40――発表会までのあれこれ


 京都での仕事でうまく気分転換ができたのか、行くまでは後ろ向きなプレッシャーに圧し潰される様な感覚があったのだけど、戻ってきてからはそれが綺麗サッパリ無くなっていた。


 そうなると不思議なもので指の滑りもよくなって、うまく弾けなかったところもサラッとこなせる様になり、全体的に良い流れが来ている事を実感しながら、私は残りの春休みをピアノの練習に費やした。


 あっという間に新学期を迎えて、ドキドキしながら新しいクラスを確認する。よく考えてみたら、私って透歌を通しての友達しかいない気がする。3年生、4年生で一緒のクラスだったクラスメイト達とは話したりもするけど、友達付き合いと呼べる程の事は殆どしていない。もし透歌とクラスが別になっちゃったら、新しく友達を作る努力をしなきゃいけないかも。無理かなぁ、夏以降は映画の撮影で忙しいもんね。


 そんな私の考えはいい意味で予想が外れて、透歌と一緒のクラスだった。あと透歌の友達で私も仲良くしてもらっている、吉田育代よしだいくよちゃんと佐々木久美ささきくみちゃんも一緒だった。3年生の時に仲良くなった彼女達なので、親友とまではいかないまでもそれなりに友達付き合いをしてきて、性格や好みも把握できている。今年もうまくやっていけるだろう。


 学校生活での心配が無くなって、さらにピアノのレッスンが捗る。本番2週間前には最初から最後まで大きなミスもなく弾ける様になって、琴音先生が順調さにびっくりしていた。ここからはどう演奏に表現をつけていくか、そこに重点を置いた練習になる。


 『エリーゼのために』という曲は、ベートーベンが愛したテレーゼという人に向けて書いた曲だという説が有力らしい。でも正直なところ、私には異性に対する愛とか恋ってよくわからない。だって前世でも誰かとお付き合いする事もなかったし、肉体的接触もせいぜい手を繋ぐくらいしかない。同性にはバカにされ続け、異性には気持ち悪がられて避けられ続けた人生だったのだ。そういう色事への機微がわからなくなっても仕方がないのではないかと、個人的には思う。


 私にとっての愛はなおやふみか達を大事に想う気持ちだったり、寮のみんなに感じる連帯感だったり、それ以外にも親に感じる気持ちとかきっと色々な形があるんだと思う。周りのみんなへの感謝とこれからもよろしくっていう気持ちを込めて、私は鍵盤の上に指を滑らせた。弾き終えて琴音先生の方を見ると、彼女はにっこりと笑って『この感じでいきましょう』とGOサインを出してくれた。


 進む方向が決まれば、後はそこに向かって真っ直ぐ進むだけだ。1週間じっくりと集中して練習し、残りの1週間は体調を調整しながら本番を待つ。その間に発表会に着ていく衣装の合わせとかもやったけど、その衣装がすごかった。


 純白のワンピースなんだけど、まず生地が高そうで手触りがすごくいい。どんな種類の生地なんだろう……いくら私が雑誌のモデルとして色々な服を着せられているとは言え、どんな素材が使われているのかなんてすぐに答えられるはずもなく。そういうのも勉強しなきゃいけないんだろうけど、自分から言い出すとなんだかやぶ蛇になりそうなので、洋子さんに言われてから考えようっと。


 胸元に小さなバラのモチーフがたくさん付けられていたり、スカートの上にレースが重ねられていて高級感が漂っていたり、更にフリルが肩紐や首元に上品に飾られていたり。女の子ならその作りの良さや可愛さに喜ぶべきところなんだろうけど、私には一体おいくら万円したんだろうという値段への好奇心と汚したらどうしようという恐怖しかないよ。


 それに琴音先生が私と同じぐらいの年の頃に着てたって事は、最後に身につけて最低でも10年ぐらいは経ってる可能性が高い。でもこのワンピースは変色も布のヘタりもないし、どれだけ琴音先生のご両親が大事にとっておいたかが状態でわかってしまう。そんな大切な衣装を私が着てもいいのだろうか、どうしてもそんな思いが頭を離れなかった。


「すみれちゃん、ちょっとこちらを向いて真っ直ぐに立ってもらえるかしら?」


「は、はい!」


 目の前にしゃがみこんで衣装にマチ針を刺しているのは、琴音先生のお母さんの麻理恵さん。見た目も中身も上品な奥様で、ふんわりした琴音先生のお母様だと見た瞬間にわかった。アラフィフだと聞いたけど、とてもそうは思えないくらいに若々しい。


 彼女が何をしているのかというと、私と当時の琴音先生のサイズに差があるので、このまま着るとせっかくのワンピースが台無しになってしまう。好意でサイズ直しを請け負ってくれた麻理恵さんの言葉に甘えて、その下準備をしてもらっているのだ。実際に着てみないと、正確に詰める事はできないもんね。


 この春の身体測定で私の身長はなんと去年の夏から比べると3センチ伸びて、135センチになった。体重は28キロだったので、保健室の先生に『ちゃんとごはん食べてるの?』って心配されてしまった。残念ながら前世で太っていた事で色々と不幸な目に遭ったトラウマは未だ健在なので、相変わらず腹5~6分目程度しか食べられない。健やかな成長のためには、頑張ってもっと食べた方がいいのかな。


 ただ、今となっては本当なのかどうか確認することはできないけれど、前世の中学時代に体育教師が言っていた事が気にかかる。彼曰く、人間の細胞は14歳前後で細胞の大きさを記憶すると言うのだ。つまり太っている状態で細胞が大きさを記憶してしまえば、その後どんなにダイエットをしたとしてもその細胞の大きさまでは確実にリバウンドすると言っていた。


 もし普通に食べ始めて標準以上に太ってしまったら、役者として活動することもできなくなる。そんな事を考えるとなかなか食べ物が喉を通っていかないのが、ここ数年抱えているジレンマだったりする。


 そういう理由で同級生よりちょっとばかり小さい私は、悲しいかな琴音先生の小学生時代の体型にも負けているらしい。手間を掛けて申し訳ないなと思っていると、作業をしながら麻理恵さんがとんでもない事を言い出した。


「私達が持っていても誰も着れないからよかったらこのワンピース、すみれちゃんがもらってくれる?」


「ええっ、でもこの服は琴音先生の大事な思い出の服なんじゃ……?」


 びっくりして私が問い返すと、麻理恵さんはおかしそうにクスクスと笑った。


「私達が持っていても、衣装ケースの奥にしまっておくだけだもの。それよりも、琴音の教え子さんに着てもらった方が有意義だと思わない?」


「それはそうかもしれないですけど……」


 『でも私も今後着る機会はないと思うんですけど』と再度断ろうとしたのだが、背中をぽんと優しく叩かれて『もらってちょうだい、ね?』と念を押すように言われてしまっては、これ以上断る事もできない。


 私が『ありがとうございます』とお礼を言うと、麻理恵さんは嬉しそうに笑った。サイズの直しは発表会前日には終わり、合わせてみるとオーダーメイドの服かと思うくらいピッタリだった。ワンピースを着た私を見て麻理恵さんが本当に嬉しそうに笑っていたのがすごく印象的で、してもらった事に少しでもお礼ができる様に本番の演奏を頑張ろうと強く思った。


 そしていよいよ発表会当日、私は寮で愛さんに髪をツーサイドアップにセットしてもらった。残念ながら愛さんはお仕事なので会場には来れないらしく、せめてこれくらいはとヘアメイクを担当してくれたのだ。


 ユミさんも舞台が昨日から本番で、朝早くに『頑張ってね』と私の頭を撫でてから慌ただしく出かけていくのをパジャマ姿で見送った。むしろ忙しいのに、出発前に気を遣わせてしまって申し訳ない。ユミさんこそ舞台頑張ってくださいね。


 真帆さんと菜月さんは今日はオフなので、会場まで来てくれるんだって。せっかくのお休みなので好きに過ごしてほしいけど、応援してくれる気持ちが嬉しいのでありがたく受け取る事にする。


「あ、すみれちょっと待って」


 洋子さんが迎えに来てくれたので、連れ立って寮を出ようとする私に真帆さんが声を掛けた。不思議に思って振り返ると、真帆さんがポケットからリップスティックみたいな小さな筒状のものを取り出す。


「こっち向いて、はいジッとしててねー」


 私の肩を軽く掴んで自分の方に向けると、アゴをクイっと持ち上げて少しだけ顔を上に向けられた。何をされるのか不思議に思う間もなく、真帆さんは筒の底をクルクルと回すと軽く私の唇の上をなぞった。


「せっかく可愛い格好するんだし、ちょっとくらいはオシャレしなきゃね」


 親指でちょいちょいと微調整してから、真帆さんはいたずらっぽく笑った。どうやら色付きリップを塗ってくれたらしい、子供っぽい私には似合わないんじゃないかとちょっとだけ不安に思ったが、真帆さんも洋子さんも『可愛いわよ』と褒めてくれた。


「ほんのりピンク色なのがいいわね、おませな子が背伸びをしている感じが出ていて可愛いわ」


「でしょう? それにすみれの唇はぽってりとしてるから、色が付くと顔の印象が華やかになると思ったんだよね。予想以上に可愛くなってよかった」


 ふたりに挟まれて可愛いと連呼されると、なんだか恥ずかしくなってくる。ちょっとだけ頬が熱くなるのを感じながら真帆さんにお礼を言うと、彼女は照れた様に笑って頷いた。


「多分本番までにお茶とか飲んだりして、リップが落ちちゃうと思うから。コレ、持っていってね」


 真帆さんはそう言うと、さっき塗ってくれた色付きのリップクリームを私の上着のポケットに入れた。『いいのかな? なんだか申し訳ないな』と思ったけど、既に塗ってもらっているしここで遠慮する方が彼女の厚意を無下にする事になる。そう思って、私はもう一度しっかりと真帆さんにお礼を告げてから洋子さんと一緒に寮を出発した。





「おねーちゃん、おひめさまなの?」


 会場に着いて迎えてくれたのは、関係者の琴音先生とわざわざ来てくれた麻理恵さん親子だった。更衣室として割り当てられている部屋でワンピースを着せてもらって、少し乱れた髪を整えてもらった。『これでどう?』と尋ねられて鏡に写った自分の姿を確認すると、頭の上に銀色の小さなティアラがちょこんと載っていた……あれ、こんなの持ってきた記憶がないんだけど。


 髪を整えてくれた麻理恵さんに聞くと、家にあったから持ってきてみたとの事。曇っていたからと、昨日わざわざ磨いてくれたらしい。その甲斐あってかものすごくピカピカで光り輝いているティアラを見ると、ものすごく高いものなのではと庶民としては恐ろしくなってしまう。なんかダイヤモンドみたいにカットされたガラス玉が、アクセントとしていくつかついてるし……これ、イミテーションダイヤだよね? 本物とか言わないよね?


 万が一『これもあげる』とか言われたら、全力で断ろう。いやイミテーションだったとしても、演奏以外にお返しもできないのだからこれ以上もらったら罰が当たる。


 それはさておき、諸々の準備が終わって控室の隅っこで椅子に座ってぼんやりしていると、いつの間にかすぐ傍まで近づいてきていた4~5歳ぐらいの女の子が突然そんな質問をぶつけてきた。特におめかししている訳ではなく普段着を着ている事から、兄姉の発表会に連れてこられたんだろうね。


 何故この子がそんな事を聞いてきたのか、それは多分頭の上のティアラのせいではないだろうか。光が当たるたびにキラキラ輝くこの物体に、この子はカラスの様に引き寄せられてしまったのだろう。


「なーちゃんもおひめさまになれる?」


 なんて答えればいいのか、私が悩んでいると更に女の子が質問を重ねる。なーちゃんとは彼女の事なのだろう、うーん本当にどう答えればいいのか。


「多分なれるよ、大丈夫」


 キラキラと輝く瞳に圧される様に、私の口からは無責任な言葉が出ていた。だって『なれないよ』なんて言ったらこの子は悲しむだろうし、もしかしたら泣いちゃうかもしれない。まったく知らない子だけど、できれば小さい子のそんな顔は見たくないじゃない? ましてや自分の言葉でそんな顔をさせてしまうなんて、罪悪感に圧し潰されてしまいそうだ。


 私の言葉に『わー、やったぁ』とピョンピョン飛び跳ねて喜ぶなーちゃんを微笑ましく見ていると、ようやく自分の傍からなーちゃんがいなくなった事に気付いたお母さんが慌てて近寄ってきて、ひょいっとなーちゃんを抱えると、私に向かってぺこりと頭を下げた。


「ごめんなさい、うちの娘がご迷惑をかけてしまって」


「いえいえ、大丈夫ですよ」


 突然話し掛けられてびっくりした以外は特に迷惑を被っていないので、笑顔でなーちゃんに手を振る。突然お母さんに抱えられたなーちゃんは、きょとんとした様子で私を見ると可愛らしく小さな手をふるふると振り返してくれた。


「可愛い女の子でしたね」


「あ、琴音先生」


 呼び出されて一時的に離席していた琴音先生が控室に戻ってきたのだが、その手には無骨な一眼レフのカメラがあった。不思議そうにカメラを見ていると、得心した様に先生が少しだけカメラを持ち上げる。


「私、カメラが趣味なんです。せっかくだから綺麗に着飾ったすみれちゃんを撮らせてもらおうかなって」


 カメラをプロっぽく構えながら言う琴音先生に『いいですよ』と許可を出した。本当なら洋子さんに許可を取らないといけないんだけど、琴音先生なら身内みたいなものだし大丈夫かな。


 棒立ちなのも面白くないのでモデルの仕事で学んだポーズを色々と駆使して、プライベートで撮ったとは思えない出来映えの写真ができたと思う。琴音先生に嬉しそうに『ありがとう』とお礼を言われて、私も満足しながら席に座り直した。その後は本番への緊張もあって、写真を撮った事なんてすっかり忘れてしまった。


――ここからは余談だけど。


 発表会が終わってもピアノの練習が無くなる訳ではない、私は気持ちを新たにピアノ教室のドアを開けた。すると受付の一番目立つところに、私の写真が壁に飾られていたのだ。ご丁寧に高級な額に入れられていて、サイズも普通の写真よりも大きい。


 何の話も聞いてないし驚きと恥ずかしさで真っ赤になってしまった私だけど、一番の問題はその写真にあった。ちゃんと私の意識がカメラに向いている写真ならまだよかったのだが、その写真は完全に隠し撮りのものだったのだ。


 小さな女の子と華やかな白いワンピースを着た少女が、微笑み合っている写真。言うまでもなく女の子はなーちゃんで、少女は私だ。写っているのが私でなければ、柔らかさと暖かさの両方が共存している素晴らしい写真だと思っただろう。でもこれはダメでしょ、隠し撮りだしそもそも私は飾る許可なんか出してないし!


 肖像権を盾に琴音先生に抗議したら、事務所とは話がついていると開き直られてしまった。それを聞いてすぐに洋子さんにも抗議したが、あのピアノ教室には芸能関係者が多く訪れるのだし、顔が売れていいじゃないと言われた。いつもはプライベートで写真をみだりに撮らないようにって口うるさいのに、洋子さんってば自分勝手なんだから。


 結局私の抵抗も虚しく、その写真は飾られ続ける事になった。それから幾ばくかの時が過ぎてピアノ教室が無くなるまで、私となーちゃんの写真は生徒さん達を迎え続けたらしい。大人になってピアノ教室に通っていた元生徒さんと共演した時にその話を聞いて、私はすっかり忘れていたその写真の存在に思わず遠い目をしてしまうのだった。

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