入った箱をグッと握っていつでも渡せる様に準備をした。


 しかし、その夜の俺はどうしてもすみれにプレゼントを渡す事ができなかった。何故ならすみれの一挙手一投足がすごく可愛くて、その可愛さの暴力に翻弄された俺はなんとか頼れる年上の男として自分の平静さを保つ事で精一杯だったのだ。


 小柄なすみれに俺の上着は大きすぎた様で、余った袖をぷらんぷらんと揺らしながら照れ笑いを浮かべる姿。すみれが動く度に裾からは白い膝がチラチラと見えて、自然と目に入るよりもいやらしく感じてしまう。


 ただやられっぱなしは性に合わないので、俺が一番すみれの事を解っている男だと言うことを彼女の柔らかい手を握りながらアピールしておいた。その言葉にすみれは頷いてくれて、やっぱりすみれも俺と同じ気持ちを抱いてくれているんだなと嬉しくなる。


 翌日、もしかしたら俺が言った言葉をすみれは告白だと認識しているのかもしれないと思い至った俺は、畳み掛ける様にその日の夜にプレゼントを持ってすみれの家を尋ねた。俺がプレゼントを渡すとすみれは少しだけ戸惑った表情を浮かべた後、嬉しそうにお礼を言ってくれた。それだけではなく、自分が身につけていたリボンをわざわざ解いてお返しにくれたのだ。


 自分が身につけているリボンを交換で渡してくれるなんて、やはりすみれも俺と同じ気持ちだったのだ、そう思うと胸が熱くなって思わずすみれの頭を撫でてしまった。サラサラの髪の感触を味わっていると、この子が俺の彼女なんだという自覚と今ならばなんだってやれそうだという謎の自信が溢れてくる。例え世界中を敵に回したとしても、俺がすみれを守ってみせる。この特別な夜に、俺はすみれと自分自身に誓った。


 あれから半年、我が家にすみれから映画の前売り券が送られてきた。すみれは義理堅い上に照れ屋だから、本当は俺だけに見てもらいたいと思っているのに、気を遣って家族の分も送ってきてくれたのだろう。もちろんこの映画ですみれが初主演を果たした事も知っているし、絶対に見に行こうと思っていたのだ。本当なら一人で見に行きたいのだがすみれの気遣いを無駄にしたくないし、家族を誘って見に行く事にする。


 ただCMでも流れていたが、Tシャツ1枚のあられもない姿を公衆の面前に晒すのはいかがなものだろうか。すみれはとびきりに可愛いのだから、変な男に目を付けられない様にもう少し自衛をしてもらいたいと思う。本当なら電話で声を聞きながら言い聞かせたいのだが、こういう話になると説教みたいな感じになりそうなので手紙に少しだけ苦言を書いて送りたいと思う。もちろん大好きな彼女が頑張って演じた映画なのだから、たくさんの褒め言葉と忌憚ない感想も添えるつもりだ。

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