52――ピアノ演奏の撮影と寮への帰宅


 電子ピアノの軽い音が、スタジオの中に響く。リハーサルは順調に終わり、スタッフさん達の準備が済めば本番だ。


 雑多なリビングを模したセットの中に、立てられたスタンドに載せられた電子ピアノ。その前に用意された椅子に座りながら、私は忙しく動き回るスタッフさんをぼんやり見ていた。演奏者の私から見れば前なんだけど、撮影するカメラから見ると後ろになるのかな? まぁそれはどうでもいいんだけども。


 いよいよ映画の撮影も大詰めで、今日は主人公が父親に課されたピアノの演奏という課題の成果を家族に披露するシーンを撮影する。あとは後日談の細々としたシーンを撮れば、およそ1ヵ月に及ぶ映画撮影も終了だ。色々あったけど他の役者さんやスタッフさん達とも仲良くなれたし、色々な演技を見る事で自分の演技にも幅が出来た様に思う。


 撮影時間以外にも何度か監督に夜ごはんを奢ってもらって皆で食事に行ったり、子供である私を気遣ってくれたのか有志の人達で大量の花火を仕入れてきて花火大会を開いてくれたり。他にもオフの日は観光に行ったり女優の皆でショッピングに行ったりと仕事半分・遊び半分みたいな日々を送っていた。洋子さんも時間がある時は着いてきてくれるけど、事務処理とかクライアントとの連絡業務とか色々とお仕事が溜まっているみたい。どうしても身動きが取れない時は、花さんが保護者に名乗り出てくれて一緒に出かけたり私の面倒を見てくれていた。


 本当は別に保護者は必要ないんだけどね、中身は大人なんだし。でも見た目というのは内面のしっかりさなんて吹き飛ばすぐらいインパクトが強いらしく、久々に過保護な子供扱いを経験する事になった。普段から私の周りにいる人達はこれまでの私の実績もあってか、そこまで心配したりしないからね……元々過保護な洋子さんは除くけど。


 もうひとつの課題である水泳については、昨日のうちに撮影が終わっている。もちろん昨日だけじゃなくて練習シーンの撮影のために何度か通っているんだけど、エキストラを引き受けてくれているスクールの子供達ともちょっとずつ仲良くなった。ただ年の近い男の子達は、私を見ると少し目を逸らすんだよね。着ている水着が皆と違って主人公の妹が着ていたという設定のスクール水着だからなのか、それとも他の理由があるのかはわからないけれど、嫌われているみたいで少し寂しい。まさかこんな凹凸の少ない体に対して、エッチな気持ちになるとも考えにくいしなぁ。


 それはさておき水泳の課題は100m泳ぐ事だったので、25mのプールを2往復泳いだ。今はもう100m泳ぐなんて余裕とまでは言わないけれど、無理なくこなすことができる。でも主人公の徹くんはカナヅチという設定もさることながら、慣れない女児の体で泳いでいるのだからそういうマイナスな部分もしっかり演技しなければならない。


 私も前世では泳ぎが得意だったけど、現世では水に浮くまでにすごく苦労した。その経験を思い出しながら泳いだらカットがかかった後で、周囲の人達からぎこちない泳ぎがすごくリアリティがあったとお褒めの言葉を頂いたのだった。


「すみれちゃん、そろそろ本番行くよ!」


 昨日の撮影を思い返しているとスタッフさんに声を掛けられたので、『はぁい』と返事を返す。セットの中に両親役の俳優さん達と、妹役の花さんが入ってきて配置についた。花さんがグッと拳を握りながら口パクで『がんばって!』と応援してくれたので、ニコリと笑って頷いた。


 パステルカラーで上下セパレートのパジャマ、場所はホールではなく一般家屋のリビング。今回弾くのだって以前のエリーゼのためにみたいなちゃんとした曲じゃなくて、初心者向けの練習曲だ。正直なところ今の私なら目を瞑っていても弾けるけれど、主人公にとってはそうじゃない。水泳と同じくピアノを習い始めた時の自分を思い出しながら、しっかりと演技しなきゃ。


 洋子さんは水泳もピアノも監督からの依頼は必要ない事ばっかりだと憤っていたけど、私はそうは思わない。少なくとも監督に言われて水泳を練習したからこそ昨日の演技はよりリアルになったし、ピアノの発表会を経験したからこそあの会場とはかけ離れた場所でも緊張した演技をより上手に行う事ができる。あのホールの空気や観客達の息遣い、天井から降り注ぐスポットライトの熱さも全部思い出せるから。


「本番! よーい、スタート!!」


 カチン、とカチンコの音が大きく響いてから一拍の間を置いて、鍵盤に指を滑らせた。運指とリズムを重視した練習曲だけど、ピアノをまったく触った事がない子供が少しの練習時間で弾くには難易度が高い。監督からピアノを練習してほしいと言われた時、私が演じるのはピアノが上手な子と下手な子の2パターンがあるなと考えていた。前者ならば練習の過程は演技にあんまり必要ないけれど、後者ならば習熟度によってその時自分がどんな気持ちでどういう風に弾いていたか、どこに躓いたかなどを記憶しておかないと演技が薄っぺらくなると思い、日記みたいな感じで細かくノートにメモしておいた。


 ある程度弾ける様になってもそれを読み返し、イメージを欠かさなかった事が今に活きている。耳から入ってくるたどたどしい演奏が、相乗効果で私のイメージをより明確にしていく。最後までしっかりと役に入ったまま演奏し、余韻を残しながら指を鍵盤から離した。そして台本に書かれている通りに、不安げに瞳を揺らしながら父親を見つめる。


 彼は私の視線をしっかりと受け止めてしばらく逡巡してから、小さく笑みを浮かべた。


「よく頑張ったな、徹。合格だ」


 そう言われて椅子から立ち上がると、歓声をあげながら母親と妹がぶつかる様に抱きついてきた。揉みくちゃにされながら達成感から思わず零れた涙が目尻に浮かぶのを感じて、思わず自然に笑みが浮かぶ。そして数瞬の後に監督が満足そうな声で『カット! OK、いいシーンが撮れた!!』と言うのが聞こえて、思わず力が抜けて膝がカクリと折れる。


「わぁ、すみれちゃん大丈夫! お疲れ様だったね」


 よろけた私を花さんが支えてくれてなんとか転ばずに済んだけど、去年の10月からずっとこの撮影のためにピアノも水泳も頑張ったのだ。プレッシャーから解放されて、思わず脱力しても仕方がないと思う。


 花さんに支えられながらセットを降りて、洋子さんのところへ近付くと隣にピアノ監修の緒方さんが立っていた。ふたりは私に気付くと、それぞれに『お疲れ様』と声を掛け労ってくれた。


 ピアノ経験者がわざと下手に弾くというのは案外難しいものらしく、緒方さんは今日の私のピアノにいたく感動したらしい。音だけ聴くとたどたどしいけれど、そこにたくさんの感情がこめられている事が伝わったのだそうだ。


「自分以外の人間に感動を伝えるのに、演奏の上手下手は必ずしも必須ではないのね。もちろんより良い演奏に技術技巧が必要だと思うけれど、改めて教えてもらった様な気がするわ」


 普段プロの世界でものすごくピアノが上手な人達に囲まれている緒方さんにとって、素人に毛が生えた様な程度の実力しか持っていない小学生の相手なんて苦痛でしかなかっただろうに。そんな風に褒めてもらえたのがすごく嬉しくてお礼を言うと、緒方さんから意外な話を聞くことになった。


 緒方さん、ここ数年スランプだったんだって。もちろん演奏のクオリティとかそういう表面上のものは変わらなかったんだけど、ピアノに対する気持ちが少し迷子だったらしい。そんな時に普段は受けていない小学生の女の子に対する音楽指導と監修の仕事の話が来て、気分転換に受けたそうだ。彼女の心の中で何がどういう風に変化したのかはわからないけれど、ちょっとだけでも私のピアノが役に立ったのなら素直に嬉しいと思う。


「ところですみれ、この撮影が終わってからもピアノは続けるの?」


 緒方さんと私が頭を下げてお礼を言い合っていると、隣にいた洋子さんからそう質問された。もちろんせっかく練習したんだし、ここでやめてしまって指を錆びつかせてしまうのはもったいない。譲ってもらった電子ピアノも部屋のオブジェにして放置するのも、同じくらいもったいない。だからプロになろうなんて考えはまったくないけれど、趣味で続けていこうと思っている。月謝は毎月かかるけど私が働いて稼いだお金なんだから、少しぐらい自分のわがままで使ったっていいだろう。


 私がそんな事を考えながら『続けるよ!』とちょっとだけ胸を張って答えると、何故だか洋子さんと花さんに代わる代わる頭を撫でられた。そのせいで私の髪が少しだけ乱れたのをいち早く察知したスタイリストさんが飛ぶように近づいてきて、洋子さんと花さんに軽くお小言を並べる。叱られてちょっとだけシュンとしているふたりの姿がなんだか面白くて、私は思わず声をあげて笑ったのだった。




「やっと帰ってきた、約1ヵ月ぶりの寮だよ」


 東京駅からタクシーに乗ってここまで移動した私は、思わずそう呟いた。撮影の間使っていたホテルから出発した後、必要のない荷物は全部宅配便で送ったからほぼ手ぶらで帰るつもりだったんだけど、立ち寄った駅ビルとかで美味しそうなお菓子とか茶葉とか見ると皆へのおみやげにしたくなって、ついつい両手が塞がるぐらい買い込んでしまった。


「お疲れ様だったわね、すみれ。頑張ってくれてありがとうね」


「洋子さんもお疲れ様でした。洋子さんもお仕事があるのに長期間一緒にいてくれて、こちらこそありがとうございました」


 私がペコリと頭を下げると、洋子さんがいつも私をギューッと抱きしめる時の何とも言えない表情を浮かべた。けれども両手が紙袋でふさがっている事に気づいたのか、苦笑を浮かべて誤魔化そうとする。


 とりあえず荷物を置いてからにしようと木製の格子状になっている門扉をくぐって、いつも通り寮へと向かう。寮の玄関ドアを開けると、ただいまを言う間もなく柔らかい何かにぎゅうっと抱きしめられた。


「おかえり、すみれ! 長丁場の撮影お疲れ様……ってあれぇ!? すみれの髪が短くなってる!!」


 あー声でわかった、この柔らかいのは真帆さんか。私を胸の中に閉じ込めたまま、肩を少し超えるぐらいの長さになっている私の髪を確認する様に何度も触っている。


「なんで、なんで!? 私が一生懸命に愛を込めて育ててたのに!!」


 なんだか本気でショックを受けている様子の真帆さんに、少し申し訳なく思いながらいきさつを説明する私。あれ、でもおかしくない? 私の髪なんですけども、私が切りたい時に切って何が悪いというのか。確かに一緒にお風呂に入った時に真帆さんに洗ってもらったり、お風呂から上がったらブラッシングしてもらったりしてたけど。枝毛も切ってもらってたけども、それにしたって解せぬ。


 奥から何事かとやってきた菜月さんにも帰宅の挨拶をして、嘆いている真帆さんの相手を任せる。付き合い長い相手の方が対処法もよくわかってるだろうしね、どうやらその判断は正解だった様で菜月さんの胸に甘える様に真帆さんが抱きついていた。菜月さんの表情は微妙な感じだったけど、後は任せたとばかりに私と洋子さんは靴を脱いでリビングへと向かう。


 キッチンテーブルの椅子に腰掛けていたユミさんにもちゃんと挨拶して奥に向かうと、なんとトヨさんとあずささんがリビングのクッションに正座していた。トヨさんはともかく、普段あずささんは寮生のスペースには殆ど来ないのに。もしかしたら東京駅から『今からタクシーで帰ります』って連絡したから、待っていてくれたのだろうか。


「おかえりなさい、すみれ……やっぱり切る事にしたのね」


 あずささんは立ち上がると私の前までやってきて、そう言いながらそっと短くなった私の髪を撫でた。そう言えば監督に消極的な許可を出したのは、他でもないあずささんだったっけ?


「はい、少しでも映画が良くなるならいいかなと思ったので」


「今回はそれでいいけれど、髪を切らなくても誰もすみれを責めたりしないのだから。自分を安売りせずに、ちゃんと嫌な時は嫌だと言いなさいね」


 あずささんは心配を滲ませながらそう言うと、そっと私の前から離れた。トヨさんも年配の方だからか、私の髪が短くなった事を惜しんでくれた。でも対照的に私を除くと一番年下のユミさんは『雰囲気が軽くなっていいんじゃない?』とあっけらかんとした様子で、なんというか世代格差を感じてしまった。


 その後は戻ってきた真帆さんに再びしがみつかれながら買ってきたおみやげを披露して皆に配ったり、映画の撮影であった色んな事を話したりと久々に気のおけない人達との団らんを楽しんだ。あんまり気にしてなかったつもりだったんだけど、やっぱり知らない大人達がたくさんいる撮影所での生活は結構気を遣っていたんだなぁと今更ながらに実感した。こうして第二の家族と言ってもいい寮のみんなと一緒だと、なんだかホッとするもん。


 みんなでお茶と買ってきたおみやげのお菓子を楽しんで、急に始まったお茶会もそろそろお開きにしようかという雰囲気になり、それぞれが立ち上がってカップを片付けたり私が渡したおみやげを部屋に持っていこうと動き出す。私も1ヵ月もの間放置していた自分の部屋がどうなっているのか確認しに行こうとしたその時、あずささんから『すみれ』と名前を呼ばれた。


「初めての映画撮影だったけれど、勉強になったかしら?」


「……はい、先輩役者の皆さんの演技もすごかったですし、映画がどうやって撮影されるのかも勉強になりました。今年の自由研究は映画の作り方にしたんですよ」


 一生懸命書いた力作だからあずささんにも見てもらいたいんだけど、残念ながら宅配便に預けた荷物の中にある。『届いたら見てもらえますか?』と尋ねたら、あずささんはニコリと笑って頷いてくれた。


「楽しみね、その自由研究も……あなたの初めての映画も。見るのが楽しみだわ」


 満足そうにそう言って、トヨさんを後ろに従えながら自宅へと戻るあずささん。そうだよね、撮影して終わりじゃない。あずささんはもちろんなおやふみか、透歌にまーくん……両親や他の皆にも観てもらえたらすごく嬉しい。あれだけ頑張ったんだもん、少しでもたくさんの人にこの映画が届いて欲しい。本当にそう思う。


(これから数日はお休みだけど、それが明けたら映画の宣伝がんばろっと)


 撮影が終わったら燃え尽き症候群みたいになるんじゃないかと若干自分自身を心配していたのだが全然そんな事はなく、新しく出来た小さな目標に向かって胸元でぎゅっと両手を握りながら気合を入れるのだった。

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