閑話――少年の初恋とあずささんの悩み


 僕の初恋は忘れもしない、小学3年生の2学期初日だった。


 先生に呼ばれて教室の前の方の引き戸から現れた女の子に、僕の目は惹き付けられてまるで瞬間接着剤でくっつけられたみたいに離すことができなかった。


 サラサラの長い髪に白い肌、薄っすら色づいた頬に零れそうなぐらいに大きな瞳。多分クラスで1番小さなヤツよりも低い背に、本当に同学年かという疑問が頭をよぎる。でも先生は転校生だと言っていたし……そんな事を考えていると、教壇の近くに立った女の子がクラスのみんなを見てニコリと笑みを浮かべた。


 それを見てドキッと僕の胸が変な音を立てて、『絶対に僕を見て笑ってくれたよな今の』と思わず心の中で呟く。ただ後で聞いてみたらクラス中の男子がみんなそう思ったらしく、すごくガッカリさせられた。でも不思議な事にそれであの子を嫌いになる事はなかったんだよね、むしろ接する度にどんどん僕の胸は色んな音を出し始めたというか。


「松田すみれです、よろしくお願いします」


 言葉少なに自己紹介した松田さんに、ちょっとだけ静かになった後で大きな拍手が降り注ぐ。もちろん僕だって誰よりも大きく、競うように両手を打ち鳴らした。これが僕が長らく初恋を拗らせる事になる、松田さんとの一方的な出会いだった。なんで一方的かと言うと、多分この時には僕はその他大勢のクラスメイトであって、一人の人間として認識されていなかったと思うから。


 多分だけど転校生ってマンガとかでよく見るみたいに、クラスメイトに囲まれて質問攻めにされるというのがセオリーなんだと思う。僕は今回初めてクラスに転校生を迎え入れたので本当にそうなのかはよくわからないけど、松田さんと話したいという気持ちが抑えられなくて授業が終わるチャイムが鳴るのをソワソワと待っていた。


 クラス全員がそういう気持ちだったのを、先生は見抜いていたのかもしれない。チャイムが鳴って授業終了と共に、松田さんに数人の女子が近づいた。うちのクラスの支配者とも言っていい、クラス委員長の木村透歌とその取り巻きが話しかけると、あっという間に教室の外へと松田さんを連れて行ってしまった。


 まぁあいつなら変な事はしないだろうけど……正義感が強くて面倒見がいいからなぁ、同じ保育園に通ってたからよく知ってる。その予想通り学校の中を案内し終わったら、あっという間に人の流れを整理して松田さんと話をさせる人間をうまいこと選んでいた。面倒な質問したり体に触ろうとしたりする厄介なヤツもいるからね、そういうのは僕も見ててちょっと腹が立った。


 そんな風に積極的に松田さんの世話を焼いていた透歌は、気がついたら松田さんの一番の仲良しの座を手に入れていた。それに比べて僕はずっと松田さんの事を気にしつつ、それでも勇気が出ずに話しかけようとしては止める日々を過ごしていた。自分でも情けないと思うけど、松田さんに近づくと心臓がものすごく早く動いて体が言うことを聞いてくれなくなるのだ。


 時々体調を崩すのか学校を休みがちな松田さんの事を心配しながら、いつの間にか3ヵ月が経っていた。そんな時、授業が終わって家に帰ろうとランドセルを背負っていたら、突然後ろから誰かに呼びかけられた。


「タケ、ちょっといい?」


 いつもどおり女王様の風格を漂わせながら、透歌がアゴで教室の外へ出ろと僕に指示を出す。言うとおりにするのはシャクだけど、逆らったら今度はグーパンチが飛んでくる事を長い付き合いから理解しているので、荷物を持って黙って透歌の後ろをついていく。


 屋上へと続く階段の踊り場まで連れて来られて、透歌と向かい合う。話があるのは向こうなのだから口を開くのを待っていたけれど、なかなか彼女は口を開かない。偉そうに呼び出された事といつも僕に当たりが強い事への復讐として、ちょっとした透歌への嫌がらせを行う事にした。


「クーちゃん、それで用事って何?」


「く、クーちゃんって呼ぶな! いい加減その呼び名を使うのやめてよ、もう」


 ほんの少しホッペを赤くしながら言う透歌に、僕はちょっとだけ胸がスッとした。ちなみにこの呼び名は保育園の先生が付けたもので、当時ニックネームを付けて仲良くなろうみたいな事をしてたんだよね。それでみんなは大抵の場合は名前を捩ったり短縮したりして付けた訳だけど、その方式に則ると透歌の場合は『とうちゃん』になってしまう。


 父ちゃんみたいだし女の子にそれはないだろうという事で、先生が透明→クリア→クーちゃんと連想ゲームみたいな感じでクーちゃんになった訳だ。保育園や小学校の低学年だった頃は普通にそう呼ばれていたけど、3年生になったあたりから透歌はこの呼び名を恥ずかしがる様になった。どうやら自分の名前を英語に変換して呼び名にしているのが、カッコつけていると他人に思われるのが嫌なんだそうだ。もちろん周りでそんな事を言っているのを聞いたことはないけれど、もしかしたら別のクラスとか学校外で言われた事があるのかもしれない。まぁ透歌も気が強いから案外敵が多いのかもしれない、僕は幼なじみだしたまに強い感じで命令されたりするけれど、別に本気で嫌っている訳ではないからね。


 むしろまったく逆で、透歌を尊敬すらしている。あんまり馴染めてない子がいたらクラスに溶け込ませて、イジメが起こりそうな時は大事にせずに加害者になりそうな子と話をして未然に防ぐ。クラスが平和にまとまっているのは、ひとえに透歌のおかげなのだから。人望がない僕にはできない芸当だからね、僕にできるのはこうして透歌に話を聞いてその通りに動くぐらいだ。


 僕がそんな事を考えていると、落ち着いた透歌がコホンと咳払いをして場を仕切り直した。


「すみれの事でお願いがあるの、タケなら安心だからさ」


 松田さんの名前が出て、思わず体がビクッと反応してしまう。彼女のためなら、自分の出来る事ならなんでもしよう。そんな気合が伝わったのか透歌が苦笑を浮かべていて、ちょっと恥ずかしい。


「タケは本当にわかりやすいよね、まぁあれだけジッと見てればアンタの気持ちなんて周囲にはバレバレだよ」


「ええっ!? ま、まさか松田さんも……?」


「すみれは気付いてないかな、あの子は自分が他の人からどう見られるかとかあんまり気にしてないし……自分についての関心があんまりないっていうのもあると思うけど」


 僕には透歌が何を言ってるのかはよくわからなかったけど、とりあえず松田さんが僕の気持ちに気付いていないと知ってホッとした。


「すみれは話しかけてくる子には分け隔てなく接するけど、自分からは近づかないでしょ? そういうのを不満に思ってる子達がいてね、女子は私がなんとかしたんだけど男子はね……」


 口ごもる透歌が言うには、男子は松田さんに対する恋心があるせいで変な方向に暴走しないか心配なんだそうだ。確かに僕みたいに好きな子に近づけない情けないヤツばかりじゃない、『なんで俺と仲良くしないんだよ、あいつらと一緒にいるより楽しいだろ』と思う自信家なヤツにも心当たりはある。確かにそういうヤツが松田さんに強引な事をしたら、と考えるとすごく心配になってきた。


「そこでひとまず、すみれとよく話す男子としてタケを使おうかと。アンタはどっちかっていうとガツガツした男子じゃないし、すみれがそういう男子の方が好みだって勘違いしてくれたらしばらくは安心だしね」


「……ええっ、僕が松田さんと!? 無理だよ、今だって近づくだけでドキドキして気を失いそうになるのに」


「あのねぇ、どんだけすみれを女神様みたいに思っているのか知らないけど、あの子だって普通の女の子だよ? すみれの事好きなんでしょ、だったら好きな子のためにちょっとは頑張ろうとは思わないの?」


 呆れたように言われた言葉が、僕の胸に突き刺さる。確かに透歌の言う通りで、好きな子のためなら頑張りたいと思う。思うけど、本当に僕で大丈夫なのかな。僕であの子の助けになれるのだろうか、そんな不安が頭から離れない。


「だったらムサシも一緒でいいから、どうせ班とかグループ作る時にもうひとりかふたり男子がいた方が助かるし。タケもムサシと一緒なら大丈夫でしょ?」


 ムサシは僕の一番仲がいい友達で、家も近所だし保育園に通う前から一緒に遊んでいたある意味で兄弟みたいな子だ。どっちかというと外で遊び回りたいムサシに、大人しい僕が引っ張り回される感じだったけど。確かにムサシと一緒になら大丈夫だと思う、一度松田さんと話せれば次からは一人でもきっと話せる。多分ドキドキするのは変わらないだろうけどね、でもひとつだけ心配な事が……。


「ねぇクーちゃん、もしムサシと松田さんがお互いに好きになっちゃったらどうしよう。僕、ムサシの事も大事だけど応援できそうにないよ……」


「ウジウジとまだ起こってもいない事を悩んでんじゃないわよ! あとクーちゃん言うなってば!!」


 思わずそんな弱音を吐いた僕の胸に、透歌のグーパンチがドスンと突き刺さった。結局その痛みに背中を押されて、次の日にはムサシと一緒に松田さんに話しかける事に成功した。こうして話すだけで幸せだったのに、遠足や校外学習で一緒の班になって行動したり、調理実習で松田さんの作った料理が食べられたり、もっと幸せな日々が待っているなんてその時の僕には想像すらしていなかった。




「おお、あずさ嬢ちゃん。こっちだ、こっち」


 大島あずさがドアを開けて中を見回すと、カウンター席に腰掛けていた老人があずさの方を向いて手招きしていた。あずさはそちらに早足で近づくと、ペコリと頭を下げる。


「いい加減嬢ちゃん呼びはやめてください、一体いくつだと思っているんですか。それはさておき恩田さん、お久しぶりです」


「何を畏まってんだよ、長い付き合いなのに。さ、こっち座りな」


 恩田は隣にある椅子をポンポンと撫でて、あずさを誘う。あずさはそんな恩田に苦笑しながら隣の椅子に腰掛けた。バーテンダーに『ギムレット』と告げると、彼は小さく頷いて棚からジンの瓶を取り出した。


「そう言えば、撮影でうちの松田すみれがお世話になりました……随分丸くなったみたいですね、あの子ってば恩田さんの事を優しいおじいちゃんだったって言ってましたよ」


 そう言ってクスクス笑うあずさに、恩田は小さく『馬鹿な事を言ってんじゃないよ』と呟いた。先程までシェイカーを振っていたバーテンダーが、あずさの前に白っぽい液体が入ったカクテルグラスを置く。そして話が聞こえない程度に離れた場所で、グラスを拭き始めた。


「それでどうでしたか、うちのすみれは」


「随分可愛がってるなぁ……本音で言っていいのか?」


「もちろんです、忌憚ない意見を聞きたいので」


 カクテルを一口飲んで喉を潤したあずさがそう言うと、恩田は重々しく腕を組む。


「そうだなぁ、色んなタイプの天才をこれまでの人生で見てきたが、多分俺が出会った最年少の天才だろうな。今はまだ経験不足だが、色々な媒体で仕事をするうちに知識や経験が増えて更に成長するだろう。ただ基本的な部分は既に完成されていて……これ以上は成長しないだろうな、このままならば」


「やっぱり、恩田さんもそう思いますか」


「天下の大島あずさが他人に意見を求めるとか、本当に大事なんだな。あの子がさ」


 沈んだ声であずさが言うと、恩田がからかう様に言う。てっきり照れるかと思っていた恩田の予想だったが、あずさは無邪気な笑顔で『はい!』と返事をした。


「大事で、可愛い子なんです。万難を排して、舗装した平らな道を安全に歩かせてあげたいぐらい。でもそれでは、あの子の成長を奪ってしまいますから」


「そりゃそうだ、トラブルや試練があって人は成長する。凸凹道を歩いてこそ、危なくない歩き方を覚える。才能だけでも経験だけでも、なかなか生き残れないのがこの世界だから」


 そう言うと恩田は、グラスからロックのウイスキーを喉の奥に流し込んだ。長くこの業界にいるからこそ、恩田は成功するもの消えていくものをどちらもたくさん見てきた。あずさも年数だけなら長くいるが、余裕を持って周囲を見れる様になったのは十数年程前からだ。そういう意味ではあずさは恩田の足元にも及ばない、だからこそ色々な意味で大先輩の恩田に聞いておきたいのだ。他でもない大事な弟子のために。


「……恩田さんは、すみれの演技力を成長させるにはどうすればいいと思いますか?」


「やり方は色々あるだろうさ、俺達の想像を超えて独力であの子が自分の力を伸ばす可能性もなくはないしな。ただ確実にという事であれば、すみれちゃんと同じ位の才能を持つ子を探して彼女に宛てがえばいい」


「すみれにライバルを作れ、という事ですか?」


「ライバルでもいいし、一緒に成長する仲間でもいいさ。あずさ嬢ちゃんのところにも他に若い子達がいるだろうけど、競い合う相手としては年が離れすぎている。年が離れると競う相手というよりも教えを請う存在、または教え導く存在へと変わる。子役ならベストなのは同い年、離れてもプラスマイナス2歳までかな」


 『まぁ、俺の経験則だからアテにはならんがね』と恩田は笑う、しかしそれを聞いたあずさは口許に手を当てて考え込む。そんなあずさの肩を恩田がぽん、と叩く。


「今考え込んでもしょうがねーだろうに、あの子が伸び悩むのは早くても2~3年後ぐらいだろう。それまでにそんな演者が側にいればよし、いなくてもあの子自身の力で乗り越えるかもしれん。先の事は誰にもわからんよ」


「……そうですね、私が信じないで誰があの子の可能性を信じられるのかという話ですよね」


「真面目な話はここまで。さ、あずさ嬢ちゃんも飲みな」


 恩田に勧められたあずさは、カクテルグラスを手に持って軽く恩田のグラスにぶつけた。愛弟子であるすみれがこれからどの様な未来へ歩んでいくのか、それがどんな未来であっても見守り導く覚悟を改めて決めた夜だった。

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