05――図書館通い


「あ、すみれちゃん! こっちこっち!」


 町の図書館の一室に俺が足を踏み入れた途端に掛かる声、背中の中ほどまで伸びる髪を三つ編みにしている、俺よりも3つ年上の女の子だ。


 自習室でそんな大きな声出したら怒られるよと呆れていると、周りの高校生ぐらいのお兄さんお姉さんが迷惑そうに彼女を見ている。その視線に気付いたのか、彼女はビクリと肩を震わせた後、隠れるように顔をうつむかせた。


 彼女がどこの誰なのかと言うと、まーくんのクラスメイトである清原千佳きよはらちかちゃんだ。元々顔見知りではあったのだけどそんなに話した事はなくて、ここに来た時に初めてちゃんと話をしたんだよね。


 世間一般の小学1年生は基本的に図書館の自習室なんて使わない。時間的にまばらだけど、今も周りにいるのは殆どが高校生の子たちばかりだ。


 自分達の勉強を邪魔されたらたまったもんじゃないと思われたのか、初めてきた時に何人かの人達に『どうしたの?』『部屋を間違ってるぞ』『迷子か?』と話しかけられたのだが、その質問からやんわりと助けてくれたのが千佳ちゃんだった。いやー、今の俺から見ると彼らの背は壁みたいに高いし、威圧感あるしで怖くてうまく言葉が出てこなかったんだよね。あの時は本当に助かった。


 もちろん受験の経験もある俺としては、彼らの気持ちだって解るのだ。小学生は基本的に大きな声を出すし、動作だってガサツで無遠慮に音を立てる事もある。そうしたら勉強してる学生の集中力が切れてしまい、何のために自分の家ではなくここで勉強しているのか本末転倒になる。自習室ではお静かに、と壁に貼られたキャッチフレーズが示す通り、お互いに気遣いが求められる場所なのだ。


 千佳ちゃんも家ではマンガ等の誘惑が多く勉強に集中できない為、週に3日・2時間と決めて自主的にここに通っているらしい。それなら塾通いすればいいのにとも思うが、平成末期ならいざ知らずこの頃に塾に通う子供といえば、基本的に中学受験を目指す様なエリートばかりだったのだ。もちろん費用も掛かるしそこまでの意識はない千佳ちゃんにとっては、塾なんて選択肢は初めから存在しなかったのだろう。


 去年からここを利用している千佳ちゃんも最初は俺と同じ様な感じで利用者に声を掛けられて、怖い思いもしたそうだ。だから自分より年下の小さな女の子が同じ目にあっているのを見て、放っておけなかったのだと話してくれた。


「千佳ちゃん、こんにちは」


 部屋のすみっこにある長机に移動し、千佳ちゃんが取っておいてくれたのかパイプ椅子に置いてあったカバンをどけてくれたので、そこに座りながら小声で挨拶する。


「今日は何するの?」


「字の練習かな。だいぶ書ける様になったけど、もっと上手になりたいし」


 机の上にノートとこの部屋に入る前に本棚から持ってきた書き方の本を並べながら答える。ちらっと千佳ちゃんの方を見ると、彼女は算数の勉強中のようだ。


 そもそも何故俺が図書館で勉強を始めたかと言うと、そろそろ俺にも習い事をさせようという話が出たからだ。前世では姉が通っていた算盤そろばん教室と書道教室に一緒に通ったのだが、ここの算盤教室は暗算はないがしろで算盤を使った計算を指導する事に重きを置いていた。それを否定するつもりはないが、正直なところ大人になったら算盤を使う機会なんてないし、置き方すらもうろ覚えで役に立たなかったのだ。


 書道教室にしても前世と手の大きさが違うせいで違和感はあるけれど、鉛筆でそこそこ綺麗な字が書ける。毛筆も学校で習えば勘を取り戻し、それなりの出来で書けるだろう。だとするならば前世で習っていた物を再び習いに行くのは、ある意味無駄とも言える。


 母を納得させるために教科書の計算問題を解きちょっと下手めに書いた文字を見せて、なんとか習い事に通わされるのを回避。他に習いたい物を聞かれたので英会話を希望としてあげたのだが、どうやらこの田舎には英会話教室などまだ存在しないらしい。


 英会話についてはしばらく棚上げとなり、他にやってみたい事ができたらお願いする事にした。ただ習い事をしないとなると、それはそれで時間を持て余し気味になってしまう。


 もちろん友達と遊んだり母の手伝いなども行っているのだが、友達と遊ぶのだって毎日じゃないし、小学校1年生の子供ができる手伝いもたかが知れている。ならば娯楽で時間を潰すという方法もあるが、平成で様々な娯楽を体感した俺にとっては、この時代のテレビやマンガ等は時代遅れに感じてしまう。もう一度リアルタイム視聴したい懐かしのアニメなどもあるが、放送されるのはまだ先だ。


 テレビゲームもまだ黎明期だし、逆に将棋などのアナログゲームはどうだろうかと検討したが、周囲に遊んでいる子もおらず対戦相手を探すのにも苦労しそうだ。


 そこで思いついたのが勉強だ。恥ずかしい話だが俺の頭脳はそれ程出来がいいとは言えない、学生時代の評価は良くも悪くも平均だった。しかも生まれ変わる前はアラフォーだった為、勉強した事なんてほぼ忘却の彼方だ。今はまだ幼く学ぶ内容も簡単なため、優秀というカテゴリには楽に入れるだろうが、成長するにつれてどんどん厳しくなっていくと思う。


 だったらこの暇な時間を使って、少しでも先の内容を予習すればいいのではないか。そう思った俺は早速実行に移そうとしたが、ここでひとつの懸念が浮かんだ。家で1年生になったばかりの子供が、上級生が習う内容を独学で勉強していたら明らかに不自然ではないかと。よく考えれば当たり前の話なのだが、それを見た両親に不審に思われて今の穏やかな生活が脅かされるのも嫌だ。


 俺としては、せっかく与えられたやり直しの機会だ。天才みたいに扱われて窮屈な生活を送るよりも、普通の人が当たり前に求める穏やかで幸せな生活を送りたい。であるならば、家の中では極力怪しまれる様な行動は起こしたくない。


 それに上の学年の勉強をするためには、参考書などの教材も必要になる。それを自然と手に入れられる場所と言えば、学校の図書室か町の図書館ぐらいだろう。学校の図書室で1年生が頻繁に足を運んで自習し、更にそれが上級生の内容だったとしたらものすごく目立つ。あと、これは非常に個人的な理由ではあるのだが、学校の図書室にはトラウマがあるのだ。


 俺が通っている学校は先述した通りの田舎の小さな小学校で、児童数も少なめだし図書の先生――学校司書さん――も常勤ではない。となるとどういう事が起こるのかと言うと、あの黒光りする害虫が本に卵を産み付けるのだ。前世の小学校時代、とある授業で図書室に来ていた俺達はひとつの本から大量の小さな虫がわらわらと湧き出す光景を発見。男女問わず教室内のあちこちで悲鳴が上がり、先生すらも逃げ出す状況で大騒ぎになった結果、クラスメイトの大多数が虫嫌いになるという悲惨で痛ましい事件があった。ああ、思い出しただけで本当に無理、気持ち悪くて鳥肌が立つ。


 なので図書室は却下、町の図書館に行こうと近所のお姉ちゃんからもらったお下がりの自転車にまたがって図書館に通い始めたのである。ちなみに自転車も前世のバランス感覚を魂が覚えているのか、特に練習の必要もなく乗る事ができた。前世では子供の頃に何度も転んで痛い思いをして乗り方を覚えたのだから、これくらいの特典は多目に見てもらいたいものだ。


 今日は字の練習をしているけれど、学年ごとに国語・算数・理科・社会と学習内容をチェックしていき怪しいところを覚え直しているが、意外とこれが効率よく進んでいる。一度学んだところというアドバンテージは思ったよりも大きく、この分だと4年生のところぐらいまでは1年生のうちに終わらせられるだろう。


「わぁ、すみれちゃん本当に字が上手だよね。何かコツとかあるの?」


 今日やる予定だったところが終わったのか、千佳ちゃんが俺のノートを覗き込むようにして小声で話しかけてきた。


「コツはよくわからないけど、わたしはお手本の真似して書いてるだけだよ。あとは同じ感じでいつでも書ける様に練習するから、かなぁ」


 前世で大人になってから付き合いでペン習字をかじった事があるが、結局のところ必要なのは反復練習なのだ。お手本で字のバランスを学び、それを自分の物とする。それ以外に近道はない。


 千佳ちゃんは『やっぱり練習しなきゃだよね』とちょっとだけ残念そうな表情で言いながら、カバンにノートや教科書を片付け始める。あれ、もうそんな時間かと壁に掛けられた時計を見ると、もう4時45分になろうとしていた。まずい、母との約束で5時には家に帰り着かないといけないのに。


 思いの外集中していたのか、それとも物思いに耽ってしまったのか。俺もバタバタとリュックにノートや鉛筆を詰めて、図書館の本棚から持ってきたペン習字の本を胸に抱える。


 千佳ちゃんと一緒に自習室を出て本を返し建物を出たら彼女は徒歩、俺は自転車なのでここでバイバイ。また次も一緒に勉強しようねと約束して別れる。


 早足で自転車置き場まで辿り着くと、校則で着けなきゃいけないと決められているダサいヘルメットを頭に被って、自転車にまたがる。5時まで多分あと10分ぐらい、間に合います様にと願いながら力を込めてペダルを漕ぎ出すのだった。

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