15――母の涙


 応接室に入ると大島さんに手招きされ、母が座るソファの隣に腰掛ける様に促される。対面には大島さんが座り、何やら三者面談みたいな雰囲気になっていた。


 トヨさんが俺の前に紅茶が入ったカップをそっと置いてくれる。そう言えばユミさんとずっとお喋りしててノドが渇いていた事に今更ながら気付き、こくりと一口飲むとほんのりとした甘さが口に広がる。


 砂糖を多めに入れておいてくれたんだな、と気遣いにほっこりしながらカップを置くと、それを見計らった様に大島さんが話しかけてきた。


「ユミはどうだった、仲良くなれそう?」


「はい。ユミさん優しくて、色々と教えてもらいました」


 『それならよかった』と答えた後、大島さんは少し間を置いてから俺を正面から見据えた。その眼力に俺の意思とは関係なく、体が緊張した様に固くなる。蛇に睨まれた蛙っていうのはこういう事か、なんて脳内で考えながら彼女の次の言葉を待った。


「単刀直入に聞くけれど、すみれさんはどうしたい?」


「どうしたい、とは……?」


 唐突過ぎて彼女の言葉の意味が理解できず、オウム返しに聞き返してしまった。失礼な行為だとは思うが、彼女の真意がわからないのだから仕方がない。


「ここで演技の勉強、したい? 先程見せてもらった演技は素晴らしかったと思うわ。あなたがやりたいと言うなら、私は全力で支援しようと思っているの」


 非常に想いのこもった言葉に、思わず目を瞬かせる。おそらく彼女の言葉に嘘はないと、直感的に思った。ならば俺も自分の気持ちを正直にぶつけるべきだろう、こくりと喉を鳴らしてから口を開く。


「やりたい、です。でも……」


「でも?」


「わたしの家にはお金がなくて、東京で暮らすのも学校に通うのもお金がかかります。以前から入る高校は公立じゃないとダメだ、もし落ちたら中卒で働きなさいと言われている身としては、両親にはそんな無理は言えないです」


 こんな風に言ったら金にうるさい両親に対する意趣返しに取られる可能性もあるが、別にそんなつもりはない。昨日神崎さんにも同じ事を話したし、実際に我が家には必要最低限のお金しかないので、余分な事に使う金銭的余裕はないのだ。


 ここで言う必要最低限というのは俺達の学費なども含まれるので、その日の生活に困るという程に困窮はしていないので念のために補足しておきたい。


 大島さんは何故か本当の事を俺に暴露されて恥ずかしそうにしている母をちらりと見ると、小さくため息をついた。


「さっきの話もそうだけれど、娘さんにそんな風にプレッシャーを与え続ける育児が本当に正しいのかしら? ねぇ、お母様?」


「……私も主人も親からそういう風に育てられましたので、それが正しいかどうかなんて考えた事もないです」


「本来なら他所様の育児に口を出す趣味はないけれど、このままだとこの子は成長していくにつれて歪むでしょうね。あのね、子供にだって自我があるの。それなのに自分には理解できない世界だからと、子供のやりたい事を妨害する。お金がないからと、子供の進路を自分達の都合の良いように狭める。そんな事をすれば歪むのは当然だわ、それは成長するにつれて大きくなっていく。あなたはさっきこう言ったわね、私達があの子を育ててやってるんだって。だから娘も自分達の言う通りにするのが当然だって。違うでしょう、子供を望んで作って生んだのはあなた達夫婦であって、この子があなた達に生んでくださいお願いしますと願った訳じゃないわ。子供に責任転嫁するのはおやめなさいな、みっともない」


 嫌悪感を顕にしながら言葉を連ねる大島さんに、母はうつむいたまま言葉を発しない。おそらく俺がここに来る前に色々と二人で話をしたのだろう。子役から大人の中に交じって世間の波に揉まれて自ら変化を求め受け入れて生きてきた大島さんと、自分の常識だけを羅針盤の様にして頑固に生きてきた母は例えるなら水と油。どれだけ言葉を重ねても平行線で、交わることはないのではないだろうか。


 赤の他人にしてはかなり踏み込んだ発言を口にした大島さんは、黙り込んだ母からこちらに視線を移した。


「すみれさんとしては、お金の問題が解決した場合はこちらに来て演技を学びたいと、そういう事でいい?」


 確認する様に言う大島さんに、俺はこくりと頷いた。親友ふたりと離れるのは本当に寂しいけど、手紙でも交流はできるし帰省の際には遊ぶ事もできるのだからきっと大丈夫。逆に家族と離れる事については、特に寂しさや不安は感じない。多分前世で親元を離れて暮らした経験があるからだろう、その時に既に気持ちの上での親離れというか、巣立ちはもう済ませてある。


「では、私が金銭的な援助をしましょう。もちろんあげる訳じゃなくて、可能な限りの返済はしてもらうけれど」


「それはすごくありがたいですが、でもなんていうか」


「話が自分にとって美味し過ぎる?」


 ああ、それだ。俺にとってのメリットはたくさんあるが、大島さんにとっては何の得もない提案だと思ったからだ。美味しい話には裏があるとは昔からよく言ったもので、これだけこちらに都合がいい話なら、きっと特大の落とし穴があるはず。俺にはそう思えて仕方なかった。


「安心してちょうだい、すみれさんにとって不都合な事はしないわ。大きくなったら仕事のために体を差し出せとか、水商売を掛け持ちしろとか、そういう芸能界にありがちなことも言わない。ただあなたは役者として育っていって、やがて私の後継者のひとりとして色々な舞台を盛り上げていってくれればいいの。私はその為に養成所を作ったのだから」


 小学生相手に何言ってんだこの人は、と内心では驚きと呆れが半々。でもさすがに9歳児がこの会話を理解したらおかしいので、俺は頑張ってきょとんとした表情を維持した。おそらく何を言われてるかわかりません、という雰囲気を出せているはずだ。


「もちろん将来的に、色々な事情でリタイアする子達もいるでしょう。それはそれで仕方がない……ただせっかく見つけた原石が、自分の意思以外の物に気持ちを捻じ曲げられて、やりたい事にチャレンジすらできないというのは私にとって我慢ならない事なの。だから強いて理由をあげるなら、あなたへの援助は私のためにするという事になるわね」


 大島さんはそう言って小さく微笑んだ。なるほど、細かい理由は全然伝わってこなかったが、俺への援助が彼女にとって全くの善意ではなくメリット目当てである事は理解できた。ここまで言ってもらっているのだから、俺としては是非大島さんの元で演技を学びたいと思う。後は母の許可が出るかどうかなのだが……。


 ちらりと母の方を見ると、何やら思いつめた様な表情をしている。そして何度か逡巡してから、やっとの事で母は口を開いた。


「本当に娘の身に危険はないんですか……?」


「約束しましょう、信用できないと言うなら法的に効力がある公正証書を作成してもいいわ」


 しっかりと大島さんが頷くのを確認してから、母は俺の方に向き直った。なんとなくいつもと雰囲気の違う母に、俺も少し背筋を伸ばして姿勢を改める。


「すみれ……あのね、正直なところを話すと今もお母さんはこの人の言ってる事が理解できない。親子は一緒に暮らすものだし、子供は親の言うことを聞いてその通りにするのが一番幸せだろうと思ってる」


 母の言葉に、俺は小さく頷く。母の言ってる事の是非はともかく、昭和中期はこういう考え方が一般的だったのだ。その考えに則って育てられた両親が同じ考えを持つのも理解できる。


「でも、あんたがやってみたいって言うならやらせてみてもいいかなって、今はちょっと思ってる。でも、でもさぁ……」


 その瞬間、すごい力でぐいっと引っ張られて母の腕の中に閉じ込められた。その柔らかさにものすごく懐かしさを覚える、こんな風に母に抱きしめられるのはいつ以来だろうか。現世では赤ちゃんの頃は抱かれたりしてたが、こんな風に改めて抱きしめられるという事はなかった様に思う。という事は前世の子供の頃が最後だったのだろう、男だったから恥ずかしさもあっていつしか母と触れ合う機会は無くなっていたんだなぁと今更ながら思う。


「離れるのイヤだよ、娘と一緒に暮らせなくなるなんて……そんなのないよぉ」


 そう言いながら母の腕に更に力がこもり、それと同時にその声にあからさまに判るぐらいに湿り気を帯びる。母の泣き声は昔から苦手だ、いつも気丈で我が道を行く母に泣かれるとこっちも不安になってどうしていいのかわからなくなる。母の涙が引き金になったのか、俺の目頭も熱くなる。涙が溢れない様に、母の体にぎゅうっと自分の顔を押し付けた。


 後から考えると大島さんには非常に申し訳なかったが、その存在を忘れてしまったかの様に俺と母はしばらく抱き合ったまま嗚咽を漏らし続けたのだった。

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