41――発表会本番


「次がすみれちゃんの番だけど大丈夫? 緊張してない?」


 舞台袖に備え付けられたパイプ椅子に座って出番を待っていると、付き添ってくれている琴音先生がそう尋ねてきた。不思議なんだけど、全然緊張してないんだよね。前世の私はむしろ他の人に比べると極度に緊張するタイプで、本番では練習の半分も実力を発揮できないタイプだったのに。


 女は度胸っていう言葉があるけど、やっぱり肝が座ってるのは男よりも女って事なのかな? それとも色々な撮影を経験する事で、舞台度胸がついたのかも。何にしても本番でも本来のポテンシャルが発揮できる様になったのは嬉しい。


 私が『大丈夫です』って答えると、琴音先生は私の手を包み込むように掴んだ。優しく指をつまんだり関節を押したりしてるのは、多分指の状態を確かめてるんだろうね。私の言葉に嘘がない事がわかったのか、琴音先生は手を放すと満足そうに頷いた。


「緊張すると指の先が冷たくなったりする事が多いけど、すみれちゃんの手はいつも通りポカポカ暖かかったから大丈夫ね」


「どちらかというと、待ち時間が長くて眠くなってきちゃいました」


 手が暖かいのは、もしかしたらそれが原因かもしれない。だって朝早かったのと、控室で特にしなきゃいけない事もなく退屈だったのもあって、出番間近の今になってドッと睡魔が押し寄せてきていた。


「確かに目がいつもよりトロンとしてるものね、その状態も可愛いけどもうすぐ出番だからしっかりして! 映画の監督さんも観に来てるなら、ちゃんとやらないとダメでしょ!!」


 そうだった、今日は会場に監督が来てるんだった。神崎監督の無茶振りに付き合わされている私には、監督を一回ぐらい引っ叩く権利はあると思うんだけどどうだろう。引っ叩かないにしても、嫌味ぐらいはチクリと言ってやりたい。その為には今日の演奏をしっかりと成功させて、文句の付け所がない様にしなくちゃね。


 私はほっぺをパンパンと叩いて、眠気を無理やりに追い出す。少しだけ強く叩きすぎたのかほんのちょっとほっぺがヒリヒリするけど、そのおかげで眠気はうまく飛んでいってくれたみたい。


 そして次の瞬間、大きな拍手が私達がいる舞台袖にまで大きく響き渡った。前の子の演奏が終わったのだろう、その拍手の響き方からホールの音響設備がすごく良い事がわかる。拍手が鳴り止むとひと呼吸置いて、アナウンスのお姉さんがマイクのスイッチを入れたのと同時に、琴音先生に促されて舞台袖の端っこにバミってあるビニールテープの少し手前に移動した。


「続きまして、松田すみれさんの演奏です」


 アナウンスに背中を押される様に舞台に進むと、眩しいぐらいのライトと観客席からの拍手に迎えられた。舞台が明るすぎるせいで真っ暗な観客席は殆どが見えないけど、洋子さんや麻理恵さん達が見てくれてると思うと、自然と背筋が伸びる。私にしては優雅で堂々としている様に心がけて舞台の中央まで歩き、ぺこりとお辞儀をした。


 そしてすぐ後ろに設置されているグランドピアノに近づくと、浅めに椅子へ腰掛ける。あんまり深く座ってしまうとペダルを踏み込めないのだ、体躯が小さいだけで決して足が短い訳ではないので誤解しないでもらいたい。


 小さく息を吐いて、体の力を抜く。雑誌のモデルを始めて強い光を当てられる事には慣れたつもりだったけど、舞台の上はライトの数が多いのですごく熱く感じる。前世の体だったら、滝みたいに汗が流れてたんだろうな。せっかく琴音先生と麻理恵さんにもらったワンピースを汚したくないし、無駄に汗をかかないこの体には感謝しかない。


 あんまり長くピアノの前でぼんやりとしていると、観客の人達も何かあったのかと心配してザワザワし始めるかもしれない。私は普段と同じ様にピアノへと両手を伸ばすと、鍵盤を軽く押し込んだ。教室のレッスンブースや学校の音楽室よりも、音の返りがとてもいい。その事が私のテンションを引き上げてくれて、気がつくと少しだけ口角が上がっていた。


 上半身を軽く揺らしてリズムを取りながら、ミスも無く曲を進めていく。私がこの曲に込めるテーマとしては、以前に琴音先生と話して決めたものから変わっていない。周囲の人への感謝と、これからもよろしくという気持ちを込める事だ。この曲は多くの人が聞き慣れたフレーズの部分から、大きくイメージが変わる箇所がふたつある。そこは16分音符や32分音符が乱舞しているので、譜面指示にも従いながらミスもせず、更に自分なりの色も出さなきゃいけない。やる事が多くて大変だ。まぁ譜面指示と言いつつ、私の目の前には譜面なんてないんだけどね、さすがにこれだけ練習したら暗譜は完璧にできている。


 練習では大体3分を少し超えるぐらいだったから、今回も同じぐらいの演奏時間だと思う。いつの間にかライトの熱も観客席の気配も気にならなくなって一心不乱に曲を弾き終えた私は、最後の音を余韻たっぷりに響かせてから鍵盤から手を離した。そして出来るだけ優雅に見える様に立ち上がってからタタッと舞台の中央に駆け寄りペコリと頭を下げた瞬間、突然客席から大きな声がホール中に響き渡った。


「ブラボー!!」


 立ち上がってそう叫んだのは、細身の男性だった。観客席に反射するわずかな舞台の光ではシルエットより少しだけマシな程度にしかわからないけど、多分聞き覚えのある声だった様な気がするから叫んだのは神崎監督だと思う。


 いや、私も吹奏楽部時代にそんな風に叫んでる人を見たことはあるけど、クラシックのピアノ発表会でそんな風に叫んだのは初めて見たよ。その後監督らしき人影が一際大きな拍手をし始め、それに引っ張られる様に会場全体から拍手の雨が降ってくる。


 多分私の表情には苦笑が浮かんでいたけど、実はそんなに悪い気分ではなかった。ひとつの大きな舞台が終わった安堵とか演奏後の高揚感とか。色々な想いをゴチャ混ぜにしたまま、私は観客席に深く頭を下げるのだった。




 今回の発表会は賞が発表されたり閉会式がある訳ではないので、演奏が終わった子は早々に荷物を持って帰るか、もしくは観客席へと移動して他の生徒の演奏を聞く。かくいう私も演奏を終えて琴音先生にぎゅーっと抱きしめられつつ目一杯褒めてもらってから、急いで荷物をまとめて控室を後にした。でも別に帰宅する訳ではなく、この後は監督と会う予定があるのだ。


 この後も発表会で演奏する子達が会場入りするらしいので、いつまでも居残っているといくら広くても控室の中が混み合ってしまう。ホールに来た時の服装に着替えても良かったのだけど、私はワンピースに薄手のカーディガンだけ羽織る事にした。


 あらかじめ洋子さんとエントランスで落ち合う事になっているので、私と琴音先生は他の人にぶつからない様にちょっとだけ急ぎ足でホールの廊下を歩く。なんだかすれ違う人がチラチラ私の方を見てくるけど、変な格好してないよね?


 広いエントランスに出ると、座り心地の良さそうな長椅子がいくつかあったので、その中のひとつによいしょっと腰掛ける。応接室の椅子みたいにすごくクッションが効いていて、やんわりと私を受け止めてくれた。そんな私の隣に琴音先生も並んで座って、待つ事しばし。


「すみれ、すごくよかったわよ!」


 メインホールに続く観音開きの大きなドアをバァンと開けて、洋子さんが駆け寄ってきた。その勢いがあまりにすごいので私も思わず立ち上がると、そのままむぎゅーっと抱きしめられる。モゴモゴ言いながら『ありがとうございます』とお礼を言いつつ為すがままになっていると、ひとつの疑問が頭に浮かんだ。あれ、そう言えば監督はどうしたんだろう。その疑問を確かめるために、洋子さんのお腹をポンポンと叩いた。


「洋子さん、監督はどこにいるんですか?」


「……あ、置いてきちゃった」


 洋子さん、私の演奏でそれくらい喜んでくれたのは嬉しいけど、今日の主賓を置いてきちゃダメだよ。内心ちょっとだけ『ざまぁ』って思っちゃったけど、首を小さく横に振ってそんな想いを追い出す。洋子さんの体越しにチラリと後ろを見ると、苦笑しながらこちらに向かって歩いてくる監督の姿が見えた。どうやらちゃんと洋子さんの後ろについてきていたみたいだ、隣に見慣れない女性がいるんだけど誰なんだろう。


「やぁ、マイ・プリンセス。君の演奏は本当に素晴らしかったよ、私の期待に満点で答えてくれたね」


「あ、ありがとうございます」


 私の前に立つと何やら気障ったらしい台詞を言いながら、抱えていた大きな花束を私に差し出す監督。『マイ・プリンセス』ってなんなの、と思いつつもそんな事は表情に出さずにお礼を言って、抱える様に花束を受け取る。うぅ、前が見えない……と持て余していたら、横から洋子さんが花束を引き取ってくれたので助かった。


「紹介しよう。こちらは今度撮影する映画の期間中にすみれくんのピアノを監修してくれる、プロピアニストである緒方さんだ」


「はじめまして、緒方です」


 監督に紹介されると、隣の女性は微笑みながら右手を私の方に差し出した。私も自己紹介しながら握り返したのだけど、こちらの手の方が小さいので緒方さんの手に包み込まれる様な形になってしまった。


「本当にピアノを始めてまだあまり経ってないのね、それにこんなに小さな手だとジャンプの部分に苦労したでしょう?」


「確かに私は体も小さいのでたくさん練習しましたけど、琴音先生が肘をうまく使うコツを教えてくれたので頑張れました」


 さわさわと何かを確かめる様に私の手を触ってそんな事を言う緒方さんに、私はそう返事を返した。その流れで琴音先生を紹介すると、ふたりは私についての情報交換をする様に会話を始めた。話題が私についてなので、ちょっとそのまま聞いているのも面映ゆい。私はふたりから少し離れて、神崎さんと洋子さんの方に近づいた。


「そう言えば神崎監督、映画の準備はどんな感じなんですか?」


「ああ、先程安藤さんとも話したのだけどね。順調だよ、このままいけば6月の下旬から7月の上旬には役者やスタッフ達の顔合わせをして、撮影に入れると思うよ」


 自信に満ちた表情で言う監督に、いよいよだなぁという感慨が湧いてくる。だって一番最初に映画の話を聞いたのって、小学3年生の時のオーディションの時なんだもの。あれからもうすぐ丸2年、あっという間だったような、長かったような複雑な気持ちだったりする。


 その後も言い足りなかったのか、私のピアノについてどこからその語彙が出てくるのかと思うくらい、監督は賛美してくれた。最初に言っておくと、私のピアノの出来は下手でもなく上手でもなく普通といったところだ。でも監督は出来がどうこうではなくて、初心者が必死に練習してそこそこの難易度の曲を最初から最後まで弾けるようになった過程や、そこから推察される努力に感動しているらしい。


 前世の平成末期は物語の中に泥臭い努力をもって成功するとかそういう要素はあまり読者には求められていなかったけれど、昭和から平成に代わったばかりのこの頃はとても好まれていた。監督も御多分に洩れず、その様な物語が好きだったみたいだ。何かを成し遂げる為には努力は絶対必要だし褒められて嬉しくない訳ではないんだけど、そろそろ暑っ苦しいのでやめてほしいです。


 結局げんなりしながらも監督の賛美を一通り聞き終えて、この後に予定があるという監督と緒方さんを見送って、ようやく一息をつくことができた。隣で同じ様に脱力している洋子さんと、お互いにお疲れ様と労り合う。そう言えば、さっき監督が言ってた『マイ・プリンセス』って何だったんだろう。よりキザっぽい言葉を選んだ可能性もあるけど、普段は『すみれくん』って呼んでるのにあまりにかけ離れているというか唐突だ。


 不思議に思って洋子さんに尋ねると、洋子さんは無言でちょいちょいと自分の頭を指差した。その動作に促される様に私が自分の頭に手を伸ばすと、何やら冷たい金属の様な感触があった。


「……ティアラ、外すの忘れてました」


 なるほど、これを揶揄してたのか。ヘアピンで外れにくいように固定してるので、洋子さんに頼んですぐに外してもらったのだけど、なんだか恥ずかしくてしばらく私のホッペは熱を持ったままだった。きっと他の人が見たら真っ赤っ赤になってたんだろうね。


 ちなみにティアラはちゃんと琴音先生に返しました。琴音先生も麻理恵さんもまた譲るって言い出したけど、頑として返却させて頂きました。いくら厚意とはいえもらい過ぎはよくないよ、うん。

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