《終止》

 翌日の明け方。僕はいつものようにコーヒーを温めた。コーヒー豆を六十粒数え、コーヒーミルで豆を挽いた。湯を沸かしてマグカップに注ぎ、小振りなバターナイフで適当にかき混ぜた。

 コーヒーを温め終わると、僕は普段どおりの朝活を始めた。マグカップに口をつけ、やけに高級そうな日記帳を開いた。ベリカンの万年筆を握り、ザクザクと文字を勢いよく綴り始める。どうやら、この青年には決まった生活のサイクルが存在するらしい。

 青年は、普段通りの生活習慣では朝にコーヒーを飲み、夜は決して飲まないことを自分と約束していた。けれど、昨夜はその習慣に反した。言うなれば、いつもと違い変わったことをしたのだ。そして、そんな時に、あの女が来た。

 青年は、昨夜のことを鮮明に記憶に留め、日記に綴っていた。

 書き終えると、満足げな表情で日記を閉じた。丁寧な手つきで抽斗へと戻す。コーヒーをぐいっと飲み干し、洗面台へと向かった。

 洗面し、マグカップをきれいに濯いでから、青年は、着替えて出掛ける支度を始めた。

 いつもなら、このあとは日課の散歩を行い、帰ってきてからは、原稿用紙にひたすら文字を羅列させる作業を五時間ぶっ通しで行うのだが、生憎この日は違った。

 イングランド風のビジネスバッグに、丁寧に幾つか物を詰め込む。原稿用紙に万年筆。メモ帳にスケジュール帳。ジーンズ柄の財布にノートパソコン。次々と物を詰め込んでいく。

 さて、いつもの日課を置いて青年はどこへ出掛けるのか。

 行き先は、近くの喫茶店だった。

 昨夜、部屋に勝手に上がり込んできた女性は、青年に一枚の紙切れを渡してその場をあとにした。その紙切れの表には、とある住所がボールペンで一行だけ記されていた。特に何も考えず、青年はその紙切れの裏をめくった。そこには、鉛筆で薄く『クラシカル編集部(楽生千代)』と書かれていた。

 クラシカル編集部という名の出版社を青年は近年よく耳にしていた。昔から零細出版社として、少しずつ伝統と歴史を積み重ねてきたその出版社は、三年前に『ビート(BEET)』という名の出版事業を行うベンチャー企業に買収された。そして『ビート』は事業を本格的に展開し、社名を『クラシカル出版』に改名した。そしてニ年前からその名が売れ始めた。その当時、実に奇妙な会社だと青年は思っていた。以来、青年はクラシカル出版に関しての情報を密かに集めていた。

 青年の脳裏には、一年前の新人賞授賞式の時の記憶が鮮明に蘇っていた。

『歴史に名を残したければ、運命が扉を叩くのを待て』

 会場にいたある男は言った。その男は「楽生」とだけ名乗って青年のもとから去っていった。後で青年は知ったのだが、その男はどこかの編集レーベルの編集長だったらしい。

「楽生」と・・・・・・楽生千代。

 心のなかでその名を反復して唱えた。

 不自然なほど次々と手掛かりが揃い、密接に相互が繋がりを持って一つの真理を創り上げる。しかし、青年はその全貌をまだ掴めていない。ただ、青年はこの件に関して、誰かしらの意図と不思議な運命を明確に感じていた。

 青年の文學界においての立場と、あの女性編集者の来訪は、まるで異常なほど同律な音色を奏でていた。

 青年は、支度を終え、約束の時間に間に合うように、指定された喫茶店へと向かった。

 がちゃり、と音がする。

 


   *  *  *  *  *



「好きな女性のタイプは?」

 楽生千代が開口一番に発音した言葉は、ある意味低俗とも言えるものだった。その言葉を彼女が放った途端、店内には交響曲第六番ヘ長調「田園」が流れ始める。

 待ち合わせの喫茶店は、アンティークに統一された内装だった。装飾品の数々は僕の趣味に合ったものだった。朝焼けの差し込む光と、庭の緑が多彩に店を彩っている。にわかにオーク材の香辛料のような香りが迸る。薄めたメープルシロップのような、甘い香りだ。居心地の良い、味のある雰囲気の喫茶店だ。

 お洒落なこの喫茶店は、休日にも関わらずやけに人が少ない。店主と思しき白髪の紳士そうな老人は、豆をコーヒーミルで挽くのに忙しない。店内には店主と僕とあの女。それから、庭に一人少女が佇んでいるくらいだ。おそらくこの店は個人経営なのだろう。こだわり強いインテリアの数々や、挽かれている豆の香り、店主の佇まいからそれは推測できた。

 しかし、このような雰囲気の喫茶店で、このような美しい女性から、無愛想に「好きな女性のタイプ」について聞かれるとは思わなかった。それ以前に、僕は貴方の素性が知りたいのだが。

 けれど、この場に来てしまった以上、椅子に落ち着くしかなさそうだ。

「マスター。イタリアンローストの豆を六十粒。レギュラーで」

「・・・・・・よろしいのですか」

「・・・・・・ああ。混ぜなくていいよ」

「かしこまりました」

 僕はいつも家で飲んでいる通りのレギュラーコーヒーを注文した。さも常連のように。まあ、本来なら個人経営の店は店主がチョイスするみたいだが、僕はあえて注文した。それも、六十粒数えろと言っておいてブレンドを頼まずに。

「細かいのね」と女が微笑みながら言う。青年はそれを無視して彼女の隣に腰を掛けた。

 青年はちらりと庭を見やる。

「あの女かな、庭の」

「え?」

 僕は喫茶店の庭で猫と戯れている少女を指して言った。

「女の趣味」

「ああ。なるほど」と彼女は相槌を打ち「なら、丁度いいわね」と言って、彼女は不気味なほど朗らかに笑った。そして、庭の少女に手招きをした。その少女は、ぱっとこちらに顔を向け、清らかな笑顔とともに店内へと足を踏み入れた。その笑顔は、楽生千代と違って不純物が混じっているようには見えなかった。

 眩ゆい少女だ、と僕は思った。

 その少女は、純白のワンピースドレスを着ていた。結った黒髪に白のワンピースはとても似合っている。フリルのついたそのワンピースは、彼女の魅力を最大限に引き出しており、可憐に少女を着飾っていた。庭から差し込む朝日が少女を更に白く染める。

 その景色と情景は僕にとっては眩しかった。

「ヴェートーヴェン」

 彼女は唐突に言った。

 店内に流れる楽曲ががらりと変わる。楽曲は交響曲第五番『運命』に切り替わった。その寸前までに流れていた『田園』という楽曲は、第三楽章の終曲で急に切り替わった。いや、切り替えたのかもしれない。まるで、これから来る嵐を避けるかのように。

『運命』は強烈な音を炸裂させた。

「好きでしょ。ヴェートーヴェン」

 名前も知らぬ少女は言葉を続けた。

「ああ。まあね」

 僕はあえて無愛想にそう言った。

 僕の脳裏には、昨夜の恐怖が蘇る。

 運命が扉を叩くような恐怖が再び僕を襲う。その動揺を悟られまいと、僕は無愛想に応じた。

 ・・・・・・ーーー。

 僕達の沈黙と楽曲の急かすようなメロディーが、異様なほど店内の雰囲気を際立たせていた。それは、まるで楽曲が沈黙を独り歩きするかのような雰囲気だった。

 その空気が、少々の時間その場を満たす。

「じゃ、あとは若い二人に任せるわね」

 口を開いたのは楽生千代だった。

 楽生千代は僕と少女を残して店を出ていった。

 マスターが気にも留めていない様子を見ると、会計は先に済ませていったのだろう。恐らく多めに払って。

「もしかして、貸し切りなのか?」

 僕は少女にそう聞いた。

「ええ。そう。私と貴方のふたりきり」

 彼女の声音は、線が細く、消えてしまいそうだった。今にも枯れてしまいそうな声だった。ミステリアスでいて人を惹きつける。そんな声をしていた。

 僕はその印象を差し置いて、幾つかの気になることを尋ねてみた。

「どうして僕が楽聖のファンだと?」

「・・・・・・」

 彼女は沈黙した。その沈黙は、無反応を示すものではなかった。それは曲のリズムを整えるような沈黙だった。会話の調子を意図的に整え、場の呼吸をよんでいるかのように、僕には見えた。

「・・・・・・お客様。大変お待たせいたしました。こちら、ドイツ元来のドリップコーヒーで御座います」

 その時、見計らったかのようなタイミングで、マスターは僕が注文したコーヒーを出した。いや、あるいは出させられたのかもしれない。

「・・・・・・洒落てるわ」

「・・・・・・これが仕事ですから」

 ああ、そうか。

 僕は気付いた。

「六十粒のコーヒー豆」

 僕は淡白に彼女の答えを先回りした。

 おそらく、彼女はかのヴェートーヴェンの逸話を知っていたに違いない。ヴェートーヴェンは優れた楽曲を生み出すために、毎日決まったルーティンを行っていたと言われている。その中に、毎朝の朝活として彼はコーヒーを飲んでいたことが記録に残されている。それもコーヒー豆を六十粒数えて。そんな繊細な芸術家を象徴するような彼を、僕は心の底から尊敬している。

 その逸話を知っているからこそ、彼女はヴェートーヴェンの名を口にしたのだ。

 僕が「六十粒コーヒー豆を数えてからコーヒーミルにかけてくれ」と言ったときに、そのことに気づいたのは店主とこの黒尽くめの少女だけだった。楽生千代はおそらく気付いていない。

 ・・・・・・いや待て。

「じゃあ何故君はこの場に呼ばれたんだ」

 僕は率直に核心をついた質問をした。

「創作」

 彼女は淡白に答えた。

「なに」

「私と貴方の創作」

「何を創るんだ」

 それはあまりにも愚かな質問だった。答えがわかっているにも関わらず、それでも聞いてしまったのは、僕の作家としての本能が無意識に彼女の言葉の続きを促したからだ。


「小説」 


 瞬間、楽曲『運命』は第二楽章へと突入した。柔らかな音色が店内の雰囲気をがらりと変える。ステレオスピーカーが奏でるその音色は、明確に僕の人生の転機を告げていた。


 きっとこの感覚を人々は『運命』と呼ぶのだろう。

 

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六十粒のコーヒー豆 森野哲 @hyakushoseinen1230

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