六十粒のコーヒー豆
森野哲
《序曲》
時代遅れなガスコンロで温められている薬缶は蒸気を発し、つんざくような悲鳴をあげた。
それに気づかない様子の青年は、そのガスコンロが備え付けられてある、古めかしい1LDKマンションの住人である。暫くの間ぼけっとしている青年に、とうとう薬缶が絶叫をあげ始める。ピィーという不快な音が部屋中に響き渡る。
やがて、青年は我に返ったかと思うと、天井を見上げるのをやめ、勢いよくソファから飛び上がる。慌てふためいた様子で、キッチンへと飛びつき、ガスコンロの火を止める。やかましい薬缶の叫び声は鳴り止んだ。ふうと一息つきながら、青年は入念に元栓を閉めた。
時刻は日を跨ぐ寸前だ。青年はひとり「徹夜か」とぼやきながら、食器棚からマグカップを一つ取り出した。
ガスコンロの下にある棚から、アンティークなコーヒーミルと、ヴィンテージ風の瓶を取り出す。瓶の中はイタリアンローストの豆で満たされている。
青年は、コーヒーミルにイタリアンローストの豆を六十粒数えて入れる。妙に神経質で繊細な男のようだ。豆を数えて入れ終わったら、今度は慣れた手付きで豆を挽き始める。がりがりとした音が、薄暗い部屋にただ響く。酷く不気味な音だった。まるで、鋭利なヤスリで煉瓦が削られるみたいに、何かが削られ消耗する音がする。青年はそのことを気にも掛けていない様子だ。まるで、それが日常とでもいうかのように。
豆を挽き終わったら、少しだけ温度の下がったお湯をケトルに注ぐ。温度は、九十度といったところだろうか。そして、ペーパーフィルターを戸棚から取り出してドリッパーに置き、挽いた豆を丁寧にそこへいれる。
青年は、まるで洗練された職人の型のように、神経を研ぎ澄ませ、ゆっくりじわりとケトルで湯を注ぐ。青年は、沸きだつコーヒーの音に耳を澄ませる。そして、抽出したコーヒーをサーバーからマグカップへと移す。
やがて、あたりに芳ばしいコーヒーの香りが漂い始めた。
青年は猫舌なのか、その場で一度マグカップに口をつけようとして、やめた。それをそのまま書斎へと持っていき、部屋の机上へとそっと置いた。
天井の照明は薄暗く書斎を照らしている。散乱する書類や、本棚に入り切らない書籍が多く積まれており、少々散らかっている。部屋をぐるりと見渡すと、どうにも狭苦しく、息が詰まるようだ。そのくせ、変に高そうなアンティークの家具が至るところに備えてあり、書斎の情緒を印象的に醸し出していた。
青年は机の椅子に座り、マグカップの温度を指でそっと確かめる。空いているもう片方の手で抽斗を開け、使い古された万年筆と四百字詰め原稿用紙を取り出した。
そして、尊敬する音楽作家であるルートビッヒ・ヴァン・ヴェートーヴェンの交響曲第五番「運命」を流すため、机の右端の棚に設置されているステレオスピーカーの電源を入れた。コンポーネントタイプのレトロなスピーカーだ。程なくして楽曲が流れ始める。
まるで、運命が扉を叩くような、クラシックの力強い音が部屋中に反響する。それは、何かを暗示するかのような強力な音を奏でていた。
コーヒーを一服楽しんだあと、青年は安っぽそうな原稿用紙に万年筆で黒いインクの文字を書き殴り始めた。安価そうな見た目の原稿用紙は所々インクの波紋を滲ませていた。
それに反して、青年の持つ万年筆はドイツ製のブランド「べリカン」のもので、高級な代物だ。ペリカンの代表的シリーズである「ズーベレーン」を青年は愛用している。万年筆に関して言えば、青年のこだわりは強かった。しかし、そうというのに、原稿用紙は安価で量産された代物を使っている。そのギャップがどうにもいたたまれない。青年の確固たるこだわりと、ある部分粗雑な気質が作り出す双方の境界線は、どこか曖昧で計り知れない。
青年は一文字、また一文字と文字を刻んでいく。それもまずまず順調に。
しかし、ある一文を筆したのを境に、突然にして青年の様子は一変する。
文字を連ねるごとに、青年の表情が苦に歪んでいくのだ。
そして、青年は万年筆を静かに机上に置いた。原稿用紙には、『言の葉が扉を叩く音』と題された文が綴られている。その紙に乱暴に手をかけ、乱雑に破り裂き、勢いよく屑籠へと叩き込んだ。声にならぬ声を洩らし、ぐたっと腰掛け椅子へともたれ掛かった。
深く、深くため息をつく。
ステレオスピーカーから流れる「運命」の第二楽章の落ち着いた音色が、辺りを薄く包む。
青年は、いわゆる売れない作家の一人だった。
彼は元号が変わったその年に、『野性時代』という新人賞に応募し、見事受賞した。その処女作である『生命の帰る郷』は一時期、印刷が追いつかないほど売れていた。
しかし、それもただ一瞬の火花のように儚い記憶として、人々から忘れ去られてゆくことになる。なぜなら、青年は処女作を発表して以降、新作を書けずにいたからだ。新人賞に受賞して文壇へ上がったはいいものの、それ以来、世間からすればなんの音沙汰もないといった始末だ。そのうち、一年と半年の歳月が流れ、文芸界からも世間からも忘れられる存在となった。
ごく偶に話題に浮上することもあるにはあったが、所詮、「あいつは売れない作家だ」というような見識でしかなかった。
青年は深くため息をついたあと、暫らくの間、物々と独り言を漏らしながら天井の薄暗い照明の電球を眺めていた。
ごん、ごんごんごん。
遠くで誰かが玄関の扉を叩く音が聞こえる。その瞬間、なぜか部屋を包んでいた運命の第二楽章が、突如にして第一楽章のリピート再生を始めた。ダダダダーンと激しい音が唸る。焦らせるようなリズムが、まるで青年に、早く玄関に行けと急かしているようだった。
それが、まるで運命が扉を叩いたようでいて、青年は堪らなく恐怖を感じていた。この瞬間にも流れる交響曲五番の楽曲と、先程まで執筆していた小説にありえないほど不自然に重なっている。それが青年にとっては堪らなく怖かった。
しかし、同時に不自然なほど自然に青年の体は玄関へと動き出していた。そう、まるで無意識が体を乗っ取ったように。夢の中にいるような、浮きだつ感情のまま、青年は玄関へと向かった。
扉をがちゃりと開ける。
そこには、見たことのない美しい女性が立っていた。
「邪魔するわ」
その女は一言詫びを入れて、中にずかずかと入ってくる。相変わらず、スピーカーはクラシックの音楽を美しく奏でていた。運命はもう、第二楽章に突入している。穏やかなメロディーが流れ部屋を満たす。玄関外にその残響を残して、扉は閉まった。
女は既にずかずかと書斎の方へ行ってしまった。それを、ただ青年はぼうっと眺めていた。女に見惚れていたからなのか、はたまた、見知らぬ人間の突如の来訪に驚愕して動けなかったからなのか、それはわからない。ただ、青年の脳裏には、音楽にも言葉にも表せない、運命の来訪の感覚があった。恐らく、青年はその感覚に神経を研ぎ澄ませているのかもしれない。
やがて、夢から覚めるようにはっと気を取り戻し、慌てて女のあとを追いかけた。
青年が部屋に入るなり、女は「狭苦しくて吐きそう」と辛辣に苦言を吐いた。何なんだこの女は、と青年は苦々しく思った。その時はもう、先程の感覚は消えてなくなっていた。
その女はぴっと一枚の小さな洋紙の紙切れをスーツのポケットから取り出した。それを無造作に青年へと突き出し、有無を言わせずに受け取らせた。
青年は不思議そうな面持ちでその紙切れへ目を通した。
その紙切れには、何やら住所らしきものが一行流し書きで記されてあった。彼女は一言「明日の早朝の七時。この場所にて」とだけ言った。それから、書斎の扉を閉める音だけを印象的に残してその場をあとにした。
青年は、何がなんだかわからないまま、しばらくの間呆けていた。「一体誰だったんだ」という青年の一言は、空虚な書斎の空間にやけに響いた
何故かもう、ステレオスピーカーはクラシックの美しい音色を奏でてはいなかった。
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