16――父との会話
あれから冷静になった母と俺は、意図的ではないにせよ放置してしまった大島さんにお詫びをした。他人の前で大泣きするなんて、前世でもやらかした事がない大失態だ。おそらく顔が赤くなっているだろう事を自覚しながら頭を下げる俺を、大島さんは微笑ましそうな表情で見ていた。
「もう一度、今度はお父さんを交えつつ家族で相談してみて頂戴。いい返事を期待してるわね」
そう言いながら、大島さんは朗らかに笑って俺と母を玄関まで見送ってくれる。門扉の前には大島さんが所有する黒塗りの高級車が停まっていて、俺達を東京駅まで送っていってくれるそうだ。なんとも至れり尽くせりな話である。
運転手さんが扉を開けてくれたので、お礼を言いながら俺と母は後部座席に乗り込んだ。シートがすごいフカフカで、本革張りで手触りがいい。前世で普通免許を取り立ての頃に原付に乗っていて、踏切での一時停止違反を検挙された際にパトカーのリアシートに座った事があるが、あれと同じかそれ以上の高級感だ。
そんなしょうもない事に感動していると、バタンとドアが閉められて窓が自動で開く。パワーウィンドウなんて平成末期では軽自動車でも当たり前に標準装備で搭載されている機能だが、この時代では高級車ぐらいにしかついていなかった。手でハンドルを回して窓を開ける車にしか乗った事がない母が、急に開いた窓を見てビクッと体を震わせながら驚いている。
「松田さん、あなたは少し自分と違う意見を持ってる人とも交流を持った方がいいわ。自分と違う意見の人に従え、なんて事は言わない。でも、自分とは違う意見を聞く事によって、色々と考えを巡らせるでしょう? 考えた結果やっぱり自分が最初に持っていた意見が正しい、という答えでもいいのよ。一番ダメなのは、考える事を止めて思考を停止させてしまうこと。差し当たってもし何か悩む様な事や相談事があったら、私に電話してきたらいいわ。私の時間がある時に、その事についてゆっくりお話しましょう」
「……ありがたいお話ですが、でも大島さんのご迷惑になるのでは?」
大島さんの思いがけないお誘いに、母は戸惑った様に尋ねる。それを聞いた大島さんは、手をヒラヒラと振ってその言葉を否定した。
「迷惑なんて事はないわ、私にとっても得るものがあるから。例えばあなたの考え方やあなたの喋り方、感情……それを知る事で、私の中の
「そう、なんですか?」
「役者だから様々な役を演じる際に、本物の人間の仕草や表情などはとても参考になるの。役者にとって人間観察はもう職業病みたいなものだわ、観察される側は気分が悪いかもしれないけれど」
大島さんはそう言って、今度は俺へと視線を移す。
「すみれさんは、しっかりとお父様に自分の気持ちを伝えていらっしゃいな。親の意向がどうこう、懐具合がどうこうなんて子供は考えなくていい。大事なのはあなたがやりたいかどうか、それだけよ」
頑張りなさい、と最後に付け加えた大島さんにこくりと頷くと、運転手さんがタイミングを測っていたのか窓が自動的に閉まって車がゆるりと動き出した。上品に小さく手を振る大島さんに俺は手を振り返し、母は振り返って深々と頭を下げる。
駅に戻って荷物を回収してからも車は何事もなくスムーズに東京駅に着き、俺達は運転手さんにお礼を言って駅舎の中に入った。もうすぐお昼、という時間だったので飲食店は結構な混み具合だった。母と相談して、家族や友達へのお土産を選んでからホームで駅弁でも買って、新幹線の中で食べようという話になった。
結局ホームに上がる頃には母だけでなく俺も両手に紙袋をいくつもぶら下げる、不格好な状態になってしまった。母は有名なひよこのお饅頭などを買い込んでいて、俺はなおやふみかを初めとするクラスメイトや千佳ちゃんにサブレを買ったりした。裏のまーくんちには母が買っているので、俺はノータッチだ。
「すー、大丈夫? お母さん、もう少し持とうか?」
「お母さんだってもう限界でしょ、大丈夫だよ」
気遣ってくれた母にそう返しながら、小さく微笑む。さっき大島さんのお宅で母と号泣してから、なんとなく母との気持ちの距離が以前よりも近づいた様な気がしていた。
前世での母への複雑な感情は、確かに今もこの胸の中にある。でもそれを今身近にいる母に重ねる事は理不尽だし、八つ当たりに等しい行為だろう。二人は別の人間なんだと上辺だけでは理解していたけれど、きっと感情の部分は納得していなかったのだ。
あの時俺の事を思って泣いた母を見た瞬間、自分の間違っている部分を誰かに突きつけられた様な気がした。あちらの母の影ばかりに気を取られ、こちらの母をちゃんと見ていなかったのではないかと。
きっとそれは父にも姉にも言える事なのだろう、俺は前世の彼らを意識してばかりでこちらのふたりをないがしろにしてきた。ちゃんと見ているつもりだったが、それはつもりでしかなかったという事だ。
前世での家族への感情はきっと一生捨てられないだろう、でもそれを現世の家族にまで負わせるのは非常にアンフェアだ。もしも俺が彼らの立場だった場合、非常に理不尽だと思うだろう。自分がしてない事で恨まれるのも御免だ、きっとそう言うと思う。
最初はまた同一視してしまうかもしれないが、これからは前世と現世を切り離して別々に分けて考えられる様にしなければいけないと強く思った。その上で現世でも家族が自分に理不尽を強いてきた場合は、その時に考えよう。今はこの甘やかな希望をただ信じていたかった。
新幹線に乗り込んでから駅弁を食べた後そんな事をずっと考えていたからか、いつの間にか新幹線がもうすぐ降車駅に着くというところまで移動していた。車内アナウンスを聞きながら母と手分けして荷物を持って、デッキの方に移動する。
5月とはいえ、日が沈むと少し空気がひんやりとしている。ホームに降り立って人の流れに乗りながら改札口に行くと、その向こう側に見知った顔が立っていてこちらに向かって手を振っていた。
「あれ、おとーさん。どうしたの?」
「どうしたのって、お前達を迎えに来たんだよ。昨日のうちにお母さんから電話をもらってな、知り合いから車借りて……ってすごい荷物だな」
俺の疑問に苦笑しながら答えると、父は自然に俺の荷物を手に持って、更に母の荷物の半分を引き受けた。とりあえず続きは車で話をする事にして、俺達3人は駐車場へと足を向ける。停まっていたのはセダンタイプの乗用車で、角ばった四角いフォルムにレトロな印象を覚える。でもそれは俺の中で平成末期の車のフォルムが印象に強く残っているからであって、街にはこういう車が多く走っているのでメジャーなデザインなのだと思う。
トランクに荷物を積み込んで、俺は後部座席に座って母は助手席へ。ここから我が家までは高速を使っても1時間以上かかる、話をするには充分な時間がある。ちなみに父は迎えに来るのに姉も誘ったそうだが、家で留守番していると断られたらしい。まだオーディションの結果もその後の話も姉には何も伝わってないそうだから、ここに姉がいないのはある意味好都合だと言える。
(この話を聞いた姉がどういう反応をするのか、正直なところ読めないんだよね。だから不用意に話すのは絶対に厳禁、ある程度準備を万端にしておかないと)
発狂まではいかないと思うけど、癇癪ぐらいは普通に起こしそうな気がする。けれども、もしも父が東京で演技の勉強をする事を許してくれるのならば、姉とちゃんと話す機会は今後あまりないかもしれない。例え姉とうまく和解ができなかったとしても、現世の姉とちゃんと向き合う為の道筋ぐらいはつけておきたいと思う。
「それで、東京ではどうだったんだ?」
車をゆっくりと走らせながら、父が話を振ってくれた。さて、こちらの話し合いも俺の将来にとって非常に重大だ。しっかりと自分の気持ちを伝えなければ、と俺は居住まいを正してから口を開いた。
オーディションは残念ながら面接で落ちた事。でも面接官をしていた映画監督の神崎さんが才能を見出してくれて、女優の大島さんに話を繋いでくれた事。大島さんの前でも演技をして、東京で演技の勉強をしないかと誘ってもらった事。そして何より大事な、自分はやってみたいと思っている事を運転中の父の横顔を見つめながらしっかりと伝えられたと思う。
うん、うんと相槌を打ちながら聞いていた父は、今後はこちらにポツリポツリと質問をした。母も気にしていた俺の身の安全や住む場所の事、金銭的な話。普段子供の事は母に丸投げしている父にしては、親として心配になるだろう事を一通り懸念材料として上げてくる。それに対して母が補足混じりに大島さんから聞いた事を答えてくれた。公正証書を作ってもいいと言った大島さんの言葉は、どうやら母にとっては信用する材料としては大きかったようだ。
「じゃあ、お前はすみれを東京に行かせる事には賛成なんだな?」
「……うん、正直なところすごく寂しいし心配だけど、この子がやりたいなら挑戦させてあげたいと思ってる」
父が尋ねると、母は神妙な顔でそう言ってくれた。その答えを聞いた父は胸ポケットからタバコを一本取り出して、車に備え付けてあるシガーライターを使って火を付けた。タバコを口にくわえた後に、深く吸い込む仕草をしてからたくさんの煙を吐き出す。
「いいんじゃないか、やってみたらいい」
重々しい仕草とは打って変わって、返ってきたのは軽い感じのそんな言葉だった。きょとんとする俺に、ミラー越しの父はニヤリと笑いかける。
「大人になるとわかるが、子供の頃の夢が叶う確率なんて本当に少ないもんだ。でもやってみないとその確率ってのはゼロのままだからな、まずはゼロを1%に上げるために頑張ってみればいい」
「……お父さんもちいさい頃、何か夢があった?」
父の意外な言葉にきょとんとしていたであろう俺は、ふと興味を覚えて思いついた質問をぶつけてみる。すると父はちらりとこちらに視線を向けてから、苦笑を浮かべた。
「お父さんはなぁ、車の製作に関わる仕事をやってみたかったんだよ。それで実家の近くにある工業高校に入ったんだが、どうにもついていけなくてな。なんとかかんとか卒業は出来たが、希望する仕事には就けなかった。その後印刷機械のオペレーターとして大きな会社に入ったが体を壊してな、今の運転手の仕事に就いた訳だ」
ある意味車に関わる仕事には就けたから半分は叶ったのかもな、と父は笑った。この話は前世も含めて初耳で、初めて父と腹を割って話せた気がした。これからもこんな風に話ができれば、少なくとも前世よりは関係を悪化させずに付き合っていく事ができるかもしれない。ううん、むしろそうして行きたいと強く思った。
両親からGOサインをもらってホッとしたのか、柄にもなく緊張していたらしい俺は急な眠気に襲われた。それでも頑張って父の話に曖昧に相槌を打っていたのだが、東京から戻ってくる際の人ごみや移動に体力を持っていかれていたのだろう。いつの間にかまどろみにのまれてしまい、夢の世界に旅立ったのだった。
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