37――発表会への誘い(強制)
母を見送ってから数日、いつもの日常に戻っていた。ただ学校ももうすぐ春休みという事で、どこか浮ついた空気が流れている。
「5年生ってなんか中途半端なのよね。修学旅行は6年生だし、退屈な1年になりそうだわ」
友達とワイワイ楽しそうにしているクラスメイトを眺めながら、透歌が小さくボヤいた。相変わらず子供らしくない性格の彼女に苦笑いを返しながら、私は彼女をなだめる。
「まぁまぁ……でも確か、臨海学校があるんでしょ?」
「何が悲しくてせっかくの夏休みを潰されなきゃいけないのよ、それに……」
納得がいかないのか最初は語気が強かった透歌の言葉尻が、弱々しくしぼんでいく。そしてなんだか寂しそうな表情を浮かべた後、私をじっと見つめた。
「すみれは不参加なんでしょ、この間マネージャーの人が先生と話してるのを聞いたわよ」
「うん、残念だけど仕事なんだって」
寂しがってくれている親友の様子にほっこりしながらも、不参加の理由もあらかじめ洋子さんから伝えられているのでそのまま口に出す。
うん、これも神崎監督の指示なのだ。まだ5ヵ月弱は先の話なのに、既に例の映画の撮影でスケジュールは押さえられている。適当なのか計画的なのか、イマイチ監督の性格が掴めていなかったりする。
机の上で手持ち無沙汰な感じに指を動かしている透歌の手に自分の手を重ねて、戯れに指を絡ませながらそんな事を考える。私の指の動きがくすぐったかったのか、仏頂面だった透歌の表情が笑顔に変わった。
うん、やっぱり女の子は笑ってる方がいいよね。もう片方の手を伸ばして私にやり返そうとしてくる透歌の手を避けながら、楽しく休み時間を過ごすことができた。
そしていつも通りにピアノを弾いて水泳を頑張り、空いている時間に入った仕事をこなす毎日。安定してお仕事があるのは、本当にありがたい。何しろ私の稼ぎは生活費と今後の学費に変わるのだ。仕事がなくなったら路頭に迷うし、学校にも行けなくなってしまう。特に姉が寮の完備されている私立の一貫校に入ると聞いてからは、余計にお金の事が心配になってしまう。
だって実家が貧乏だからね、本当なら私立になんて入れる余裕なんてないのは前世で母から直接話を聞いた私が一番よく知っている。今回は言い出しっぺの祖母が援助するという事も聞いているが、さすがに全額は無理だろう。となると、両親の負担は公立に通っていた前世よりかなり重くなるのは間違いない。
(バブルが弾けるまで後少し、頑張ってお仕事して少しでも余裕を持っておかなくちゃ)
ぎゅっと両手を握ってやる気を漲らせながら、私はピアノ教室が入るビルへと早足で入っていく。実はこの音楽教室は芸能プロダクション御用達なのだが、一般の生徒さん達がいない訳ではない。ただし入所の際に厳しい規約に同意させられているらしく、彼らは芸能人に極力関わらない様に細心の注意をしながらここに通っているそうだ。ミーハーなファンは入れないって事なんだろうね、罰則も厳しいみたいだし。
「こんにちは、すみれちゃん」
「こんにちはー」
受付のお姉さんと挨拶を交わして、今日のレッスンブースを教えてもらう。ここの音楽教室にはグランドピアノが2台設置されていて、それ以外はすべてアップライトピアノだ。グランドピアノは音楽室に設置されているピアノ、アップライトピアノは大きな横長の長方形の箱の真ん中あたりに鍵盤がくっついている様なピアノだと思ってもらえればわかりやすいかもしれない。
以前レッスンの休憩中に琴音先生と雑談していて聞いたところによると、お値段的にはグランドピアノの方が高いらしい。でもアップライトピアノも品質にこだわったものは値段がグッと上がるそうで、普及モデルのグランドピアノなんか目じゃないくらいの価格で売られている事もあるんだとか。物でも技術でもそうだけどピンからキリまであって、それによって価値が変わるんだなぁとその時はしみじみ思ったり。
それはさておき、いつもはアップライトピアノのブースが充てがわれるのだけど、今日はグランドピアノのブースだった。これまでの経験上ここに案内される時は、レッスンのレベルを上げるための見極めをしたり、なにかの節目の場合が多い。気を引き締めてブース内に入る。
中には普段と変わらない、穏やかな笑みを浮かべた琴音先生がいた。笑顔で挨拶をして、ピアノの前に設置されている椅子に座る。ここからは本格的にレッスンを始める前の準備運動になるのだが、指のストレッチを念入りに行って、続いて指の運動になる練習曲をいくつか弾く。ルーチンワークだから何も考えずに弾いてしまいそうになるけれど、練習曲にはリズムの取り方とかペダルのタイミングとか初心者の私にはまだまだ足りない部分がたくさん含まれている。1音1音丁寧に弾く事を心がけながら、私は鍵盤に指を滑らかに走らせる。
手が小さいので最初はオクターブが届かなくて苦労したのだが、琴音先生に教えてもらったストレッチや練習教本の内容を繰り返す事でなんとかその部分はクリアする事ができた。ピアノを習い始めてもうすぐ半年な私だが、先生曰く1年半から2年ぐらい続けている子と同じレベルまで上達しているそうだ。それがお世辞なのかどうかはわからないけれど、私はどちらかと言うと褒められて伸びるタイプだと思うので、もっと褒めてもらいたい。
ここからは私の勝手な推測だけど、前世で色々な事を経験したのが良い方向に活きているのかもしれない。ひとつ目の外国語を学ぶ時は時間が掛かって苦労するけれど、その後に別の言語を学ぶと半分ぐらいの時間で身につける事ができたって体験談を前世で聞いた事がある。別ジャンルではあるけれど楽器を吹いていた事もあるし、そういう過去のひとつひとつがピアノの習熟度を上げてくれているのかも。
私が練習曲を弾いている間にブースに入ってきた洋子さんが、カシュッと音を立てて缶コーヒーのプルタブを開けた。私がレッスンを受けている時の洋子さんは、よっぽどの用事がない限りはここでのんびりと飲み物を飲んで、私が弾くピアノの音色に耳を傾けている。忙しい人だから、レッスンの進捗確認にかこつけて休憩時間を捻出しているのかもしれない。
洋子さんの事を意識の片隅に追いやって、前回もらっていた課題曲を弾いてダメなところを先生に指摘してもらう。何度かダメ出しとやり直しを繰り返してなんとか合格をもらうと、私も休憩タイムだ。洋子さんが買ってきてくれていたオレンジジュースの缶を受け取って、プルタブを開けてコクコクと飲み始める。
弾き始めるまで全く知らなかったが、ピアノの演奏というのは意外にカロリーを消耗する。頭で色々な事を考えながらも指のみならず腕も動かさないといけないし、リズムや演奏指示――スタッカートとかスラーとか他にも色々とある――にも気を使わないといけない。集中力もガリガリ削られるので、糖分の補給というのは結構大事なのだ。
指先がじんじんと痺れる様な感覚と、両腕の心地よい疲れを感じながら目を閉じていると、洋子さんが先生に何やら話しかけているのが聞こえた。
「それで先生、この間お電話した件なんですが、どうなりました?」
「はい、大丈夫でした。ちゃんとすみれちゃんのエントリーは済ませておきましたよ」
琴音先生のほんわかした声に混ざった不穏な単語に、思わず閉じていた瞳を開く。すると琴音先生と洋子さんは、何やらニヤニヤとした様子で私の方を見ていた。いや、ニヤニヤしていたのは洋子さんだけで、琴音先生はいつもより少し楽しそうにニコニコしていただけなんだけど。
「な、なんの話ですか?」
思わず身構えて訝しげに尋ねてしまった私は、まったくもって悪くないと思う。そんな私を見てふたりはクスクスと笑うと、洋子さんがいつもより明るい表情で口を開いた。
「神崎監督からの指示でね、一度すみれの演奏を聴きたいって言われたの。しかもこういうレッスンの場じゃなくて、本番さながらの環境でという指定でね」
「……はぁ、なんというかあの人ちょっと無理難題を言い過ぎじゃないですか?」
「映画監督なんて無理な事を言ってきて当然の生き物なのよ、それに付き合わなきゃいけないすみれには申し訳ないんだけどね」
やれと言われれば頑張るけれど、できれば準備期間をめいっぱい確保してほしい。弾く曲にもよるけれど、初心者なのでたくさん練習しなければ、とてもじゃないが観客には聴かせられない。
「それでね、琴音先生に頼んでこの音楽教室が開いている発表会に、すみれも出してもらえる様にお願いしたのよ」
ちょっと待ってほしい、それはもう本番さながらではなくて本番なのではないでしょうか。そんな私の胸中での抗議が聞こえたのか否か、琴音先生が手をポンと合わせながら言った。
「大丈夫よ、すみれちゃん。衣装なら私が小学生の頃に着たワンピースがあるから、貸してあげるね。すごく可愛いワンピースで、絶対すみれちゃんに似合うと思うの」
違うんです、そうじゃないんです琴音先生。ピアノの発表会に出席できる衣装なんて持ってないから貸してもらえるのはありがたいのですが、不安に思っているのはそこじゃないです。
「すみれに弾かせる曲はもう決まってるんですか?」
「はい、今日の後半から練習してもらおうと思って譜面も用意してきました。はい、すみれちゃん」
私の戸惑いを他所に、洋子さんと琴音先生はにこやかに話を進める。差し出された譜面を受け取ってタイトルを見ると、おそらく誰もが知っているであろう曲名が書かれていた。
「……エリーゼのために?」
「うん、多分すみれちゃんも聞いた事があるよ。初心者にはちょっと難しいバガテルだけど、すみれちゃんなら本番までに仕上げられるから。不安にならなくても大丈夫」
確かにどんな曲かは知っているけど、詳しい事は全然だ。ベートーベンが作曲した事ぐらいしか基礎知識はないし、どちらかというと電話の保留音のイメージの方が強いぐらいだったりする。
譜面を見ると確かに今練習している譜面よりは難しいが、練習すればなんとかなりそうだ。ただ発表会ともなればなんとなく弾けばいいという訳ではなく、表現や技法などにもこだわらなければいけない。現在の私にどこまでやれるのかは正直なところわからないが、厳しい日々になる事は想像に難くない。
でも琴音先生は『私ならできる』と信頼してこの曲を選んでくれたのだ、それならばその気持ちに応えてきっちり仕上げて本番で弾きこなしたい。そう思うとなんだかやる気が湧いてきた、頑張らなきゃね。
「それで、その発表会っていうのはいつなんですか?」
前向きな気持ちでそう尋ねると、洋子さんがにっこりと笑って『4月の下旬だから、約ひと月半後ね』と宣った。ええ……準備期間短くない?
「あの、これ、1ヵ月半でなんとかなりますか?」
やる気がしおしおと萎れてその代わりに不安が膨れ上がるのを感じながら聞くと、琴音先生がいつもの穏やかな笑顔に何やら黒い物を漂わせながら言った。
「なんとかならなくても期限が決まっているんだから、なんとかしなきゃね」
副音声で『ゴチャゴチャ言わずにやれ』という彼女らしからぬ言葉が聞こえた気がして、私は思わず背筋をシャンと伸ばして『はい!』と元気よく返事をした。多分琴音先生も普段は無茶ぶりされる立場なのだろう、かなりの修羅場をくぐりぬけてきた様な貫禄を感じる。
そういう訳で、またも神崎監督の無茶によってピアノの発表会に参加する事になりました。お願いですから、これ以上の無茶振りはやめてくださいね、神崎監督。
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