38――すみれの葛藤と京都での撮影
「あの、琴音先生にお願いがあるんですけど」
琴音先生が『じゃあレッスン再開しましょうね』と立ち上がって準備をし始めたので、その後姿に声を掛けた。
「どうしたの、すみれちゃん?」
「練習を始める前に、この曲を弾いてもらえませんか? できれば録音して、練習でわからなくなった時に聞き直したいんです」
短い準備時間で早く成果を出すには、指に覚えさせる以外にも耳で音を聞いて覚えるのも有効だと思ったのだ。基本の部分は先生のマネでもいいと個人的には思う、そこからどういう表現をつけていくのかが大事なのだから。
先生は快諾してくれて、録音ができるラジカセを取りに行ってくれた。少し背の高い机の上にラジカセを載せて、その傍に洋子さんが録音ボタンを押すために待機している。私だとボタンに手が届かないからね。
「どういう風に弾いて欲しいとか、リクエストはある?」
「えっと、できるだけ譜面の指示に忠実に、表現はつけずに淡々と弾いてください」
私がそう言うと、その意図を問い返す事もなく先生はピアノに向き直った。そして右手を洋子さんに向けて上げると、それが合図だったのか洋子さんの人差し指が録音ボタンをカチリと押し込んだ。
先生の指が鍵盤の上を滑り、ピアノが柔らかい音を立て始める。奏でられる音を聴きながら、手に持った譜面を目で追いかける。当たり前なんだけど、先生が弾くピアノの音はとても滑らかだ。
うーん、こうして聞くとやっぱり苦労しそうなのは所々に出てくる32分音符かな。基本の音楽記号とかはわかるけど、難しいのは全然わからないからそれも教えてもらわなきゃ。『Poco moto』とか『8va』とか見たことないもん、なんだそれ。
先生が最後の8分音符を充分にテヌートさせてから、鍵盤から手を離した。それを確認した洋子さんが、停止ボタンを押す。喋ったら音が入るし、吐く息すらも雑音になって邪魔になったらイヤだなと思って小さく呼吸をしてたから、録音が終わったのを確認してからハーッと大きく深呼吸をする。
「こんな感じなんだけど、できそう?」
「が、頑張ります!」
先生の問いかけに、両手を胸にぎゅっと握りしめながら私は返事をした。難しいところはたくさんあるけど、頑張って練習すれば出来そうだなと思った。あと先生の演奏を聴いて、私もあんな風に弾ける様になりたいって強く思ったのもやる気に繋がったから。きっと弾けると思う、そう思わないと練習する前から放り出したくなるからね。
さっきまで先生が座っていた椅子に腰掛けて、まずは譜面に書かれている用語でわからないところを聞く。ほほぅ、これにはそんな意味が……書き込んでもいいという事だったので、余白に教えてもらった事を書き込んでいく。
「全然関係ないのだけど、すみれちゃんってキレイな字を書くよね。前から思ってたのよ」
「すっごく練習しましたからね、それよりもここなんですけど」
「あ、ここはね少しずつ遅くする感じで弾くの。とりあえず最初はゆっくりでいいから、1小節ずつ片付けていきましょうか」
先生に促されて弾き始めるがこの曲は8分の3拍子なので、これまでとはちょっと違うリズムにモタついてしまった。それでも教えてもらいながらクリアしていき、なんとかよく保留音で使われている部分までは先生にOKをもらう事ができた。OKとはいっても、よくできましたという意味ではない。ひとりで練習してもいいよという許可をもらっただけだったりする。その他の部分にはここまでの所を完璧にしてから次に進む感じなので、まだまだ先は長そうだ。
それからは寮で空き時間に練習して、週に2回のレッスンで成果を確認してもらって少しずつ個人練習ができる範囲を広げていく毎日だった。ありがたい事に一番時間が取られる学校が春休みに入ったので、その分を練習時間に回せたのが大きかったと思う。指や腕をケガしない様に気をつけながら集中して練習し、ようやく折り返し地点が見えてきたかなと思い始めた3月の最終週。洋子さんから衝撃的な事を告げられた。
「京都ですか、この大事な時に!?」
「仕方ないのよ、大阪でのオーディションで反対派の社長さん達のリーダーだったおじいちゃん、覚えてるでしょう? あの人からの紹介だし、映画の撮影すら始まってないのにあの人達との間に不必要な火種は作りたくないわ」
「それはそうですけど、移動と撮影で2日間ずっとピアノに触れないのは厳しいです」
やっとこの曲のリズムとか弾き方とかを掴めて来たところなのに、それをきれいさっぱり忘れてしまいそうなのが怖い。地元の映像制作会社に話を持ち込んで、ローカルCMを撮っちゃおうと今回オファーをくれた和菓子屋のオーナーさんが計画したのが、今回の話の始まりだそうだ。
しかも満開の桜並木の下を歩く可愛い女の子の映像を使いたいってそのオーナーさんが言い出して、おじいちゃん社長が私を紹介し、今週末に桜が満開だから役者呼んで撮っちゃえって事に決まったらしい。なんというか、行動力が有り余ってあっち向いてホイしているとしか思えない。平成末期のおじいちゃんおばあちゃんも元気だったけど、平成初期のご老人達も負けてはいない。
こっちではまだまだ桜がつぼみを付け始めたばかりだけど、関西では毎年入学式にはほとんどが葉桜になっていた記憶がある。たまにあんまり暖かくならなくて入学式前後に満開になる場合もあるけど、どちらかというと私にとって桜は出会いよりも別れの季節の花だ。桜自体はすごくキレイな花だし、好きなんだけどね。
それはさておき、私だって元はアラフォーのおっさんだった人間だ。洋子さんが言っている事は、元社会人としては痛いくらいに理解できている。でも、今はピアノに集中していたいのだ。純粋に頑張りたいという気持ちもあれば、発表会という観客がたくさんいる場で失敗して恥ずかしい思いをしたくないという後ろ暗い思いもある。ままならない現実に胸の奥から何かが勢いよくこみ上げてくると共に、目頭が熱くなって瞳が潤むのを感じた。
肉体の年齢に引っ張られているのか、実はこの体ってかなり涙もろい。中身はアラフォーのおっさんなのだから泣いているところを想像すると痛々しい事この上ないが、ありがたい事に現在の私の見た目は幼気な小学生だ。涙が流れるに任せて嗚咽を漏らしていると、ふわりと暖かいものに顔が押し付けられた。
背中とトントンと叩かれて、洋子さんに優しく抱きしめられていることに気付く。前にもこうして慰めてもらったなぁと自分を情けなく思いながら、今はそのぬくもりに甘えさせてもらう。
「ごめんね、すみれ。あなたには負担ばかり掛けるわね……周りの大人が課す課題をすみれがあっさりこなしちゃうから、あなたがまだ小学生だってついつい忘れちゃうのよ」
決してあっさりではないのだけど、どうやら洋子さんをはじめとした周りの大人たちにはそう見えるらしい。こちらとしてはそれなりに苦労して、出された課題をなんとかこなしているんだけどね。
「今回のピアノも、琴音先生からは順調すぎるぐらい順調だって聞いてるの。だからちょっとおでかけしても大丈夫、それであなたのこれまでの頑張りが全部無くなってしまうなんて事はないわ」
背中を叩いてくれていた手が後頭部に当てられ、優しく撫でられる。でも1日サボるとそれを取り戻すには3日間かかるとか聞いた事がある、多分ピアノに限らず修練が必要な楽器や競技・武道なんかはどれもそうなのだろう。
それを考えると踏ん切りがつかない。いや、私がここでどれだけゴネても仕事には行かなきゃいけないんだけど。このままだとピアノも撮影もどっちのクオリティも散々になりそうで、なんだか憂鬱になってしまう。
「今のすみれはピアノを頑張らなきゃ、成功させなきゃって目一杯頑張ってるよね。でも、根を詰め過ぎてもかえって良くないのよ。2日間だけピアノから離れて、気分転換しましょ……ね?」
私を説得する洋子さんの声には確かに心配の色が滲んでいて、私のワガママでこれ以上周りに迷惑を掛ける訳にもいかない。私は洋子さんのお腹のあたりに押し付けていた顔をあげて、洋子さんの瞳をじっと見つめて頷いた。洋子さんはホッとした様な表情をして、親指で私の目尻に溜まっていた涙をそっと拭ってくれた。
「……泣いてるすみれの上目遣いの破壊力はすごいわ。女の私でもぎゅーって抱きしめて、めちゃくちゃに撫で回したくなっちゃった」
ボソリと何かをつぶやいた洋子さんにこてんと小首を傾げると、彼女は『なんでもなーい』とおちゃらけた様に言ってもう一度私の頭を抱え込むように抱きしめた。
心の中の不安は小さくなるどころか更に大きくなっているけど、でも一度行くと決めたんだから気持ちを切り替えて楽しもう。私はまだまだ乗り気じゃない自分の心に向かってそう告げて、無理やり意識を切り替えた。
結果的に、私がピアノから離れて京都に行ったのは正しかった。あっちにいる間はピアノの事を忘れて美味しいものを食べてリフレッシュしたり、演技に没頭したりする事ができたのだから。
京都に着いてすぐに案内された撮影現場は桜が満開になっていて、その鮮やかな光景にしばらく釘付けになってしまった。その後に映像制作会社のスタッフさんと、件の和菓子屋の社長さんを含めた皆さんで打ち合わせをしてCMの内容を確認する。
卒業シーズンには少し遅いこの時期なんだけど、なんと私の衣装は袴だ。薄桃色の着物にワインレッドの様な暗めの赤地に桜の小紋が入った袴が用意されていた。着物には百合の花の模様が描かれていて、大正時代の女学生というのが第一印象だった。髪型もポニーテールで指定されていて、そこに袴と同じ色のリボンをつけるという事なので、イメージに大きな食い違いはないだろう。
その日の夜ごはんは社長さんと一緒に料亭でごちそうになった、明らかに一見さんお断りな雰囲気なお店に気後れしてしまったのは言うまでもない。だって前世も含めて初体験なんだもの、舞妓さんまで呼んでくれてお金持ちの遊びを体験してしまいました。
社長さんは気さくな方で、見た目は子供な私にも色々と話を振ってくれて気を遣ってくれた。ただ普通の子供と違って大人との会話が成り立つとわかってからは、社長さんは自分の半生を情感たっぷりに語り始めた。年配の人って身の上話をしたがるもんね、まるで入社したての新入社員の様に相槌を打ったり感想を言ったりしながらやり過ごすのに苦労したよ。
色々と貴重な経験をさせてもらったからという訳ではないけれど、翌日の撮影は恩返しのつもりで精一杯頑張った。桜並木を袴姿でしずしずと歩く、台詞もなく仕草や表情だけで求められている画を表現するのは難しいながらもやりがいがあった。
だってディレクションが『楽しそうに』だけなのにすぐにダメ出されるんだもん、それなのに何がダメなのかを教えてくれないから自分で考えるしかないでしょ。結局色々と試して『はにかみながら好きな人に会いに行く女の子』というイメージで演技をした時に、満場一致でOKが出た。撮影時間は2時間、試行錯誤しながらもそこそこスムーズに撮影を終了する事ができた。
撮影が終わった後に観光客の人に写真をねだられて一緒に撮ったり、打ち上げで美味しいケーキ屋さんに連れて行ってもらったり、すごくリラックスした時間を過ごした。
やっぱり洋子さんが言う通りに、気持ちが張り詰めすぎていたんだなと実感する。経験も時間も足りない中無茶振りされたら仕方がないとは思うけど、もうちょっと気持ちに余裕を持つべきだと思った。ピアノの練習もムキーッてなりながらガムシャラにやっても効率はよくないもんね、多分一昨日までの私はそんな状態だったのだろう。
社長さんからお土産の和菓子詰め合わせをもらって、撮影でお世話になったスタッフさん達に見送られながら夕方の新幹線で帰途についた。和菓子は日持ちしないけど、明日までなら持つそうだから寮のみんなへのお土産によさそうだ。
新幹線が走り出して見送りの皆さんが見えなくなり、私は小さく息を吐いて座席の背もたれに体を預ける。楽しかったけどちょっと疲れたかな、そんな事を考えていたら隣に座っている洋子さんがクスリと笑みを浮かべた。
「気分転換はできたみたいね、いつものすみれに戻ってよかったわ」
「洋子さん……心配かけてごめんなさい、もう大丈夫だから」
「心配も迷惑もたくさんかけてくれていいのよ、マネージャーっていうのは担当タレントのそういう色々をフォローするためにいるんだからね。遠慮されるのが一番困るの」
洋子さんはそう言って、私の頭をポンポンと撫でた。子役のマネージャーは基本的に保護者がする事が多いらしいのだが、洋子さんと私の様にプロダクションの社員とタレントで組むケースも多々あるそうだ。他の子役タレントはワガママだったりコミュニケーションが取れなかったりでマネージャーさんは苦労するらしく、私は全然手が掛からなくて楽な方なのだと洋子さんは笑いながら教えてくれた。
「……じゃあ、これからも甘えさせてもらいます」
なんだか嬉しさとか恥ずかしさとか色々な気持ちが湧いてきて、ちょっとだけ照れた風になりながらもそう告げると、洋子さんは『こちらこそ』と言って笑った。
よし、気持ちを新たに明日からも頑張ろう。まずは琴音先生に注意された点を完璧に直して、先の部分に進める様にならなくちゃ。
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