51――カノジョが髪を切る理由


「すみれちゃん、ものすごいスピードで解いていってるけど、それは夏休みの宿題かな?」


「はい、これとあと読書感想文でほぼ終わるんですよ」


 撮影所の楽屋で持ってきていた宿題をせっせとこなしていると、そんな私の姿をカメラで撮影していたカメラマンさんが声を掛けてきた。私がテーブルに向かって宿題している姿なんか撮ったってどこにも需要はなさそうなんだけど、このカメラマンさんはむしろそういうところを狙って撮影している様な気がする。


 ちなみにこの人は映画のスタッフさんではなく、メイキング映像を撮影する担当の人だったりする。撮影された映像は映画がヒットした場合はメイキング集としてビデオ化されるらしいけど、あんまりだったら公開前の宣伝で使われるぐらいでその他はお蔵入りになるそうだ。私も既にいくつかの番組に出演する事に決まっていて、割り当てられたからにはしっかり宣伝してこようと思っている。


 この時代は女の子の密着取材だとしても、女性のカメラマンが割り当てられるなんて事はほとんどない。女性のカメラマン人口が極めて少ないっていうのもあるけど、重たい機材を背負いながら肩に大きなカメラを担いで撮影に出向くんだからやっぱり男社会なんだよね。という事で、私を撮影してくれているこの人も30代から40代ぐらいのおじさんだ。雑談していたら中学生の娘さんと小学生の息子さんがいるらしく、2児のお父さんなんだとか。


 やっぱり子供の密着取材には父親経験が豊富な人の方が選ばれやすいのかな、なんて事を考えているとコンコンと誰かが楽屋のドアをノックした。さっき飲み物を買いに出ていった洋子さんが戻ってきたのかな? でも洋子さんならノックなんかしないはずなんだけど、と不思議に思いながら『はぁい』と返事をする。


 するとガチャリとドアを開けて入ってきたのは神崎監督と、何故か不機嫌そうな洋子さんだった。神崎監督の突飛なアイデアで私が振り回されているのを見ているからか、洋子さんはかなり監督に対して当たりがキツい。監督も自覚があるのか洋子さんを咎めたりしないけど、いつか我慢の限界が来るかもしれないから洋子さんもほどほどで済ませておいてほしい。神崎監督は無体な事はしないと思うけど、万が一があるからね。


「おや、すみれくん。宿題中だったのか、邪魔してすまないね」


「いえ、大丈夫です。撮影は休憩中ですか?」


「珍しく加藤くんがどハマリしてNGを連発してしまってね、気分転換してもらう為に長めの休憩を取ったんだ」


 監督が苦笑しながら言うのを聞いて、思わぬ事にびっくりしてしまった。加藤さんというのは今回の映画で中村さんと私の親友である高田竜二役を演じる、若手の役者さんだ。若手とはいえどその演技力には定評があって中村さんと同じく人気があり、あちらこちらに引っ張りだこだったりする。ここまでノーミスだったのは私も知っているから、彼がNGを連発する状況が想像できなかった。でも加藤さんだって人間だからね、失敗する事だってあるだろう。そもそもNGが極端に少なすぎるんだよね、この現場。私も結構プレッシャーを感じながら演じてるし、気が緩められないというか。


 監督は私が座っている椅子の対面に座り、洋子さんは買ってきてくれたスポーツドリンクを私に手渡した後で、私の背後に立った。隣の椅子に座ったらいいのに、と勧めてみたけど『私はここでいいのよ、ありがとうすみれ』とにっこりと笑って断られた。洋子さんがいいなら私としては構わないんだけど、後ろからなんかすごい圧を感じるんだよね。背中がビリビリする。


 監督と洋子さんの雰囲気から『何か私に話があるのかな』と察して、机の上に広げていた夏休みの友をパタンと閉じる。他のプリント類も一緒に束ねて、テーブルの端の方に寄せた。


「……すみれくんは出会った時から髪が長かったが、ずっと伸ばしたままなのかい?」


 突然ぽつりと零した神崎監督の質問に、私は小さく小首を傾げる。その意図は理解できなかったけれど、とりあえず彼の質問にこくりと頷いてそのまま答えを返す。


「そうですね、本当に小さかった頃は母に短くされてましたけど。でも自分で結んだり梳いたり、手入れができるようになってからは伸ばしてますね」


「はは、お母さんは短い方が好きなのかな?」


「うーん、というよりも朝の忙しい時間に娘の髪の手入れに時間を取られるのが嫌だったみたいです。朝は主婦の人達にとって、5分10分の僅かな時間がすごく貴重ですからね」


 転生してすぐに大人の意識ははっきりと目覚めていたけれど、体はあんまり思い通り動かなかったんだよね。とは言っても流石に3歳を過ぎたぐらいにはある程度思い通りに指や手を器用に動かせる様になったから、幼稚園に通うしばらく前から伸ばし始めた様な記憶がある。少しでも女の子として不自然に思われない様に、理想の女の子に近づける様にするための第一歩だったんだよね。果たして現在の自分が男だった頃に可愛いなと思っていた女の子の様になれているのか、あんまり自信はないけれども。


「すみれくん自身は長い髪にこだわりはあるのかな?」


「寮の人達と髪型を変えたり長い方が色々遊べるので、長い方がお得かなとは思いますけど。でもそこまで強いこだわりはないです、ベリーショートとか極端な髪型以外なら機会があれば挑戦してみたいですね」


 似合うかどうかわからないから、今まで挑戦してこなかったんだけどね。でも段々お尻に近づいていく自分の髪を見ていると、そろそろ切った方がいいのかなという思いはだんだん強くなっている。シャンプーとリンスの量もたくさん必要だしね、切るなら肩にかかるぐらいがちょうどいいのかも。


 何故監督がこんなに私の髪について質問するのか、薄々とその意図を察しながらも決定的な言葉が彼から発せられないので、私としてはこのまま知らんぷりしておこうと思う。私の方から話を振って、実は全然違う話だったら恥ずかしいもんね。


 しばらく何かを言おうと口を開いてそのまま閉じるという動作を繰り返していた監督だったが、どうやら決心がついた様でようやくここに来た用件を話し始めた。


「実はね、1年以上前から安藤さんやあずささんには何度も話を持っていっていたんだが、どうしても許可をもらえなかったんだ」


 そう前置きして監督が話した内容は、私が考えていた事とほとんど一緒だった。簡単に言ってしまうと、私の髪を撮影でバッサリと切りたいという申し出だ。くるんと後ろを向いて洋子さんに視線で確認すると、苦虫を噛み潰した様な顔でこくりと頷いてくれた。まぁこの時代は女性の髪を切るという事に、特別な意味を感じる人がまだまだ結構いたもんね。


 役作りで髪を切る人はままいるけれど、みんな大人の役者さんばかりだし。私みたいな子供にそういう要請をする事自体、忌避感があるんじゃないかな?


 そんな事を考えている間も、監督の話は続く。私を主演にした映画を撮影するにあたってどんな映画にするかを考えた時に、以前に言っていた男の子っぽい役を演じてもらおうと思ったのがスタートだったらしいのだが、それ以外にもひとつのシーンが頭に浮かんでいたらしい。それが自分の髪を自分の手でバッサリと切る私という物だったそうで、ここだけ聞くとホラー映画のワンシーンだよね。


 でも監督はとにかくこのシーンは絶対撮りたいと、まずは私の担当マネージャーである洋子さんへと打診した。まぁ後ろでガルガルと監督を威嚇してる洋子さんの態度でわかると思うんだけど、当然激怒の上断固拒否だったらしい。それでも諦めきれない監督は、今度はあずささんのところに話を持っていったらしい。役作りで髪型を変えたり髪を切ったりする事もあるあずささんは、まだ洋子さんよりは話が通じた。でもやっぱり子供の髪を大人の都合で切る事に抵抗があり、お断りしたそうだ。私の髪は無駄に長いから、40cmぐらい切る事を考えると足踏みしちゃう気持ちはわかる。


 洋子さんとあずささんにきっぱりと断られた監督だったけれど、やっぱり諦めきれずに何度も何度も折に触れふたりにお願いしていたらしい。そんな事しなくても、まず私に話を持ってくればよかったのに。それをしなかったという事は、多分監督自身も忌避感とか罪悪感みたいなものを感じていたのかもしれない。だけど優しいのは美徳だけど、そこまで撮りたい物があるならとことんまでやるべきだと私は思う。中途半端にするから面倒な事になるんだよ、こんな風にね。


 結局どう転ぶかわからなかったから台本には書かなかった監督だけど、水面下ではあずささんと交渉を続けていて、最近ようやくあずささんが折れたんだとか。ただし絶対に私の意思を確認して、それを無視してはいけないという条件をつけられたんだって。洋子さんはまさかあずささんが消極的にとはいえ許可を出すとは思ってなかった様で、ショックを受けた表情で呆然としていた。そこまでショックを受けなくても……むしろ私は決断をこちらに委ねてくれた事にあずささんの愛を感じたけどね。


 さてさて、どうしようかな。髪を伸ばした理由の半分以上はもう果たしたと思う、今の私を見て『男っぽいな、変だな』って疑いの目を向ける人は多分いないだろうし……あとはお仕事の都合だね。


「洋子さん、今関わっている私の仕事で髪を切っちゃダメな仕事ってありましたっけ?」


「ええと、雑誌モデルは髪の長さに指定はなかったから大丈夫だと思うけど……ってちょっと待ってすみれ、この話受けるつもり!?」


 悲鳴みたいな声をあげて私の肩を掴みながら前後に揺さぶる洋子さん、そんなにガクガクされると気持ち悪くなる。肩に置かれた洋子さんの手を軽く何度か叩くと、私の抗議が通じたのか洋子さんは揺さぶるのをやめてくれた。あーもう、頭がクラクラする。


「別にそんなに強いこだわりがあって髪を伸ばしていた訳じゃないから大丈夫だよ、心配してくれてありがとうね洋子さん」


 ぶっちゃけた話、髪を切る機会を探ってたのもあるからね。私が髪を切る事で作品にリアリティとか迫力とかが出るのなら、作品を一緒に作る出演者としても役立つ事ができて嬉しいし。


 私の意思が固まっている事を察したのか、洋子さんが小さくため息をついた。そりゃあ彼女にしてみたら私を守るために監督に噛み付いていたのに、その本人が受け入れてしまっては洋子さんの立場がないからね。あとで改めてちゃんと謝罪とお礼をしておこう、守ってもらって当たり前って態度だといつか愛想を尽かされちゃうかもしれないから、こういう事はちゃんとしておかないと。


「という訳で、撮影で髪を切るのは大丈夫です。ただ、こちらからもいくつか条件は付けさせてもらいますので、それを了承してもらえるのであればですけどね」


「ああ、ありがとうすみれくん。もちろんすみれくんの希望は全部受け入れるつもりだ、何でも言ってくれたまえ!」


 テーブルから体を乗り出して私の手をぎゅっと握り、喜びを声に滲ませながらそう言う監督。私が苦笑を浮かべていると後ろからにゅっと手が伸びてきて、洋子さんがパチンと強めに監督の手を叩いた。


「監督、わかっていらっしゃると思いますが、無理な要望を聞き入れるのはこれで終わりですからね。例えすみれがいいと言っても、今後は私が許しません。いいですね!?」


「わ、わかっているよ。おっかないなぁ、安藤さんは……」


「言っておきますけどね、監督がすみれに度々無茶ぶりしなければ私だってこんなに怒らなくてもいいんですからね!」


 監督を叱る洋子さんと、それに怯みながらもなだめようとする監督。そんなふたりを撮り続けている密着カメラのおじさんカメラマンに、私はそっと両手をハサミの形にしてチョキチョキと動かした。こんなシーンはちゃんとカットしてもらわないと恥ずかしいからね、カメラマンさんよろしくお願いします。


 ちなみに監督に出した条件は、撮影が終わったらすぐに髪を整えてくれるスタッフさんを用意する事と、普段食べられないお高くておいしいケーキを奢ってもらう事で手打ちにした。極めるとイチゴのショートケーキもこんなに美味しく作れるんだね、すごく美味しかったです。




 本番では裁ちバサミが用意されていて私の手は小さいので使いにくかったけど、なんとかバッサリ髪を切る事ができた。髪って束ねると全然刃が通らないんだね、すごく力を込めないといけなくて演技しながらちょっと焦ってしまった。何せ失敗が許されない1回こっきりのシーンだ、転生してからあんまり緊張しなくなった私でも心配になる。


 撮影が終わったらすぐに美容師免許を持っているスタイリストさんが飛んできてくれて、私をメイク室へと連れていくとざんばらになった髪を綺麗に整えてくれた。短くなりすぎるのは嫌だったので意図的に想定より長めに髪が残る様に切ったから、肩を少し超えるぐらいの長さに落ち着いた。うん、かなり頭が軽くなった気がする。


 まさにバッサリという形容詞がピッタリ合うぐらい長く切ったのでこのまま捨てちゃうのはもったいないんじゃないかと思って、監督に『カツラとかにできないですか?』と聞いてみたんだけど答えはNoだった。


 前世ではそういう取り組みがあった記憶があるけれど、確か海外が発祥だったからまだ日本までそういう情報が届いてないんだろうな。赤ちゃんのはじめての散髪なら切った髪を筆にしたりできるみたいだけど、私赤ちゃんじゃないし。もったいないけど捨てちゃうしかないか。


 とりあえずこれくらいの長さがあれば髪型を変えて気分転換をする事もできるし、これまでとあんまり変わらないかな。そんな風に楽観視していた私は、撮影がすべて終わって寮に帰った後でお姉さま方にひどく嘆かれながら叱られる事になるんだけど、この時はまだそんな事はまったく想像していなかったのだった。

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