夜の中に手を伸ばす。指先は輪郭をぼやけさせ、ほろほろと景色に馴染んでいった。視界が黒く塗り潰されてゆく。眠気が脳の奥を痺れさせた。上げたままの腕は疲れ寝具の上へ落ちてゆく。触れる布の感触は、指先まできちんと存在していた。

 闇はまだ、この身を溶かしてくれないらしい。その事実にひとり嘆息する。どうすればあの宴の場へ行けるのだろうか。やはり尋ねる相手もいないまま、静かな夜は過ぎていった。

 どうせ、消えようが消えまいが周囲に影響を与えるような人間ではないのだから、あの時とっとと消してくれれば良かったのに。幾度目かの愚痴は舌に乗せられることなく胸中を渦巻いた。

 頭は半分寝ぼけているのだろう。脈略のない思考はすぐにも別の事を考え始めていた。その時ふと、両親の顔が浮かんできた。そういえばしばらく会っていないと、天井を仰ぐ。最後に一度会っておこうかと思ったのは気まぐれだ。計画性は何もない。思い付きの行動に、明日連絡を取ってみようと予定は立てられた。闇に溶けるのは、それ以降の日程となりそうであった。

 にゃあと黒猫が鳴いたのは次の日の朝のこと。いつも通り会社へと向かう道の途中でそれは現れた。家を早く出た甲斐があったというものである。正直に言えば時計を見間違えただけなのだが、勘が働いたということにしておこうと思う。誰に言うでもなく言い訳を脳内で転がしながら手を伸ばした。人に慣れているらしい黒猫は、逃げることなくその指先を受け入れていた。

 ――いいのかえ?

 脳裏に直接声が響いたのはその直後のことであった。驚き離れた手を二つの満月が生意気に見下ろしている。どうやら、あの日の黒猫だったようだ。いいのか、とはどういう事だろうか。思考に固まる右手に黒猫は自ら頭を擦り付けてきた。するとまた脳裏に流れ込んでくる。声は優しく、そしてどこか揶揄うような音をしていた。

 ――あんた、闇に溶けるつもりなんだろう?

「……えぇ、そうですね」

 ――そしたらもう二度とこんな風に触れないのに。それでも、いいのかえ? 好きなんだろう、このイキモノが。

「えぇ好きですね。好きではあるんですけど……んー。でも、うん。別にいいんです」

 グルグル、猫の喉が鳴る。なれど瞳に懐いた様子はなく、冷たい夜の光に満ちていた。

 ――なぜ?

 静かな問いかけが脳を揺らす。

「なぜ、えー……なぜ、ですか。んー、何と、言いますか……。あ、ちなみに、こうやってあなたに触れた記憶も消えるんですよね?」

 ――そうさね。

「なら、いいかなぁと思っちゃうんですよね」

 ――何が、いいのかえ?

 たぶん、今自分の口許は微笑んでいるのだろう。柔らかな毛並みに触れるこの感覚に、それから闇に触れているこの感覚に幸福を覚えて、きっと笑っているのだと思う。こちらのそんな表情に猫は両目を細めた。

「自分が居なくなる所為で誰かが悲しむとか、迷惑かけるとかは嫌なんですけど。そうじゃないなら。自分が消えて無くなるだけなら、まぁ別にいいかなぁと」

 ――だけ、じゃあないだろう。

 こちらを試しているつもりなのだろうか。狐はあの時自分をその気のないハレだと紹介したのだから、そう思うのも無理はないのかもしれない。けれど、もう箍は外れてしまったのだ。正気のまま狂ったこの脳は、正常に誤作動をお越し続ける。だから、笑うのだろう。くつくつ、喉を鳴らして。

「だけ、なんでしょう。狐が言ってたじゃあないですか。記録からも記憶からも消えて無くなる。それだけだって。違いました?」

 ――あぁ、そうさね、それだけだ。けど……ねぇ、ハレの。生きるのは、退屈かえ?

「えぇ、そうですね。でも、それくらいで充分ですけど」

 ――そうかい。なら、良かったよ。

 じゃあね。と最後に言い残し、問答に飽きた黒猫は尻尾を揺らして去っていった。闇に連れていく気はないらしい。つれないその後ろ姿を見送った。


それで、親孝行は出来たのかよ。

 猿は、変わらず人のような姿で夜道に現れた。現れたと思ったら片手を上げて横並びに歩き始めた。いつの間に自分たちは友だちになったのだろう。その気安さに呆れた吐息はひゅるひゅると夜に紛れていった。左側ではガサガサ音を立てるビニール袋が揺れている。母から貰った食材たちだ。慣れない事をした所為だろう。雨でも降るのかねぇと笑った顔を思い出す。父は、一度視線を投げたきりテレビと向き直っていた。

「槍も降るかもね」

 軽口に母はさらに笑声を重ねた。朗らかな人だ。昔から。その陽気さに、時に苛立ち、時に笑って過ごしてきた。

「晩飯食っていけ」

 素っ気ない台詞は父のものだ。久しぶりで人見知りでもしているのだろう。静かで口数の少ない大人は子ども時分には怖いものだった。そういう性格なのだと理解してからはそれなりに仲良くやっている。母は流石に扱いが上手い。

「食ってけって父さん。お父さんが作るわけじゃあないでしょ」

「さっき準備してただろ」

「してましたけどねぇ。まったくもう」

 しょっちゅう口喧嘩をしては仲良くここまで暮らしている。その二人のやり取りでさえ、もう遠かった。ガラス一枚向こうの出来事。まるでホームドラマでも見ているかのような感覚にハハハッ、笑声は漏れた。

 ――どのみち、これも全部消えるんだ。

 ぽっかり胸に穴が空く。虚しさがそこを通り過ぎ、流れるはずの涙を乾かした。少し、指先が痺れている。この人たちの記憶からも自分は消えるのだと思ったら、少し怖くなったのだ。ほんの、少しだけ。消えるのが、怖くなった。

「なら、消えるのを止めろよ」

 いつになく、真剣な口調で猿は言った。あの飄々とした軽々しさはかけらもない。真面目な目付きだ。これは笑っても許されるだろう。本当ならば大口を開けて笑ってやりたいほどだった。けれど、静かな夜にそれは不釣り合いだ。だから声を殺して肩を震わせるに留めておいた。猿は、当然不機嫌だ。

「てめぇ何笑ってんだよ」

「なにって、当たり前でしょう。こんな、面白いことはない」

「はぁ?」

 ついには苛立ち立ち止まった、その襟首を掴む。乱暴な仕草に慣れないが故の己のおぼつかなさがまた笑えた。「んだよ、」鋭い、眼光が痛い。

「なんだよじゃあないでしょうよ、猿」

 けれど口許はまだ笑っていた。お前の所為じゃねぇかと、静かに言葉を紡ぐ。

「先に手を引いたのは、お前じゃないか。なぁ、猿。なのに、今さらお前がそれを言うなよ。お前があの日この手を引かなきゃずっと、夢のままだったのにさ。闇に溶けるだなんてそんな絵空事、現実になんてなりはしなかった。なのに、お前が、一線を越えさせたんだ。箍を外して、希望持たせておいて、今さら、止めんなよ」

 猿は黙ったままだった。黙ってこちらの手を振り払い歩きだす。やはり身勝手なそのイキモノにひゅるひゅるため息が落ちてゆく。どうやら、この身を闇へ溶かしてくれるのは猿でもなかったらしい。遠のいてゆく後ろ姿は一度振り向き、悪かったとそれだけ残して消えていった。夜にひとり取り残される。帰路はあと僅かだった。


 狐が現れたのはそれから一週間も経った頃だった。やる気もなく淡々とこなす日常はもはや色褪せて見えていた。コンビニの弁当が斜めっているのさえもうどうでもいい。いや、これは以前からだったか。もう中身も傾いているだろうに、今さら平らに整えて玄関を開けた。その先に、見事な紫陽花は咲き誇っていた。

「お待たせ致しました」

 狐の面は恭しく頭を下げ、こちらを出迎えている。疲れた頭は瞬間理解出来ずに立ち止まった。片手はまだノブに触れたままだ。振り返ればきっと、見慣れた景色が見えるのだろう。この中途半端な有り様に朱色の目もとは細まった。

「どうぞ、御心変わりのないようでしたら一歩お進みください。宴の支度は既に整っております」

 試すような口振りだと思うのは気のせいではないだろう。アレは、闇に溶ける事を反対していたはずだ。引き返すのなら今しかないのだろう。これがきっと最後のチャンスだ。直感が教えるそれらの感覚に唇は震えた。

「……今日は、もてなされているみたいですね」

 身体は未だ動けずにいる。怖じ気付いたわけではないが、現との別れを惜しむ気持ちは僅かにあった。

「えぇ、本日はお客さまですから。……あぁそれとも、事前に招待状を送った方が宜しかったでしょうか?」

 そんな心を読み取ってか、視線は冷え冷えと温度を無くしてゆく。言外に引き返せと言われているのだろう。否、それ以上に咎めるような雰囲気がある。そんな様で、闇に溶けるのかと言われているような、静かな怒りを感じるのだ。

 これならば不意に連れてこられた方がマシだっただろう。心の準備なんてものはするものじゃあないからだ。やりたい事もやらなければならない事も、数え始めればキリがないのだから。

「……いいえ、いつ迎えが来るのかと待ちくたびれていましたよ」

 狂ったまま強引に一線を越えさせて欲しかった。そう願うことも許さないのだろう、狐の面に向かって一歩踏み出した。左手にドアノブの感触はもうない。共に連れて来られたのは傾いたコンビニ弁当ひとつだけ。それだけを土産に足を踏み入れた。紫陽花が彩る細道を歩いた先は、睡蓮の浮かぶ大きな湖へと続いていた。

 瞬いては消える小さな光はたぶん蛍だろう。何度来ても目を見張る。幻想的な風景の広がる静かな夜の中で、大小様々な舟に乗った人成らざる者どもたちは、密やかに会話を交わしていた。

 どうぞこちらへと狐は小さな舟を指し示す。共に乗ればそれで一杯になる程に小さな舟だ。踏み込む足も慎重に、腰を下ろした。それは誰の助けもなくゆっくりと湖面を滑り出す。目の前を、淡い光が横切ていった。

「なぜ、ですか」

 それからしばらく、口を開いた狐は短い疑問文だけを投げて寄越してきた。当然、前後がなければ答えなど導けはしない。すっかり酔い、少しぼやけだした頭ならなおのこと。何がですかと聞き返すこちらに、狐は変わらず平坦な口調で問い直した。

「闇に溶けようと思った理由です。先ほどあなたは迷っていたように見えたものですから。……いや、事の始まりを申し上げれば猿が考えなしに連れて来ただけでしょう? 例えそれ以前に戯れに願っていたとしても、本気で溶けようなどと思うのは稀だと、わたしなどは思ってしまうのです。だから、なぜなのかと」

 あぁ。詠嘆しながら、また酒を煽る。透明な、水のような酒だ。いくらでも飲めると胃に落としたそこから、じわりと熱が広がっていく気がした。

「やりたい事は、あります。やらなければいけない事も、たくさんあります。ただ平凡に、生きて死んでいければそれは幸せだとも思います。普通に、思います」

 はぁ。同意とも呆れとも取れる相づちを打って、狐はまた盃を満たした。それをまた煽る。熱が脳を溶かし始めた。

「思うんですけど、それ以上に。産まれてなんかこなければ良かったと、そんなことをもう考えなくてもいいんだと思ったら、それ以上に幸せなことなんてないんじゃないかって、思ってしまったんですよね。……それに、誰にも迷惑かけずに消えることが出来るじゃないですか。面倒な手続きも片付けも何もなく消えてしまえるのも、とても魅力的ですし」

「はぁ、幸せで、魅力的、ですか」

 盃が乾く間もなく酒精は注がれる。

「分かりませんか」

「えぇ、分かりませんねぇ」

 頭は半分も働いていない。寝ぼけたような感覚だ。あははと笑ったのはたぶん自分だろう。それすらも、よく分からないまま言葉を紡ぐ。

「それは、幸せですね」

 そう言って、また酒を飲み込んだ。

「えぇ、きっと」

 狐はどんな顔をして答えたのだろうか。それが少し気になった。笑ったような気がしたのだ。見間違えかもしれないが、しようがないとでも言いたげなその口元に許された気もした。闇に溶けるだなんて馬鹿げた行為を、許された気になったのだ。

 ならば、いいかと酒を煽り続ける。もう、狐が喋る言葉も、己が話す言葉も曖昧に耳朶に触れて過ぎてゆくだけだ。とうに酒量は限界を越えているのだろう。少しずつ意識が薄れていく。その中で、右手だけは酒を求め続けていた。ここまでくれば機械的にと表していいだろう。酒に呑まれ揺蕩うままに、傾く徳利に差し出しす盃。待つことなく満たされる酒を飲み干し空にしたそれを、また差し出し、注がれる。それをまた煽って、空にして。満たして、煽って、空にして。満たして、煽って、空にして。満たして、煽って、空にして。また満たして、煽って、空にして、微睡んで、己の輪郭が崩れてゆく。

 それを、感じながら。また満たして、煽って、空にして。少しずつ消えてゆく。

 この感覚を、溶けると表すとは言い得て妙だと微笑した。口許に、満たした盃をまた運び、煽って、空にして、また差し出す。それだけを繰り返す。右手を、盃を、眺め続けた。

 満たして、煽って、空にして。

 満たして、煽って、空にして。

 満たして、煽って、空にして。

 繰り返し、繰り返し。

 満たして、煽って、空にして。

 満たして、煽って、空にして。 

 満たして、

 煽って、

 空にして、


 満たして、


 煽って、


 空にして、



 満たして、



 煽って、



 空にして、




 満 た し て 、




 煽 っ て 、




 空 に し て 、




 満 た し て




 煽 っ て




 カ ラ に 

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夜話 雨月 日日兎 @hiduki

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